第7話


琥珀を泊まらせたのは、事務所から歩いていけるホテルだった。

ビジネスホテルに毛が生えたような簡素な部屋だ。

ベッドはシングル。壁際に鏡が貼り付けられ、その下に長い木目調の机があった。

足元には小さな冷蔵庫があり、琥珀のリクエストで水とお茶、あとはチーズとナッツという食事とも言えないものだけ入れてある。

作業中でも片手間で食べれるものが良いらしい。

ベッドの上にパソコンやら楽譜やらが散らばっている。子供の夏休み最終日のような有様だ。机は使わず、そちらで作業をしていたのだろう。

ザクロは部屋の惨状には目をつむって咳払いをひとつした。


「さて、琥珀さん」

「はーい」


窓際に置いてある小さな円卓の奥で琥珀は子供のように手を上げた。籐で編まれた椅子は大きく、彼女の身体を囲むようになっていた。

ホテルということもあってか、服装はゆったりとしたワンピースで、オフホワイトの裾が緩やかに動く。

軽やかな服装に、化粧してないくせに美しさを失わない顔。アンバランスな子供がそこにはいた。

とりあえず、楽しそうなことにホッとする。ストレスにどう行動するかまで、まだ読めない上に、ろくな事にならない予感だけがあった。


「あなたの私物は、私が仕舞って新しい引っ越し先に運びます。どうしてもすぐに必要なものがあれば、取ってくるので言ってください」


ザクロの言葉に琥珀は長い足を抱えた。それから、顔の脇に指を添えると小首を傾げる。

いちいち、やること成すことすべてが様になる人だ。ザクロは小さく息を吐き出す。

芸能人、とくに色気がある人間の相手は苦手だ。見えない圧力をかけられている気分になる。

とはいえ、どうすれば自分が魅力的に見えるか知っているのは芸能人としては利点なのだろう。


「んー、特には……必要な機材はいつも仕事道具として持ってるしね」


あっさりした答え。

今、ベットの上に広げられているのが、その機材たちだ。昨日、移動してもらう時点で念を押されたもの。

ザクロは苦笑いを浮かべたまま、窓枠に少しだけ腰を体重を預けた。


「琥珀さんの部屋に入ることになりますし、想い出の品とか」


琥珀を見て、ザクロは言葉を止めた。雰囲気が違う。

いつの間にか琥珀はスマホ片手に、何かを画面に打ち込んでいる。どうやら音楽の神が降りてきているようだ。


「ないわ、ないない。私、想い出らしい想い出もないもの」


顔を向けることさえせず、琥珀がパタパタと手を振る。

話せるだけ器用なことだ。


「家族とのものとか」

「ないわよ、両親いないから」


さらりと零された情報の重さに、ザクロは息を呑んだ。そっと目だけを動かし、琥珀を観察する

画面に集中している琥珀はザクロの様子に気づいていない。

それどころか、まるきり関係ないように無表情にスマホと向き合っている。神に愛された人間の顔だ。


「そう、ですか」


きっと、こういうとき邪魔をする男が容赦なく切られるのだろう。

確認するまでもなく伝わる。ザクロは静かに琥珀を見守った。

部屋には琥珀がスマホを叩く音と、空調の低い振動だけが響いている。不思議と静謐な空間。そんな空気は数分も続かなかった。

ふっと顔を上げた琥珀は、いつもの琥珀に戻っていた。ほっとした自分がいることにザクロは驚いた。


「なんの話だっけ?」


こちらを見て首を傾げる琥珀に、ザクロはお手上げと両手を上げた。

苦笑しつつ「引っ越し先の話ですよ」と伝えた。

家族の話に踏み込むなんてできるわけもない。自分にとっても好ましい話題ではないのだから。


「部屋の希望はありますか?」

「前と同じくらいの画面とソファが入る部屋があること。これは絶対よ」


綺麗な二重に縁取られた瞳が真っ直ぐにザクロを見る。

色素の薄い瞳は大人びた外見とは違い、子供のような光に満ちていた。

それでいて言うことがこれだ。一番使用感のあったテレビとソファのこと。

永田が「琥珀は歌が一番」と言った意味がわかる。

まるで親戚の子のワガママを聞くような気持ちになり、ザクロは軽く頷く。


「見繕っておきますね。候補ができ次第、内見してもらいますから」

「えー、面倒だなぁ」


予想通りの答えに琥珀を見れば、唇が三角形になっている。先程までの神々しさは欠片もない。

自然に、感じるままに生きている。ザクロは胸が暖かくなった。

男絡みのスキャンダルを起こすところは、直してほしいけれど。

ザクロはくすくすと小さな笑みをこぼした。


「お願いします」


緩んだ気持ちが伝わったのか、一瞬、琥珀の動きが止まる。白い肌にじんわりと赤みが増していく。

疑問と困惑。

ザクロは慌てて気を引き締めた。壁から背を浮かせて琥珀の側に行こうとしたら、白い手の平に止められる。


「大丈夫、分かったから」

「環境の変化も大きいですし、体調が悪かったら教えてくださいね?」


事務所の移籍だけでも大きいのに、無理やり引っ越しまでさせてしまった。

男を振り払うためとはいえ、ストレスは大きいだろう。

ザクロの言葉に、琥珀はキョロキョロと視線を動かしたあと、観念したように声を漏らした。


「……はーい」


左手につけている腕時計へ目を落とす。予定時間を少しオーバーしていた。

腑に落ちない部分はあったが、そのままにしてきた琥珀の部屋を片付けないわけにもいかない。

椅子に膝を抱えたままの琥珀の前を通り出口へ向かう。琥珀はじっとスマホの画面を見つめていた。


「では、片付けに行ってきます。どこかに出かける時は連絡して下さい」

「わかってるわよ。片付け、よろしくね」


顔を挙げず、言葉だけで見送られる。

ザクロは小さく頭を下げてから、ホテルの廊下に出た。

こちらを一度も見なかった琥珀の横顔が印象的だった。


「想い出の品はない、ね」


もし、自分が琥珀のようにいきなり部屋を移ることになったら何を持ち出すだろうか。

少し考えて、すぐに頭を軽く振った。

きっと同じ。

仕事に必要なものだけを持ったら、未練はない。


「嫌な共通点」


ザクロは今度こそ、琥珀の部屋を片付けるため外に向かった。

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