第9話


建物の外では灰色の空が広がっている。

最後に見たのは曇りだったが、帰る頃にはどうなっているだろう。


「傘持ってきてないのに」


忘れた事実に舌打ちをする。

いざとなれば、車まで走ろう。琥珀を濡らさなければ良いのだから。

今日も今日とて、ザクロは琥珀を眺めていた。

今日の琥珀の仕事は新しいアルバム作成。そのための作詞作曲だ。

ホテルで缶詰になっていたのだが、飽きたのか今日はスタジオが良いと言われて取った。

ブースの中で歌う姿は真剣そのもので、普段は見れない部分を見れる。


(良い声)


スタジオほど守りやすい場所もない。

外につながる窓はなく、一つしかない入口に注意していれば良い。その隣で背中を壁につけ、楽な姿勢を取っていた。

見知らぬ人がいればすぐわかる。元々、人も少ない。琥珀とザクロ以外には、機材を動かすためのスタッフが二人いるだけだった。琥珀が今まで一緒に音楽を作ってきたスタッフで顔見知りだ。

両方既婚者であり、ザクロとしても安心できる。


「ここの音はーー」

「でも、私が表現したいのはーー」


専門用語が飛び交う。音楽にとんと疎いザクロは、彼らの作業を眺めているだけ。

琥珀が指示を出して、何のスイッチかわからないものを上下させる。

また琥珀が歌う。調整する。

その繰り返しで音楽ができるんだと思うと不思議だった。

ブースの中歌詞の入った譜面は手書き。流れる音も琥珀がパソコンで作ったもの。

収録本番なら、もっと大人数になることもあるらしい。生演奏と合わせる場合は規模も違う。

琥珀の付き人になってから、教えられたことだった。


「ねー、ねー! あの話、もう言った?」


「あー、休憩!」と集中力が切れた琥珀がブースから出てきた。

壁から背中を浮かせる。ブースの中から、琥珀が一直線にザクロのいる方向へと向かってきていた。

ソファや飲食物が置かれた場所は入り口とは反対側にも関わらずだ。


「……何のことですか?」

「分かってるくせに」


詰め寄る琥珀からひらりと一歩横に逃げる。背が高いから、詰め寄る寄られると圧が強いのだ。

白を切ると琥珀は小さく口角を上げ、魅力的な上目遣いを投げてくる。

ザクロは苦笑しか出ない。この頃、一日一回はこの話をされる。


「いいじゃない、同居。そうすれば、あなたも迎えに来る手間が省けるし」

「琥珀さんが良くても、わたしがよくありませんから」

「えー」


腰に手を当て唇を尖らせる姿は、格好良さと可愛さが見事にミックスされていた。

移動する気はなさそうだ。

せっかくの休憩なのにこのまま立ち話で潰すわけにもいかない。

ザクロは後ろ手に鍵をかけてから、ソファへと移動した。後ろをヒヨコのように琥珀が着いてくる。


「良い物件、無かったんですか?」


ソファに琥珀を座らせ、細かい花の絵柄が散りばめられたパッケージを開ける。ハーブティーらしい。

ペットボトルばかり使っているザクロには種類も、どんなメーカーかも分からない。

名前だけは覚えた。琥珀がこのメーカーばかり指定するからだ。

湯気のたつコップを琥珀の前に置いた。


「良い物件はあったわよ。ザクロが探してくれたんでしょ?」

「……城田です」


「ありがと」と小さくお礼を口にしてから、琥珀はコップに口をつけた。

一つは取っ手を、もう一つの手は指先を添えるだけ。

こうやってお茶を飲む姿は優雅な芸能人でしかない。

ザクロは苦笑を漏らす。


「じゃ、そこで良いじゃないてすか。迎えには行きますし」


なぜ同居にこだわるのか。分からない。

今だってボディガードとして、ほぼ1日中一緒にいる。スキャンダルに目を光らせているため、一人で出歩く場面はほぼない。

そのほぼない機会でも種を撒くのが琥珀なのだけれど。

ザクロは首筋に手を当て首を傾げた。


「そうかしら」


琥珀はちびちびとコップに口をつけ、視線だけをザクロに投げかける。

物言いたげなそれを、琥珀は目を逸らすことでブロックした。


「物件が決まりそうなら、社長に連絡しておきます」


袈裟懸けにしたスマートフォンホルダーからスマホを取り出す。

画面を見つめている間も常に見つめられている。一挙手一投足を見られている圧力は嫌なものだ。

これが芸能人の常だとすれば、自分には向いていない。


『もしもし?』

「ザクロです。社長今、良いですか?」

『あー、ザクロか』


数コールで永田が電話に出た。

ボソボソとした声に影を感じて、ザクロは声を低くした。

モノリスが今抱えている案件でトラブルがあるのは琥珀だけ。

緊張が背筋を伝わり姿勢を正す。視線だけで琥珀を見る。スマホの画面をチェックしていた。


「何かありました?」


トラブルが起こるとしたら、急な変更か、スキャンダル絡みの話。

頭の中で予定を整理するも露出は切ってある。

問題が新しく発生するとすれば、SNSの炎上くらいか。

新しい男関係はザクロが片っ端から潰している。


『いや、琥珀に直接は関係しないんだが……琥珀はそこにいるか?』

「琥珀さんですか? いますよ?」


琥珀には関係ない。

その言葉に少しだけ肩の力が抜けた。耳にスマートフォンを当てたまま琥珀を振り返る。

自分の名前が聞こえたのか、顔を上げて首を傾げていた。


「どうかした?」


元々大きい瞳が丸くなって、少し幼さが増す。

小刻みに首を横に振り、分からないことを示すと、コップを置いて立ち上がった。

ザクロの側へ近寄ってくる。それを視界の端に捉えながら、永田の声に耳を傾ける。


『怪しい人物は琥珀の周りにいないか?』


驚きと懸念。ここ数日の様子を思い浮かべる。

だがーーザクロはわざと軽い調子で口した。


「いませんよ。琥珀さんが拾ってくるクズ男なら、よく見ますけど」

「ひっどーい!」


隣に来た琥珀にわざと視線を合わせ告げた。

琥珀はわざとらしく頬を膨らませると握りこぶしを作って上下させる。

その姿に頬を緩ませ、すぐに切り替えた。


「事務所の周りにいるんですか?」


琥珀の周辺について、今はザクロが毎日報告を上げているし、昔の縁については城田が調べている。

わざわざ確認するまでもないことだ。


(報道陣か、琥珀さんの男関係か……どっちにしろ、対応しなきゃ駄目だな)


その場合、ザクロがすべきは琥珀の安全確保。具体的にはホテルの移動だろう。同じ場所に留まるのはリスクが高い。

段取りが組み上がっていく。

ザクロの計画を潰したのは、永田が告げた一言だった。


『いるというか……燃えた』

「は?」


スマートフォンの向こうから聞こえた言葉が信じられなくて、ザクロは一度画面を耳から離し確認した。

画面には永田の名前がしっかりと書いてあったし、変わらず向こうから彼の声も聞こえてくる。

モノリスが燃えた。

それを飲み込むまで、時間が必要だった。

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