似非文学と七賢
道草
第1話
文学とは何か。
この空漠たる問いを闇雲に考える無謀な七人の賢人がいた。正確には六人と一匹であるが、ここでは便宜上「七賢」と呼ぶ。
七賢は定期的に竹林の「図書館」へ集い、そこで文学を巡る阿呆な談義に耽った。一見高尚な集いであるかのように思えるが、賢人とは名ばかりで、実情は生粋の奇々怪々集団である。
何が奇々怪々かと言えば、まず体裁が奇々怪々である。
ある者はぴちぴちの極小アロハシャツを着こなしているし、ある者は全身に難解な数式を書き込んでいるし、またある者はミートソースの染みがついた僧服を着ている。頭から火を噴いたり、地上数センチメートルをぷかぷかと浮遊したり、怪しげな速読術で書物を高速で繰る者もいる。
七賢の会合場も、俗世を離れた奇妙な場所である。
彼らの集う「図書館」とは竹林の中に造られた建物であり、古今東西の書物や骨董品が雑然と収められている。ごく控えめに言って、混沌たる汚らしい場所である。点在する椅子や机のほとんどが本に埋もれ、あるところでは本が鉄壁の要塞を成し、またあるところでは、あべのハルカスもかくやと思われる積読タワーが屹立し、森のように生い茂る観葉植物が一種の生態系を築きつつある。
そのような場所で、大量の本に浮き沈みしながら妄想議論を呈するような輩である。無論ただ者であるはずがない。
本来ならば、私とは無縁の人間たちであるはずだった。しかし文学の女神の悪戯か、はたまた前世からの因縁か、私は彼らと出会うこととなる。
そこで私は、似非文学というものを知る。
*
事の発端は、妹から送られてきた一通の手紙であった。
私の妹は今春より華々しきキャンパスライフを満喫する女学生であり、大学の近所にアパートを借りて一人暮らしをしていた。名はこまちという。
こまちからの手紙には「会わせたい人がいる」という旨の記述があった。どうやらその人というのは、文学の真理を追い求める人であるらしかった。
こまちがその人を私に紹介したのは、恐らく私が小説を書いているからだろう。曲がりなりにも、小説を生業としている人間である。
手紙を読んだときは、僅かに興味もあった。その上長らくこまちにも会っていなかったから、そのついでに会いに行くのもよかろうと思っていた。
そうして私は手紙を受け取った三日後に電車の切符を買い、電車に乗ってこまちの下へと向かった。
久しぶりに兄と再会したときのこまちの最初の一言は「ん」であった。
しかし、こまちは決して冷淡な人間ではない。彼女は口数の少ない人間である。こまちとは長年同じ屋根の下で育ってきたが、彼女が言葉を発するのも表情に出すのもごく僅かであった。涙を流したのも、恐らく母の腹から産まれたときと花粉が飛来してきたときくらいであろう。
「どうだ、大学は」
私はこまちの部屋に入るなり、そう尋ねた。
「ん、まあ」
「まあまあかね」
私は言った。「いいじゃないか、中庸で。ハハ」
「ん」
季節は夏であった。蟬もあちこちで鳴いていた。こまちの部屋にはリサイクルショップで買ったという扇風機がカタカタと音を立てながら回っていた。
「小説は?」
こまちは麦茶をコップに注ぎながら言った。恐らく現在執筆中の小説のことを聞いているのであろう。
「ぼちぼちだ。妙案が突如降ってくることもなく、かと言って立ち止まることもなく」
「なる」
こまちは昔から「なるほど」を短縮させて「なる」と言う。いつしかそれは家族の間で伝播し、我が家では全員が「なる」「なる」と言うようになった。
私は麦茶を一口飲み、「それで、会わせたい人というのは」と話を本題に移した。
「明日の晩に、会合がある」
「どこで?」
「このアパートから北の方。竹林の中にある『図書館』で開かれる」
「なんじゃそりゃ」
私はコップを机に置き、「何故竹林に図書館があるんだ」と言った。「夜の竹林は妖怪が出るぞ」
こまちは私の言ったことを無視し、「そこでその人に会ってもらいたい」と言った。長らく一人暮らしをしていたせいで、こまちも幾分かドライになったようである。ここは兄として妹の成長に感心すべきか、はたまた悲しむべきか。
「ちなみにその人の名前は?」
「怒髪天」
奇ッ怪な名前である。まるで神である。
私は金剛力士像のような、イカツイ形相の大男を脳裏に思い描いた。もしや本当に文学の神だろうか。
「それは男か」
「ん」
「どんな男だ」
「大柄で、肩幅が少なくとも私の倍はある。いつも僧服を着ていて、スキンヘッド。頭から火を噴く」
「それは人間の男というより、むしろ妖怪変化の類いなのでは」
しかし、こまちは冗談を弄しているわけではないようであった。もともと冗談を言うような人間ではない。恐らく本当に火を噴くのであろう。
妹は如何にしてかかる男を知ったのか。少なくともただ者ではない。色んな意味で。
私は「どうやって彼と知り合ったんだ」とこまちに聞いた。
「声かけられた」
「何と言われた?」
「『貴君には文学の才がある』と」
「それで、どうした」
「竹林の『図書館』へ行って——」
「おいマテ、まさかついて行ったのか」
「ん」
「知らない人について行ったらダメでしょう!」
確実に、アブナイ人である。こまちの話から想定される怒髪天という人物は、肩幅が常人の倍ある僧服の大男で、道行く女学生を捕まえては「貴君には才がある」などとたぶらかし竹林に拉致するスキンヘッドということになる。明らかにド変人である。
「……それから?」
私は恐る恐る聞いた。
「『図書館』には賢人を名乗る四人くらいの人がいて、その人たちと文学に関する議論をした」
それからこまちは、冷静な表情で恐るべきことを言い放った。
「会員に一人欠員がいるというから、私が入った」
なんと彼女は、私の知らぬ間に怪しげな会合に加わっていたのである。
血を分けた妹が、恐らく奇人の集まりであろう会員の一人であるというのは衝撃的な話であった。私は彼女の行く末を心配しかけたが、小説家という綱渡りの自営業を営む自分に言えたことではないとも思った。
それからしばらく私たちは話を続けたが、やがて日が暮れるとこまちは「晩ご飯」と呟いて立ち上がった。
彼女はキッチンに立ち、何か作り始めた。
しばらく時間がかかりそうだったので、私は机の上に原稿を広げてペンを握った。現在執筆中の小説である。
外から聞こえてくる夏虫の声とキッチンの音を聞きながらペンをかりかり動かしていると、こまちが盆におにぎりと味噌汁を乗せて持ってきた。
そのおにぎりが見事な三角形で、私は思わず「おォ」と感嘆してしまった。いつの間にこの技術を身に付けたのか。私が握るといつも手榴弾のようになってしまうから、是非とも教えていただきたいものである。
「いただきます」
我々は手を合わせ、そう言った。
味噌汁は具がてんこ盛りで、汁というより茹で野菜を盛り付けたようであった。そういえば、我が家の味噌汁はいつも具沢山であった。私はボンヤリと昔のことを振り返りつつ、銀杏切りにされた大根を口に運んだ。
「毎日ちゃんと食べられているのか」
綺麗な三角形に齧り付きながら聞くと、こまちは「ん」とだけ答えた。かく言う私はコーヒーばかり飲んでいておおよそ健康的とは言えないが、ここではあえて言及しないことにした。
それから私たちは風呂を終え、布団を敷いて寝ることにした。
こまちは「課題がある」と言って学習机で何か作業をしていたが、その後ろ姿を眺めているうちにうとうとと眠たくなってきて、気付けば私は寝入ってしまっていた。
*
話は翌日の深夜へ飛ぶ。その日の日中はほとんどこまちの部屋に籠っていて特筆すべきこともなかったので、省略することにした。
ちょうど日付が変わる直前に、我々はアパートを後にした。七賢が集うという竹林の「図書館」を目指すのである。
竹林はこまちのアパートから歩いて数十分の距離にあった。竹林に着くとこまちは持っていた懐中電灯を点け、明らかに道ではない竹と竹の間をズンズン進み始めた。
私は藪蚊を払いながら、背中越しにこまちに聞いた。
「本当にこんな竹林に人が集まるのか?」
「ん」
「狐だか狸だかに化かされたのでは」
こまちはまるで道が見えているかのように、迷うことなく竹林を進んだ。一方私は大量の汗をかいていて、藪蚊に刺されたところも痒くて仕方がなかった。
私が「帰りたい」と呟きかけたとき、こまちが「ここ」と言って足を止めた。
彼女の懐中電灯の照らす先には、竹林の中に佇む木造の建物があった。窓からは橙色の光がかすかに漏れ出ていた。どうやらそこが「図書館」であるらしかった。
こまちは入口と思しき扉を開け、そこから中へ入っていった。扉のすぐ横に狸の信楽焼があり、首をかしげながら上目遣いで私を見てきた。よく見るとその腹には「悪霊退散」の札が張られていた。
室内に入ると、そこは雑然たる空間であった。壁には様々な本棚が並び、本棚から溢れ出た本が床の所々に積まれていた。天井には大小様々の電球や幾何学模様のオブジェ、国旗、太陽系模型、何かの干物、柴犬のぬいぐるみ、招き猫等々が吊り下げられており、至るところで観葉植物が生い茂っていた。
「来たかね」
部屋の奥で、突如誰かがそう言った。私はその姿を一目見て彼の正体を理解した。
屈強たる体躯、僧服、スキンヘッド——そしてなにより、その脳天では真っ赤な炎が盛んに燃えていた。間違いなく、彼こそが怒髪天である。
怒髪天は地が揺れ動くかと思うほどの低い声で言った。
「ようこそ『図書館』へ」
「図書館」には怒髪天しかおらず、他の会員はまだ来ていないようであった。彼に促され、私たちは床に積まれた本に腰をかけた。
彼は山積みになった本の上にあぐらをかいていた。よく見ると僧服の襟元にミートソースの染みがあった。
頭の炎は依然燃え続けていた。いつまで燃えているのか。熱くないのか。何故平然としているのか。
「貴君かね、小説を書いている兄というのは」
「ええ、そうです」
私がそう答えると、彼は私をまじまじと見つめた。その眼光は鷹のようでもあったし、好奇心が入り混じっているようにも見えた。
「貴君は、何故小説を書く」
先程から怒髪天の眉間には清津峡のような深い皺が刻まれており、回答次第では怒声と共に雷が落ちてくるのではないかと思われた。輪形の太鼓と手にばちをもたせれば、雷神そのものである。くわばらくわばら。
私は返答に窮した。怒髪天の威嚇めいた表情と炎に尻込みしてしまったというのもあるが、そもそも今までに何故小説を書くかなどと考えたことはなかったのである。
「わからないのかね」
私が言葉を発せずにいると、怒髪天は「まぁよかろう」と言った。「小説を書くことは好きかね」
「嫌いではないです」
「ふうむ。では、文学は何のためにあると思う?」
これまた難解な質問である。
私はしばらく考えて「わかりません」と答えた。
「ウム、それもまたよし」
先程から、彼は一体何を求めているのか。わけがわからない。それから、頭がずっと燃えているのが気になって仕方がない。
私の視線に気が付いたのか、怒髪天は「鎮火するまで少し時間がかかるのだ」と言った。「『妄想焦熱術』だ」
「何ですかそれは」
「思考を巡らせることで脳の血液循環を促し、血液と血管壁の摩擦熱によって皮脂に着火する技だ。これを会得するためには長年の修行と、それ相応の覚悟が必要となる」
「なる……ほど」
理屈を聞いたところでそう易々と納得することはできないが、現に彼の頭は燃えている。血流によって発火するほどの思考とは、どれほどのものだろうか。彼は「思考」という言葉をつかったが、「妄想焦熱術」という術の名から考えるに、妄想のことであろう。
「私はこの技の代償に一切の頭髪を失った」
果たして髪を犠牲にしてまで身に付ける必要があったのだろうか。日常生活において頭から火を噴く場面などまずないのだから、遭難でもしない限り無意義なのではないか。
「何を妄想していたんですか」
私は聞いた。
「幾千人の美女が、束になって私を口説こうとしてきたのだ」
謎である。一切が謎である。
本当に彼は何者なのか。
やがて怒髪天の炎がおさまってきたとき、背後の扉が開く音がした。
振り返るとそこには、黄色いアロハシャツを着た男がいた。男はふくふくと太った体つきをしていたがアロハシャツは異常に小さく、今にも豪快な音と共にはち切れそうであった。
男は団扇でぱたぱたと首元を扇ぎながら言った。
「暑い暑い、マンゴーフラッペが飲みたいな」
彼は私たちに気付くと「アッ、こんばんはぁ」と会釈した。
男は全身の肉を揺らしながら、本をまたいで私たちの傍へ歩いてきた。彼は大量の汗をかいていて、全身が揺れるたびに辺りに汗が散っていた。
近くで見ると、肌が赤ちゃんのほっぺたのようにもちもちであるのがわかった。思わずつついてしまいたくなるような、白く美しい肌であった。
「キミがこまちちゃんの話していた小説家かい?」
「ええ、そうです」
男は私の体を見て「へえ」と呟いた。「小説家ってのはやっぱり、皆もやしみたいに痩せてるものなんだなァ」
すると怒髪天が「彼も七賢の一人だ」と男を指し示した。
「よろしく。竹藪と呼んでおくれ」
彼は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「ちなみに竹藪は、この竹林の天狗だ」
「……天狗。てんぐ?」
先程から怒髪天は納得し難いことばかり話している。しかし何故だろうか、妙な説得力があるのは。こまちは平然と受け入れたのか。恐るべき妹である。
「キミ、さては疑っているなァ?」
「いや、まさか」
「じゃあボクが天狗であるという証拠を見せてやろう」
そう言うと、竹藪は「ふにゃ」と呟いて床を蹴った。すると彼はくるりともんどり打って、そのまま床から数センチメートルの高さであぐらをかいた。
驚きであった。鏡餅のような体をした竹藪が軽やかな動きを見せたことがまず驚きであったし、その上浮遊しているのである。わけがわからぬ。
だが、もう少し高さをだせないものなのか。
「どうじゃ!」
竹藪は数センチメートル宙に浮きながら意気揚々と言った。
私は「もうちょっと高く浮かべませんかね」と言った。
「無理に決まっているだろう!」
「はぁ……そうですか」
「これ疲れるんだから!」
すると、怒髪天がまた話し出した。
「竹藪は生粋の天狗であるというより、半人間の天狗である。力が弱まっているのであろう」
竹藪は床に尻を据え、ウンウンと頷いた。
「オモシロくてずっと人間に化けて生活していたら、戻れなくなったのさ。だから昔は空を飛べたし、鼻だって高かったし、タケノコと意思疎通もできたし、妖魔退散の羽団扇だって持ってた。羽団扇はなくしちゃったんだけど」
どうやらマヌケな天狗だったようである。
「でも、やっぱり人間の生活も悪くないね。食い物は旨いし、道具は便利だし、街を歩けば美女もいるし」
そう言って竹藪がよっこいしょ、と立ち上がったとき、どこからともなく三味線を弾く音が聞えてきた。「どういうこと?」とこまちの方を見やると、彼女は「猫又」と一言呟いた。
三味線のべんべんという音は次第に大きくなり、やがて止まった。しばらくの沈黙の後、今度は本棚の方から「むぎゃあ」と何かの鳴く声がした。
声の方へ視線を向けると、そこには饅頭のような三毛猫がいた。背中には小さな三味線を携えており、その後ろで二本の尻尾がゆらゆらと揺れていた。私たちの視線に気が付くと、三毛猫は「むぎゅ」と奇妙な鳴き声を発した。
「猫又ちゃーん、おいでー」
竹藪は両手を差し出しながら猫のいる本棚の下まで行き、「降りておいでー」と言った。
すると猫は前足を宙へ滑らせ、落下し、竹藪の顔に着地した。竹藪は衝撃で積まれた本の上に倒れ込み、猫は何事もなかったかのように倒れた彼の腹の上で丸まった。竹藪は「んー、可愛いねぇ」と言ってその姿勢のまま猫を撫でた。
私はこまちに「何だ、このヘンテコな猫は」と耳打ちした。
「猫又」
「普通の猫には見えないが」
「普通の猫じゃないから」
「実は猫又も七賢の一人なんだ」竹藪は猫又とじゃれ合いながら言った。猫又の三味線が頻りに竹藪の顔にぶつかって、ごつごつと痛そうであった。
「それ猫ですけど」
私が指摘すると、怒髪天が「ただの猫ではない」と言った。「少なくとも貴君よりは長く生きている」
「こいつは三味線を弾くんですか」
「ああ弾くとも」
「喋れるんですか」
「喋れるわけがなかろう。だから三味線を弾くのだ」
猫又は竹藪の腹の上から「むぎゃあ」と鳴き、二本の尾で器用に三味線を弾いた。
「人語を理解してるんですか」
「もちろん。そのくらい普通の家猫にでもできるのだから、猫又には朝飯前だろう」
猫又は最後に弦を力強く弾き「むぎゅ」と鳴いた。先程から一度もにゃあと鳴いていないが、これが猫又の鳴き声なのか。
「可愛いと思う?」私はまたこまちに耳打ちした。
「……ん、まあ」
こまちは半天狗と化け猫がじゃれ合っている様子を見ながら「ぎりぎり可愛い」と言った。
「どうしてこまちを七賢の一人に選んだんですか」
私はずっと気になっていたことを怒髪天に質問した。
「文学の才を感じたのだ」
「文学の才とは」
「文学の女神にどれだけ愛されているか、ということだ。彼女の指先からは文学の女神の気配を感じた」
「指先ですか」
「ウム、文学の女神は人間の指先に宿り、そこから文学作品を生み出しているのだという」
こまちは読書はするが、小説等の執筆はしていない。なにゆえ彼女の指先に文学の女神が宿る必要があるのか。
怒髪天は言った。
「彼女はいずれ大成するぞ。文学の女神は作家の種に水を与えるのだ」
こまちの方を見やると、首をやや傾げていた。どうやら初耳だったようである。彼女は自分の両手の指先をまじまじと見つめていた。
「そう言えば、貴君の小説を読ませてもらった」
怒髪天は懐に手を入れ、中から一冊の文庫本を取り出した。確かに私の書いた小説であった。
「これを読んで、私は貴君に是非とも会いたいと言ったのだ」
「それまたどうして」
「貴君の小説からは、類いまれなる似非文学の才を感じたのだ」
似非文学、何だそれは。
「貴君の作品には文学的価値が一切ない。しかし、何故だか読み進めてしまうのだ。徹頭徹尾無意味であるのに、その無意味が逆説的に意味をなし、それに導かれるようにして読んでしまうのだ」
「文学的価値がないのは未熟だからでしょう。読み進めてしまうのは、貴方が読書好きだからでしょう」
「謙遜したもうな。貴君の小説には力がある。似非文学とは言えど、その力は文学の方へと向かっているはずだ」
「どういうことですか?」
「非を知ることは、是を知ることである。すなわち、似非文学を知ることは、文学を知るということである」
怒髪天は続けて言った。
「だから我々は、似非文学を追い求めるのだ」
しばらくすると、再び扉の開く音がして、今度は二人の女性が入ってきた。一人は学生と思しき人で、「月面の高等遊民」と胸元に記されたシャツを着ていた。もう一人はスーツを着ており、度の強い丸眼鏡をかけていた。
「ム、誰だアンタは」
そう言ってきたのは「月面の高等遊民」の女学生である。
こまちが「私の兄です」と説明すると、彼女は「ああ、思い出した思い出した。そう言えば話してたなぁ、そんなこと」と言った。「私は杏子。よろしく」
「あ、よろしく」
すると杏子の後ろからもう一人の女性が顔を出し、「私は南と言います。実は逆さに読んでも『みなみ』なんですよ。あ、あと国語教師をやっています。そのせいかここでは『南先生』と呼ばれています。よろしくお願いします」とお辞儀をした。
私もお辞儀をしながら、「また曲者の登場である」と心の内で思った。しかし二人は妖怪変化の類いではなく、人間であるようだった。
「あといないのは……ああ、文屋氏かね」
怒髪天は部屋の中の人間妖怪及び猫を数えた。
「屋上にいるのではないでしょうか? さっき来たとき屋上がぼんやり明るかったように思います」
南先生がそう言うと、怒髪天は「む、そうかね」と立ち上がった。「せっかくだから皆も来たまえ。今宵は満月だ」
怒髪天について細い螺旋階段を上っていくと、そこは八畳ほどの屋上であった。手すりが電飾で彩られており、夏祭りのような雰囲気が漂っていた。
屋上の端には和服を着た一人の男がおり、手すりに寄りかかって月を眺めていた。片手の
煙は時折数式や文字のようなものを空に描き、生ぬるい風が吹くたびに薄く広がって揺らめいた。
「文屋氏、いたのかね」
怒髪天はそう声をかけたが、文屋氏は振り返らなかった。その代わり、煙管の先端から伸びる煙が次のような文字を示した。
『すまん。つい長居してしまった』
怒髪天が「今日は例の小説家が来ているぞ」と言うと、文屋氏はようやく振り返った。
私はその顔を見て仰天した。
薄明りであったため細かくは見えなかったが、その顔にはペンでびっしりと何か書き込まれているようであった。よく見ると、腕にも足にも書いてあった。
それが無数の数式であると知ったのは、後のことである。
文屋氏は全身に数式を纏っていた。
この日に私が出会った人たちの中では、最も文学に無縁と思われる人であった。
私たちは屋上から室内へ戻り、中央の本に埋もれた長机を囲んで座っていた。こうして揃った七賢を眺めると、如何に奇妙な集団であるかがわかる。まるで闇鍋を明かしたときのような様であった。
そのようなことを考えながら七賢の一同を見ていると、文屋氏が狐のような細い目で私を見据えていた。煙管の先からは紫色の煙が出ており、頭上に疑問符のような形を描いていた。
「それでは、『竹林文学会』を始めるとするかね」
怒髪天がそう言うと、猫又がべんべん、と三味線を鳴らした。
「今回はこの小説を取り上げる」
そう言って取り出したのは、私の書いた小説であった。
「皆、読んできたかね」
すると七賢一同は各々私の小説を取り出した。こまちも持っていたし、猫又も片方の尾に持っていた。
初耳である。まさか読ませたのか、全員に。
「まずは感想から聞いていこうかね」
七賢の感想は散々であった。竹藪、杏子、南先生、猫又は口々に話し始めた。
「なんか古臭い」「明治時代の文章みたいだ」「むぎゅ」「美女が登場しすぎだ」「確かに、十人はいた」「十人の美女!」「華やかですね」「むしろ破廉恥だ」「十人も集まれば最早皆美女ではないのでは」「哲学的ですね」「むぎゅ」
杏子は「それから主人公の口説き方がいけ好かない」と言った。「名前も知らないような花で口説けるものか」
彼女は続けて言った。
「私なら自分の袖を引きちぎり、そこへ和歌を書き記して、矢に結び付けたそれを弓でひょうふっと美女へ放つ」
「あら杏子さん、それでは平安式告白ではないですか」
そう言って笑うのは南先生である。
すると竹藪が突如挙手をした。「ボクならブルーインパルスのように空を飛ぶよ」
彼は「ぶうううううん」と言ってその場をくるくる回転し始めた。
しかし、飛んだところで精々数センチメートルしか上がらないのだから、その高度でブルーインパルスの曲技飛行を行えば確実に頭を地面にぶつけるであろう。私は頭の片隅で、白煙を生じながら地面で荒ぶる竹藪を想像した。
すると杏子が「ちょっとマテ」と高速回転する竹藪を制した。
「飛んでどうする? 上空から矢をひょうふっと放つのか?」
「『君が代』を歌うのさ。ぶうううううん」
「わけがわからないぞ」
「人間の歌で一番好きなんだ。きぃーみぃーがぁーあーよぉーおーわぁー——」
竹藪が口ずさみ始めた『君が代』に合わせて、猫又はべん、べん、と三味線を弾き始めた。誰も止めなかったため、竹藪の独唱は苔の生すまで続いた。
「静粛に! 静粛に!」
竹藪が歌い終え、少しの間があってから怒髪天は手をぱんぱんと叩いた。
「文屋氏はどう思うかね」
文屋氏はやはり口で答えることなく、代わりに煙の文字を吐いた。
『文字として記されていないものが、この小説の核をなしている』
「ふうむ……」
『文学ではない。文学にして文学ならざるもの——』
紫色の煙は一筋となって窓の外へと吸い込まれていった。
『似非文学』
*
竹林文学会で似非文学宣告をされて以来、私は「似非文学」という言葉について低回していた。
こまちから聞いていたよりも奇怪な集団であった。彼らが夜の街を練り歩いていれば、九分九里百鬼夜行と見紛うであろう。実際、半分は妖怪である。
竹林の「図書館」からアパートへ帰っても、私は眠らなかった。こまちはウンウン頭を捻る私には目もくれず、さっさと眠ってしまった。
怒髪天は帰り際に「また来週も来たまえ」と言った。
当初は一晩のみの参加のつもりだったが、こまちに頼み、もう一週間彼女のアパートに泊まることとなった。
それから怒髪天は、次回の文学会までの必読図書として一冊の小説を私に渡した。綴じ目が紐で結ばれた手書きの古めかしい本で、湯に放り込めばおでんの出汁がとれそうな代物であった。
これが読むのに苦労するものでなければ、私は快諾してそれを受け取っただろう。しかしその本はページ数が膨大で、六法全書もかくやと思われるほどの厳めしさがあった。これで殴打されれば、間違いなく死に至るであろう。無論私は拒否した。到底一週間で読める量ではなかったためである。
「では南先生に助けてもらうといい」
怒髪天はそう言って、「実は彼女は中国式量子速読術の使い手なのだ」と耳打ちした。
彼は南先生を呼び止め、私のための特別講義を開くよう頼んだ。南先生は「もちろんですよ」と即諾した。
「それでは明日の晩、またここへ来てください」
南先生は続けて「こまちさんも是非」と言った。
彼女は量子速読術というものについて何も説明しないまま帰っていった。
怒髪天から渡された本の表紙には、『孤独とタンジェント』と記されていた。試しに読んでみようと表紙をめくってみたが、気付けば私は眠っていた。
その晩、ヘンテコな夢を見た。
私は「図書館」の屋上にて、月を眺める文屋氏を見ていた。やはり文屋氏は煙管をぷかぷかと吹かしており、一言も発さなかった。
彼は突如空に手を伸ばし、煌々と飴色に輝く満月をひょいとつまんだ。そしてそれを口にころん、と含み、舌の上飴玉のように転がして弄んだ。
すると煙管から発せられる煙も飴色に光り、夜空に広がって幾何学模様を描いた。空全体が万華鏡のようにぐるぐると回転し、私たちのいる屋上だけ時間が止まっているようであった。
それから文屋氏はこちらに振り返り何か言ったが、よく聞こえなかった。
*
「図書館」には講義用の小さな部屋もあり、いくつかの机と椅子、そして正面には黒板があった。無論周辺には本や置物や植物が散らばっている。
私とこまちは南先生に「中国式量子速読術」を教えてもらうため、「図書館」の講義室へ来ていた。私たち二人だけかと思っていたら、講義室には杏子もいた。
「杏子さんも速読術を?」
私がそう聞くと、杏子は「ウム」と答えた。「情報化社会を生き抜くためには、量子速読術が必要だ」
杏子の服には「迸る林檎汁」と記されており、胸ポケットに顔の付いた林檎の絵がプリントされていた。
「普通の速読術とは何が違うの?」
「わからん」
「知らないのか」
「だからここに来ているんだ」
こまちもこの怪しげな技術については何も知らなかったが、興味深いと言っていた。一体量子速読術とは何なのか。
不規則に並べられた席に着くと、ふと学生時代を思い出した。惰眠と無益にまみれた青春である。それは人生における栄光の怠惰時代であった。
いや、わざわざここで記すほどのことでもない。
すると講義室の扉から南先生が現れた。彼女は「こんばんは」と言うと、早速チョークを取り出して黒板に何か書き始めた。
「量子速読とは」
彼女の手さばきは非常に猛々しく、この文を書いただけでチョークを粉砕した。
「あら、チョークがちょー砕けちゃった」
南先生はそう言って一人笑った。「ちょー下らないですね。チョークがチョーくだけた、って。ふふ」
儚くも粉々になったチョークを拾い集めると、彼女は量子速読術についての説明を始めた。
「ごく簡単に言えば、量子速読というのは読まずして読むことです。中国春秋時代から存在する技術で、後に遣隋使などによって日本に伝来したと考えられています。遣隋使の一人であった小野妹子や、聖徳太子もこの速読術を身に付けていたと言われています」
再びチョークが砕けた。「あらいやだ」
「本のページを高速でめくるほど、一ページ当たりを読む秒数は少なくなっていきます。しかし、その僅かな時間の中で見える文字を量子レベルで捉えることで、いくら速くページをめくっても漏れなく内容を把握することができます」
チョークの黒板に当たる音がばん、ばん、べきっ、と響き、三本目の先端が折れたが、すんでのところで持ち堪えた。
「修行を積めば、目隠しをしたまま読むことも可能です」
南先生は最後にばん、とピリオドを打ち、三本目も完膚なきまで粉々にした。
こうして三本のチョークの犠牲のもと、私たちはこの速読術が胡乱極まりない技術であるということを知った。読まずして読むとは、最早妄想の域である。
すると杏子が挙手をした。
「何ですか? 杏子さん」
「それは最早妄想なのではないだろうか」
彼女も同じことを思っていたようである。
南先生は答えた。
「いいえ、妄想ではありません。一ページ当たりの時間がいくら短くなったとしても、ゼロにはなりませんから。私たちは確かにそこから文字を読み取っているのです」
「ふうむ、ナルホド」
南先生は「あとは修行あるのみです」と言って、私たちにひたすらページをめくる練習をさせた。
ページを闇雲にめくり、その寸隙から量子単位で文字を読み取る修行は約二時間続いた。無論文字を量子的に捉えることはできなかった。到底できるはずがなかった。
帰り道、私はこまちに「あんなもので読めるものか」と言った。
「ん」
「こまちもそう思うか」
「修行を積めば、そのうち」
「まさか会得しようとしているのか、あんな妙ちきりんな技を」
「ん」
「恐るべし」
結局私は量子速読術を易々と諦め、というより受け入れず、必読図書『孤独とタンジェント』を冒頭から通常通りに読むことにした。
*
私の読んだ部分までをまとめると、この小説は次のようなお話であった。
タンジェントという男は、コサインという類いまれなる美女に恋をしていた。しかしコサインはサインという色男のことを好いていたので、タンジェントの恋心は中々伝わらなかった。
サインとコサインは密接な関係にあり、二人の足跡はいつも同じ歩幅で交差した。一方タンジェントはそんな二人にぶつからないように、彼らの通った後の道筋を横目に別方向へと歩いていた。
またサインとコサインは同じアパートに住んでおり、コサインの真上にサインの部屋があった。そこで毎日交わされる彼らの会話を、タンジェントは部屋の窓越しに毎日のように聞いた。
tanθ=sinθ/cosθ
タンジェントには、自分がサインやコサインとはやや異なっているということが分かっていた。彼はコサインに思いを寄せつつも、疎外感を禁じ得なかった。
一方サインとコサインは互いに片割れのような関係にあり、互いの足りない部分を補うように、その愛を深めていった。
sin²θ+cos²θ=1
サインとコサインは隙間なくぴったりと背中を合わせており、そこにタンジェントの居場所はなかった。
しかし、タンジェントは決してその場を離れることができない。彼はそこに存在しなくてはならない。
どうやらこの作者は、人間の三角関係というものを三角比によって数学的に描こうとしたようである。サイン、コサインと、タンジェント。すなわちカップルと余りであろう。
時折数式が登場して、数学アレルギー特有の拒絶反応を引き起こすかと思われたが、アナフィラキシーには至らなかった。試しにページを最後までめくってみると、何かの染みのような難解数式が所々に見られた。
一体誰が書いたのか。
私の脳裏には、すぐさまある人物が浮かび上がった。
私の知る限り、数学に最も関係のありそうな人間は文屋氏ただ一人である。
*
次の竹林文学会までの間、私はひたすら読書に励み、難解な数式に頭を捻らせ、こまちの作る綺麗な三角おにぎりと茹で野菜味噌汁ばかりを食べた。
文学会の始まる直前、珍しくこまちの方から話しかけてきた。
「何か食べたいものとかは」
ちょうど夕飯の時間であった。
「じゃあ、おにぎりと味噌汁」
「いつも作ってる」
「あむ。じゃあお茶漬けがいい」
「それなら自分で作って」
まさか、おにぎりと味噌汁以外の料理を作ろうとしているのか。何だろうか。具のないチャーハンだろうか。
「何かトクベツな料理を作ってくれるのか」
「湯豆腐」
なるほど、流石は妹である。
「じゃあ湯豆腐で」
「ん」
私たちは湯に浸かった豆腐がコトコトと揺れるのを、ただ無心で眺め続けた。豆腐の揺れる様をずっと見ていると、段々それが銭湯の風景に見えてくるから不思議である。
ふと思い出して、私は『孤独とタンジェント』を取り出した。
「こまちもこれを読んだか」
こまちは首を横に振った。
私は「なる」と呟いて本を床に置いた。こまちが「そろそろ」と言ってお玉で豆腐をすくった。
それから私たちは湯豆腐と、結局今回も登場したおにぎりを食べ、再び竹林へと向かった。
*
「図書館」には文屋氏しかおらず、窓際に腰掛けてぷうぷうと煙管を吹かしていた。彼の体にはその日も無数の数式が記されていた。
文屋氏には天狗めいた気配があった。もちもちと太った竹藪よりも、彼の方がよっぽど天狗である。もしかすると彼も天狗なのかもしれない。
「こんばんは」と言うと、文屋氏はこちらを向いて煙をふう、と吐いた。
『こんばんは』
彼の持つ煙管も摩訶不思議である。私は夢で見た夜空の万華鏡を思い出した。
文屋氏は再び煙を吐いた。
『突然だが、君と二人で話がしたい』
私とこまちのどちらのことを言っているのか。もしこまちであれば、彼の発言は恋愛的に意味深長なものである。
しかし、どうやら私のことだったようである。文屋氏は私をまっすぐに見据えていた。彼は『屋上へ』と階段を上っていった。
「何だろう?」とこまちの方を見やると、彼女は既に本に腰掛け読書に没頭していた。
私は文屋氏に続き、紫煙の筋が残る階段を上った。
『小説は読んだ?』
屋上に着くと、文屋氏は私に聞いた。案の定、『孤独とタンジェント』は彼が書いたものであったようである。
「ええ、最後までではありませんが」
『充分だ。どうだった』
「えらく人間味のある数学でした」
『そうか』
そこで文屋氏は少し間を空け、再び煙を浮かべた。
『君は、文学と数学に関係はあると思う?』
「一見なさそうですが、『孤独とタンジェント』を呼んだ今では、あると言えそうです」
『そうなのだ。私もそう思う。私は数学的観点から文学というものを見つめている』
「どういうことですか?」
『世の中には無数の数式があり、その数式一つ一つにも文学が内包されている。私の体の数式も、各々が物語を孕んでいる』
文屋氏は続けた。
『だが、これは何も数学に限った話ではないと最近気づいたのだ。君の小説を読んだときだ』
「似非文学云々というやつですか」
『そうだ。君の小説は一見文学的価値のない似非文学のようで、その舳先は文学の方向を向いていた。そのアナムネーシスも文学と呼ぶのであれば——』
そこで文屋氏は呼吸を整え、煙を吸った。
『最早、似非文学も数学も文学である』
「何でもアリじゃないですか」
『そうとも。一切合切が文学となり得る』
曖昧な結論で等閑のようにも感じるが、なるほど確かに、どのようなことでも文学の方へ矢印を向けることができそうである。しかし、その方向とは何なのか。
私は文屋氏に尋ねた。
「では、文学の方向とは? 仮に全てのものが文学になり得るとして、それらが近似しようとする文学とは何なんですか」
彼はしばらく考えてから、煙を吐いた。
『あくまで私の考えだが、その方向は一つに定まるものではないと思う。例えば平安時代と現代では言葉遣いから違うし、文体も内容も十人十色である』
「つまり?」
『我々がどこへ行きたいと思うか、その目的地が文学だ』
屋上から室内へ戻ってくると、南先生と杏子が来ていた。彼女たちはこまちと一緒に絵しりとりをして遊んでいた。
「何ですかこれは? モアイ像?」「……」「いや、モナカかもしれん」「あ、モナカ食べたいですね」「いいなあ、モナカ」「……」
この日の杏子のシャツには「超寵愛過多」と記されていた。彼女は一体どこでそのような服を手に入れるのだろうか。
本棚の上には饅頭のように尻を据えた猫又もいた。猫又は退屈そうに欠伸をしていた。
するとそこに、ついさっき滝行をしてきたような汗まみれの竹藪がやってきた。彼は扉を開けるなり「怒髪天は?」と言った。
杏子が「まだ来ていないぞ」と答えると、竹藪は顔面蒼白になって「なんてこったい、なんてこったい」とぶつぶつ呟きながら右往左往した。
「まぁ落ち着けや。どしたのん?」
杏子が呑気に問うと、竹藪は頭を抱えて「緊急事態だッ!」と言った。
「怒髪天が消えた!」
竹藪は「図書館」へ向かう途中、竹林で怒髪天を見かけたそうである。頭には火が灯っていたので、怒髪天であったことは確かであると彼は言った。そこで彼は声をかけようとしたが、怒髪天は蠟燭の火が消えるように突如消失したと言うのである。
「きっと神隠しだ!」
竹藪はきゃあきゃあ騒ぎながら言った。
「神隠しなら、天狗の仕業だろう。まさか竹藪か」
杏子は顎に手を当て、竹藪に容疑をかけた。猫又が「むぐ」と唸って竹藪を睨んだが、これも疑っているのであろうか。
「勘弁してよぉ。ボクじゃないよぉ」
「天狗は信用ならん」
「むぎゅ」
私が「何かの見間違いでは」と言うと、竹藪は「違うもん! あれは絶対に怒髪天だった!」と声高に言った。
文屋氏が『怒髪天のことだ、そのうち姿を現すだろう』と煙を吐いたが、いくら待っても怒髪天が姿を現すことはなかった。
私たちは手分けして竹林を捜索することにした。
「図書館」は竹林の南端に位置していたが、竹林は北の方にも続いており、それなりの広さがあった。その上深夜であったので、辺りは墨汁に沈んだように黒々としていた。
私はこまちと文屋氏と共に、懐中電灯を持って北西方向へ怒髪天を探しに行った。竹藪と杏子、南先生は北東へ向かった。猫又は「図書館」で留守番である。
「以前にこのようなことはあったんですか?」
歩きながら、私は文屋氏に聞いた。
『いや、なかった』
懐中電灯に照らされた煙が銀色に光った。
『そもそも、彼は突然消えたりするような人間ではない』
「それなら、本当に神隠しですか」
『そうだとも思うが、他に思い当たる節がある』
怒髪天は一向に見つからなかった。辺りは乱立する竹ばかりで、どこにも人の気配はなかった。
『彼は文学の他に、何故か竹林にも興味を示した』
「竹林ですか」
『竹林には外界に通じる道が存在すると、彼は言っていた』
「外界? どういうことですか?」
『わからない。ただ彼は、外に出たがっていた』
すると私の後ろを歩いていたこまちが「あ」と呟いた。私が「どうした」と聞くと、彼女は「人」と答えた。
こまちの指し示す方を見やると、確かにそこには人のものと思しき影があった。人影は微動だにせず、竹と竹の間でただ立ち尽くしていた。
近づくと、それは怒髪天であることが分かった。しかし、私たちがいくら声をかけても彼は石像のように固まったままで、一向に反応を示さなかった。彼は竹林の闇を見つめていた。その焦点は合っていないようであった。
どうしたものかと私たちが顔を見合わせていると、不意に怒髪天はこう呟いた。
「行かねば」
彼は頭から火を噴き、私たちを置いてどこかへ歩き始めた。
明らかに平常でない怒髪天の行き着いた先は、竹林文学会の開かれる「図書館」であった。すると彼は「図書館」の中のあらゆる書物を袋に詰め始めた。本棚の本を手当たり次第に床に落とし、選り分けているのかいないのか、一心に本をかき集めた。
猫又が怒髪天の背中に飛び乗り、その耳元に向かって頻りに鳴いたが、彼の耳には入っていないようであった。文屋氏がその肩を揺り動かすと、怒髪天はその手を振り払った。文屋氏を突き倒し、彼は「行かねば」と繰り返した。
私が呆然とその場に立ち尽くしていると、こまちが突如振りかぶるのが横目に見えた。
「えい」
驚いて彼女の方を見たときには、分厚い本が怒髪天の脳天めがけて放物線を描いていた。
本は怒髪天に命中し、彼はその場でばたりと倒れた。
文屋氏の落とした煙管からちろちろと煙が上がり、天井に溜まっていた。
それからしばらく沈黙が続いた。
やがて竹藪たちが帰ってくると、私は怒髪天が気絶するまでの経緯を説明した。またどこかへ行ってしまわないように、怒髪天は椅子に縛り付けられていた。
「なんてこったい」
竹藪は言った。「こんなにぐるぐる巻きにする?」
『全く応じてくれないのだ。やむを得ない』
文屋氏は積み重ねられた本の上に座り込んだ。
「しっかし奇怪だ。今までこんなことはなかったぞ」
杏子がそう言って怒髪天を覗き込むと、不意に彼は目を開けた。杏子は「おわ、起きたぞ」とのけぞった。
怒髪天はゆっくりと辺りを見回し、「何だ?」と呟いた。彼は立ち上がろうとして、自身が椅子に縛り付けられていることに気が付いた。
「なんじゃ、これ」
少なくとも先程よりは理性を取り戻しているようであった。
私が「覚えてませんか」と聞くと、彼は私の目をまじまじと見つめた。それからはっと何かに気付き、彼は体を揺らしながらこう言った。
「そうだ! 行かねばならんのだ! この縄を解いてくれ!」
あまりにも激しく体を揺らしたので、彼は椅子ごと床の上に倒れた。それでもなお彼は縄を解くよう訴え続けた。
「落ち着いてください。一体どこへ行くんですか」
私は怒髪天を起こしながら言った。
「ここから出ていくのだ」
「『図書館』からですか?」
「違う、我々のいるこの世界からだ」
七賢一同を見やると、彼らも怒髪天の言っていることを理解できていないようであった。文屋氏さえも顎に手を当て、考え込んでいた。
私は怒髪天に向き直り、「ちゃんと最初から説明してください」と頼んだ。
彼は短く息を吐き、「わかった」と言った。
*
怒髪天の父は、「竹林の七賢」の隠士の一人であった。竹林と酒と文学をこよなく愛する彼らは、しばしば竹林に集って清談に耽った。
しかし、彼らの目的はそれだけではなかった。
竹林の七賢は、竹林の光る竹を探し求めていた。突き詰めて言えば、彼らはかぐや姫を探していた。
何故かぐや姫なのか。
それは彼らが好色集団であるからではなく、文学的な理由があったためである。無論、『竹取物語』のことである。
『竹取物語』は日本最古の物語である。ある日翁が根元の光る竹を見つけ、切ってみると、手のひらほどの大きさの少女が出てきた、というお話である。竹林の七賢はこの怪奇な現象に目を付け、「竹林には異空間に通ずる道が存在し、かぐや姫はそこを渡ってきたのだ」と考えた。
傍から見れば阿呆にしか見えないかもしれないが、彼らは既に俗世を捨てた人間であった。彼らが憚ることは何もなかった。
そして、誰憚ることなくかぐや姫を探し続けた竹林の七賢は、ある日一斉に姿を消した。
このことを知っていたのは、ごく僅かの人間だけであった。その中には「本当にかぐや姫を見つけたのだ」と信じて疑わない者もいれば、「タケノコにでも躓いて、ドミノ倒しのように全員ポックリいったのだ」と彼らを嘲る者もいた。
その真偽がどちらにせよ、少なくとも竹林の七賢が再び姿を現すことはなかった。
怒髪天は、何も残すことなく消えた父に日々思いを馳せた。何故彼は消えたのか。どこへ消えたのか。
ある日、怒髪天は思い立って出家した。彼は竹林に籠り、長い間思考の海を漂った。
あまりに思考を働かせすぎて、ついに彼の頭は火を噴いた。
彼は日々大量の書物を読み込み、瞑想し、竹林を彷徨い、竹林の七賢の行方を追った。
そして彼は、悟った。
「我々も物語の一部だ。誰かが創り上げた虚構の中に我々は生きている」
この世界そのものが文学であるというのであれば、その中から文学の全貌を把握するのは不可能である。箱の中から箱の外側がわからないように、地球上から地球が球体であることを目視できないように、文学というものを見るためにはそこから脱しなくてはならない。
竹林はその世界から抜け出すための唯一の出口であり、竹林の七賢はそこから世界を脱して外側からその全貌を見たのだと怒髪天は思い至った。
それから怒髪天はその「道」を探し始めた。
しかし彼は見つけ出すことができなかった。何故なら、彼はその後「文学の七賢」を組織し、六人の賢人と一人の小説家と出会うという作者の筋書きに従わねばならなかったからである。
かくして今に至る。
*
「私はつい先程、竹林から世界の一端を見たのだ」
縄を解かれた怒髪天はそう言った。
「私も、貴君も、竹林も、似非文学も、一切が文学に内包されている。ゆえに、我々が自らの意志であると思っているものは実はそうではなく、この物語を描く何者かによって創り出されたものなのだ」
彼は続けた。
「例えば貴君が妹から手紙を受け取りここへ来たのも、おにぎりが綺麗な三角形であったのも、竹藪が天狗であることも、猫又が三味線を弾くことも、杏子が妙な服を着ていることも、南先生が量子速読術を身に付けていることも、文屋氏の体に数式が書き込まれていることも、全てが筋書きで決まっていたことなのだ」
「一体誰の筋書きなんですか」と私は聞いた。
「それは外へ行けばわかるだろう。文学の外へ」
怒髪天はそう言い残すと、扉を開け「図書館」を出ていった。だが誰も追う者はいなかった。恐らくそのような筋書きとなっているのだろう。またしばらくの沈黙があった。
*
翌日私はこまちに別れを告げ、帰宅した。帰り際、彼女は「おにぎり」と言って何故か私におにぎりを持たせたが、続けて「帰りの弁当」と呟いたので私は「なる」と返した。
帰りの電車の窓からは竹林が見えた。青々と乱立する竹を眺めながら私はふと昨日のことを考えようとして、やはり止めた。竹林は瞬く間に窓の外へ流れていった。
こまちのおにぎりは丸かった。ただの塩むすびかと思っていたら、中にたくあんが入っていた。
「おや、たくあん」
私はたくあんが好物で、子どもの頃からたくあんばかり食べていた。ぽりぽり噛んでも美味しいし、噛まずに口の中に残しておくのも面白い。一遍でいいから、大根丸々一本分のたくあんを食べてみたい。
私はおにぎりを片手に、原稿用紙を開いて小説を書き始めた。
家に着く頃には、陽が西に傾いていた。久しぶりに帰ってきた我が家は蒸し窯のように熱く、息苦しいほどであった。
疲れが溜まっており、私は布団を敷いてすぐさま寝てしまうことにした。一度寝てしまえば暑さも気にならないだろう。
ここで私は、また妙ちきりんな夢を見た。
私は原稿用紙と対峙していた。ウンウン唸って、ペンを弄びながら、最初の一行に記された「怒髪天は」という文字を見つめていた。
原稿用紙の隣にはメモ帳があり、そこには文学の七賢の名前が書かれていた。さらに机上の奥には原稿の束があり、一番上の題名には「似非文学と七賢」とあった。
「どう締めくくるか」
私はペンを回しながら一人呟いた。文学の女神とやらが降臨してくれれば、指先が勝手に動くように執筆が捗るだろうに。
「あっ、そうだ」
突如妙案が降ってきて、私は咄嗟にペンを動かした。
「竹林だ。竹林で一切が解決する」
*
その翌日、こまちから手紙が届いた。
手紙にはこの一週間の礼と、文屋氏からの伝言が記されていた。
『竹林文学会についてだが、今後も継続しようかと思う。あれから怒髪天は姿を見せていないが、いずれ帰ってきたときに迎えられるよう、七賢が竹林にいるべきだと私は思っている。
そこで相談なのだが、怒髪天が消えたことで現在賢人は六人しかいないから、是非とも君に加わってもらいたい。仕事のこともあるだろうから、断っても構わない。だがもしその気があるなら、またいつでも来てほしい』
帰宅早々の要求に私は躊躇ったが、それも悪くないと思った。俗世を離れた竹林の「図書館」で似非文学を極めるのもまたよいのかもしれない。
すると、封筒から別の紙切れがはらりと落ちた。
何かと思って拾い上げると、そこには何やら数字が記されていた。文屋氏の数式が頭をよぎったが、そうではなかった。
それは、こまちの部屋に滞在した一週間分の請求書であった。
やはり抜かりのない、恐るべき妹である。
似非文学と七賢 道草 @michi-bun
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