向かいの部屋の美人は、ときどきカーテンを閉め忘れる

春風秋雄

レースカーテンの向こうに、女性の姿が

暑い。エアコンの設定温度を22℃にしているのに、西日が当たる角部屋のリビングは、この時間は耐えられない。3LDKのマンションに越してきて3年になるが、リビングのベランダは南向きで陽当たりが良く、西側にも窓があり、とても明るいので気に入っていた。しかし、真夏のこの時季はそれがアダとなり、とても暑い。徹夜明けで、ソファーでうとうとしていた俺は、北側の寝室で少し寝ることにした。


目を開けると、寝室は暗かった。どれくらい寝たのだろう。スマホのデジタル時計を見ると、19時半を過ぎていた。4時間くらいは寝たようだ。ベッドから起き上がり、ふと窓を見ると、向かいのマンションの部屋がレースのカーテン越しに丸見えだった。こちらの部屋が真っ暗なので、安心してカーテンを引いていないのか、もしくはレースカーテンを引いていると、明るい部屋の中からは外が見えないので、カーテンを引くのを忘れているかだろう。たしか先週まであの部屋は空き部屋だった。新しい人が入ったのだろう。ワンルームマンションのようなので、単身の男性だろうと思っていたら、女性の姿が現れた。女性なのにカーテンを閉めないとは不用心だ。せめて透けないレースカーテンにすればよいのにと思う。まさか大声を出して注意するわけにもいかず、見ていると、遠目にはとても綺麗な女性に見えた。40歳前後だろうか。その年代の女性の一人暮らしというのは、結婚せずに仕事一筋のキャリアウーマンなのか?それとも旦那さんと別居中なのか?色々と想像をしてしまう。そうこうしているうちに、女性は着替えを始めるのか服を脱ぎだした。やばい。これ以上見ていては犯罪だ。でもバレなければいいのか?ましてや、カーテンを閉めていない向こうに非がある。いやいや、そういう問題ではないだろう。犯罪であるかどうかではなく、人としてダメだろう。俺は後ろ髪を引かれる思いを断ち切って自分の部屋のカーテンを閉めた。途端に部屋が真っ暗になる。俺はゆっくりとドアに向かい、部屋の電気をつけた。ドキドキと脈打っていた胸が、少し落ち着いてきた。でも最後にチラっと見えた女性の下着姿が頭から離れなかった。


俺の名前は井手口正則。37歳の独身だ。WEBデザイン関係の会社にデザイナーとして長年勤め、3年前に独立し、フリーのデザイナーとして事務所を構えている。3LDKのマンションが自宅兼事務所で、リビングと繋がっている部屋を仕事部屋とし、北側の2部屋は、ひと部屋が寝室、もう一部屋は趣味の部屋としてステレオやギターなど音楽関係の物や、小説などの本が所狭しと置かれている。昨日も締め切りに追われ、徹夜で仕事をし、今日の昼過ぎにやっと顧客にデーターを送ったところだった。極力無理な仕事は入れないようにしているのだが、独立当初に助けてもらった顧客からの頼みだと無理ですとは言いづらい。まあ、そのおかげで、収入はそこそこある。

俺が住んでいるマンションは南側の幹線道路沿いに建てられており、ベランダからは見晴らしが良い。北側の窓から見えるマンションは、幹線道路から1本奥に入った道沿いに建てられている単身者用のマンションだ。一応ベランダは南向きなのだが、うちのマンションがあるので、陽当たりはそれほど良くないだろう。確かマンション名は「マンション日向(ひなた)」だった。うちのマンションの方がはるかに新しいので、うちのマンションが出来るまでは陽当たりも良かったのかもしれない。


けっして俺に覗きの趣味があるわけではないのだが、夜寝室に入ると、ついつい向かいのマンションを見てしまう。カーテンが閉めてあることが多いが、たまにレースカーテンのままの時がある。角度的には俺の部屋からしか覗けないので、俺さえ見なければ良いかと思うのだが、綺麗な人なので、ついつい気になって見てしまう。しかし、ほんの数秒で俺は自分の部屋のカーテンを閉めるようにしていた。


その日もお向かいさんは、レースカーテンのままだった。俺は見ないように自分の部屋のカーテンを引こうとして手が止まった。女性は座り込んで、スマホを見ているが、その姿があまりにも悲しそうだったからだ。しばらくすると、女性は立てた膝に顔をうずめて泣いているようだった。もう見ないようにしようと思うのだが、俺は動けなかった。どれくらいそうしていただろう。女性はテーブルの上のティッシュを何枚か抜き取り、目元に当て、ようやく立ち上がった。それを見て俺は、我にかえりカーテンを閉めた。


向かいの女性が泣いている姿を見てからは、ますますその女性が気になって来た。カーテンが開いている時でも、女性がテレビを見て笑っている時など、元気そうなときは気にせず、自分の部屋のカーテンをすぐに閉める。ところが、ときどき、この前の時のように、悲しそうな姿でうずくまっているときがある。そんなときは、何故かじっと見てしまう。何もしてあげることはできないのに。


マンションの近くのコンビニで買い物をしている時、偶然にも向かいのマンションの女性に遭遇した。俺は思わず、すれ違いざまに「こんにちわ」と挨拶をしてしまった。一瞬「しまった」と思ったが、すでに遅しだ。女性は俺の顔を見上げながら、おずおずと「こんにちは」と返してきた。俺は目当ての物をレジに持って行き、逃げるようにコンビニを出た。初めて間近に顔を見たが、本当に綺麗な人だった。

それから1週間くらいした頃、夕食を食べるため近くのファミリーレストランで座っていると、入り口からあの女性が入って来た。あの女性も一人で食事をしに来たのだろう。店員に誘導され、こちらに歩いてくる。俺はどうしようかと迷ったが、この前挨拶をして、今日は挨拶しないのは不自然かなと思い、すれ違いざまに「こんばんは」と挨拶をした。すると、女性は一瞬驚いた顔をしたが、「こんばんは」と返してきた。

しばらくして、女性が俺の席に来て、俺の斜め前に立って聞いてきた。

「あのー、どこかでお会いしましたでしょうか?この前も挨拶して頂きましたけど、どこでお会いしたのか思い出せなくて。うちのお客さんかなとも思ったのですが、違うみたいですし」

そうか、やはりそういう展開になるのか。俺は焦った。どうやって説明しようか。とりあえず、俺は女性に向かいの座席に座るように勧めた。

「良かったら掛けませんか?」

女性は一瞬ためらったが、興味が勝ったのだろう。素直に向かいの席に座った。

「僕は、マンション日向の裏のマンションに住んでいる井手口と言います。ちょうど、僕の部屋とあなたの部屋は向かい合わせなのです」

女性は少し眉を寄せて聞いている。ここからの説明は細心の注意を要する。俺は言葉を選びながら、ゆっくりと説明した。

「誤解しないように聞いて下さい。僕の部屋の北側の窓からあなたの部屋のベランダの窓がよく見えるのですが、あなたは、夜になってもカーテンを閉めず、レースカーテンだけで過ごされていることが度々ありますよね?」

女性は驚いたような顔をして黙って俺を見ている。俺は話を続けた。

「女性の一人暮らしのようですので、機会があれば注意した方が良いかなと思っていたのですが、レースカーテンだけの場合、部屋の中が丸見えなのです」

女性の顔が険しい顔になってきた。

「誤解しないでください。僕に覗きの趣味はないので、ジロジロ見ているわけではないです。自分の部屋のカーテンを閉めようとすると、チラッと見えてしまうのです。でも今まであなたの、あられもない姿を見たことはないですから安心してください」

一度だけ下着姿を見てしまったことは黙っておくことにした。

「それと、角度的に僕の部屋以外であなたの部屋を見ることは不可能ですから、他の人に見られたということもないと思いますので、それも安心してください」

女性はあきれたような顔をして憤慨した声で言った。

「それはご親切に忠告して頂き、ありがとうございます。今後、二度とカーテンを閉め忘れることはありませんから、ご心配なく」

そう言って立ち上がった。

「僕は、ずっとあなたのことが気になっていました」

女性は無視して立ち去ろうとした。

「ときどき、あなたが悲しそうにしているのが」

女性は立ち止まり、俺を振り返った。

「よかったら、こちらの席に移って、一緒に食べませんか?」


ほどなく、俺が注文した料理が運ばれてきた。女性の料理はまだ来ない。俺は料理に手をつけず、女性の料理が運ばれてくるのを待った。

「どうぞ、冷めますから、先に召し上がって下さい」

そういう女性の顔は、先ほどと異なり、穏やかな顔になっていた。一緒に食べませんかと誘ったとき、俺はてっきり断られると思っていた。しかし、女性はしばらく考えたあとで、席を移動してきた。俺は女性に気を使わせないよう、料理に手を付けることにした。

女性の名前は、田辺郁美さんという。小さいながらも美容室を経営しているらしい。“うちのお客さんかなとも思った”というのは美容室のお客さんかと思ったということらしい。旦那さんと離婚してマンション日向に引っ越し、一人暮らしを始めたということだ。

「お子さんはいなかったのですか?」

「高校3年生の息子がいますが、父親の方へついていきました」

「めずらしいですね。田辺さんは経済力もありそうなので、普通は母親が親権をとるのではないですか?」

「息子はすでに18歳になって成人しているので、自分の意思で父親を選んだんです」

「そうですか。それは寂しいですね」

「私が悪かったんです。息子にはいつも小うるさいことばかり言っていたので、私のことが煙たかったのだと思います」

やっと女性の料理が運ばれてきた。田辺さんは丁寧に手を合わせてからフォークとナイフを手にした。

「でも母親というのは、そういうものでしょう?僕の母親もずっとうるさかったですよ」

「そうなんですか?他の家庭のことはわからないので、うちの場合、行き過ぎだったのかどうか」

「まあ、僕もそうですけど、どこの家庭のお子さんも、子供のときは母親に対してウザイと思っていても、大人になると母親に対しては感謝しかないですよ。多分、息子さんもあと何年か経ったら田辺さんの気持ちを分かってもらえますよ」

「そうならいいんですけど、それでも、息子からくるメッセージを見ると悲しくなってしまうんです」

「どんな内容ですか?」

田辺さんは、スマホを取り出し見せてくれた。


「ご飯はちゃんと食べてるの?」

「僕のことはもう構わないで、母さんは早く新しい男をみつけて再婚しな」


確かに、母親としてはショックな内容だ。ただ、見方を変えると違うのかもしれないと思った。

「一緒に食べませんかと誘った時、てっきり断られると思っていました」

「何故でしょうね。井手口さんは悪い人に見えなかったですし、覗きをしたいのなら、わざわざカーテンのことを教えないでしょうし。それより何より、私が誰かと話したかったのだと思います」

それから、俺がWEBデザインの仕事をしていると言ったら、美容室のホームページを作ってほしいと依頼された。俺は破格の値段で承諾した。下着姿を見てしまった負い目があったのもあるが、郁美さんがとても綺麗な女性だったのが一番の理由だ。


郁美さんの美容室のホームページを作成するにあたって、打ち合わせ場所は必然的に俺の仕事場である俺のマンションということになる。美容室は月曜休みということなので、次の月曜日は他の仕事は入れず、郁美さんと打ち合わせをした。様々なサンプル画像や、実際に俺が作った他の店のホームぺージの数々を見せながら、構成を打ち合わせした。打ち合わせが終わったあと、一緒に食事に出かけた。郁美さんはこの街のことはまだそれほど知らないということだったので、俺が良く行く蕎麦屋さんへ連れて行った。せっかくなのでビールも飲んで、ほろ酔いの中で話すと、郁美さんは良く笑う楽しい人だった。

「聞いてもいいですか?」

「何でしょう?」

「離婚の理由は何だったんですか?」

一瞬郁美さんは黙り込んだが、返答を拒んでいるのではなく、どう説明しようか考えている感じだった。

「簡単に言えば、どうしようもない男だったんですよ」

「身も蓋もないですね」

「結婚した当初はちゃんとサラリーマンをしてたんですよ。でも息子が産まれてからしばらくすると、上司と喧嘩したと言って会社を辞めてしまって。失業保険がもらえる間は再就職せずに子供の面倒をみるとか言っちゃって。それから仕事先を見つけては1年か2年で辞めるってことを繰り返した末に、私の美容室が軌道に乗ると、ろくに働かずにフリーターでたまに小銭を稼いでくるくらいだったんです。まあ、私は仕事で帰りが遅いので、息子の面倒を見てくれるのは助かりましたけど。でも最後は浮気をしていたのを知って堪忍袋の緒が切れました。私が稼いだお金で他の女と遊んでいたなんて、絶対許せないですよ」

「まさに髪結いの亭主ですね」

「だから、慰謝料もいらないから、早く別れたかった。でもまさか息子が向こうに行ってしまうとは思ってなくて。息子を養うために、今はちゃんと働いているとは聞いたけど、あの子、ちゃんと食べさせてもらっているのか、毎日カップ麺とかコンビニ弁当じゃないかとか心配で」

郁美さんは涙をにじませた。

「息子さんの名前は何というのですか?」

「ハルトです。春に北斗の拳の斗と書いて、春斗です。4月生まれだったから」

「いい名前ですね。高校3年生だと受験生ですか?」

「進路のこと何も教えてくれなくて」

「普通科の高校ですか?」

郁美さんは高校の名前を教えてくれた。結構偏差値の高い高校だ。

「郁美さんの田辺という名字は旧姓に戻したんですか?」

「春斗がこっちに来てくれたら旧姓に戻すつもりだったんです。でも向こうに行ってしまったから、名字はそのままにしました。名字が違うと春斗と他人になってしまうような気がして」

「そうかあ。田辺春斗君、いい名前だ」


美容室のホームページ作成は他の仕事の合間を縫ってなので、スローペースだが順調に進んだ。美容室へも写真撮りを兼ねて行ってみた。なかなか良い店だ。月曜日の午後からは郁美さんとの打ち合わせのために、他の仕事は入れないようにした。2回目からは夕飯は郁美さんが材料を買って来て、作ってくれるようになった。ワンルームの部屋と違い、キッチンが広いので、楽しそうだった。

ホームページが完成してからも、郁美さんは月曜日になると俺の部屋にくるようになった。

「一人で食べても美味しくないんだもん。それに、ここはキッチンが広いから、料理を楽しめるし」

そう言って、毎週月曜日は食材を買ってやってくる。俺は月曜日の夕方からは仕事を入れないようにした。


郁美さんが俺の部屋にくるようになって3か月くらい経った、冬が間近に迫る肌寒い日だった。郁美さんが俺の部屋から自分の部屋がどのように見えるのか見てみたいと言った。

「今日は、わざと部屋の電気をつけたままにして、レースカーテンだけにしてきたんです」

そう言って、俺について寝室に入った。初めて郁美さんの部屋を覗いた時を再現するように、俺は寝室の電気をつけず、窓に近づいた。

「本当だ。丸見えじゃない」

「そうでしょ。初めて見た時はドキッとしました」

「本当は私の着替えとか見たんじゃないの?」

悪戯っぽい目で俺を見てきた。

「ごめんなさい。1回だけ見ました。服を脱ぎ出したので、慌ててカーテンを閉めたのですが、一瞬だけ下着姿が見えてしまいました」

「その1回だけですか?」

「そうです。誓って、その1回だけです」

「1回だけしか見てないって、結構ショックだなあ」

「何でですか?」

「普通、男の人ならそういうの見たいものでしょ?私って、そんなに魅力ないですか?」

「郁美さんは魅力あります。下着姿を見たときは本当に胸がドキドキでした。だから、下手にそういう姿を見てしまっては、自分の気持ちのやり場に困ると思ったから、それ以来見ないようにしたんです」

「本当ですか?」

「本当です。今はその時よりも、もっと魅力を感じています」

「じゃあ、こんな暗がりで、ベッドのすぐそばで、私と二人きりでいるのは大変じゃないですか」

「もう胸がドキドキで、さっきから困っています。もう向こうの部屋へ行きましょう」

郁美さんが俺の手をつかんだ。

「私も、さっきから胸がドキドキしているんですよ」

そう言って、郁美さんは、俺の手を自分の左胸にあてた。手に心臓の鼓動がとてつもなく大きな振動を伝えてくる。たまらず俺は、郁美さんを強く抱きしめ、ゆっくりとベッドに横になった。


郁美さんは、俺の部屋で寝泊まりするようになった。朝起きて、一旦自分の部屋に戻り、支度をして美容室へ行く。そして、仕事が終わったら、一旦自分の部屋に戻って着替えてから俺の部屋にくるといった流れが出来上がった。一緒に住んでしまいたいのだが、3LDKのうち、一部屋は仕事場に使っており、リビングも来客用の応接を兼ねているので、郁美さんの荷物を入れ込むと、とても狭くなる。そろそろ事務所を別に借りることを考えた方が良いかもしれない。


3月に入り、俺は事務所物件の候補をいくつかピックアップしていた。出来たら、郁美さんの美容室に近い場所が良いと考えていた。事務所を決めたら、郁美さんに一緒に住もうと提案するつもりだった。そんなとき、リビングで食事をしていると、郁美さんが暗い顔をしてため息をついた。

「どうしたの?」

「春斗から何も連絡がないの。進学先はもう決まっていると思うんだけど、何も教えてくれないし。別れた旦那には連絡したくないし」

そう言う郁美さんはとても寂しそうだった。


その日は、ホームページの更新で、新しい写真を撮るために、休みの月曜日に二人で美容室に来ていた。他の仕事を入れていたので、美容室に入ったのは夕方の4時半だった。郁美さんにはマンションに帰れるのは6時半くらいになるだろうから、夕飯は簡単に出来るすき焼きにしようと言って、昼間買い物をしておいた。

もうすぐ5時になろうとした頃、入り口のドアが開き、誰か入って来た。

「ごめんなさい、今日はお休みなんですよ」

そう言って入口を振り返った郁美さんが固まった。

「春斗…」

「髪を切ってもらおうと思って来たんだけど、いいかな?」

フリーズしたように固まっていた郁美さんは、少し目を潤ませながら、黙ってセットチェアーに春斗くんを招いた。

「どんな髪型にする?」

「来週卒業式だから、母さんのセンスでカッコいい髪型にして」

「わかった。任せておいて」

「この前、美術の原田先生に呼び出されたんだ。美術の先生が何の用だろうと思ったら、隣に井手口さんがいた」

驚いた郁美さんが振り向いて俺を見た。

「原田は学芸大学時代の同級生なんだ。春斗くんの進学のことを聞けないかと尋ねて言ったら、本人に聞けといって呼び出してくれた」

「その時、僕が母さんを避けているのは何故って聞かれて、ビックリした。僕は避けているつもりはなかったから」

一瞬郁美さんのハサミが止まった。そして、思い出したようにまた軽快な音を出してハサミが動き出した。

「僕が父さんの方へ行ったのは、父さんがどうしようもない人だから。ひとりにしておいたら、あのまま働かずに野垂れ死にしてしまうと思ったんだ。母さんはひとりでもちゃんとやっていける人だから大丈夫だと思ったんだ。母さんにとっては父さんは、どうでも良い人なんだろうけど、僕にとっては父親だから放っておけなかった」

「それにしても、全然連絡くれなかったじゃない」

「本当に忙しかったんだ。進学にしても、父さんはあてにならないから、奨学金のこととか、自分で調べてたから」

「お金のことなら母さんに言えばよかったじゃない」

「そうすると、父さんはまた母さんに甘えるでしょ?それじゃあ、離婚しても同じじゃない。父さんも僕が色々調べていることを知って、やっとちゃんと働き出したんだから」

「それで、進学はどこになったの?」

「僕、大学には行かないことにした」

「どうして?」

「僕、美容師の専門学校に行くことにした。そして母さんと同じ、美容師になるよ」

再び、郁美さんのハサミが止まった。今度はその手はすぐには動かず、ジッと何かに耐えていた。

「専門学校でわからないことがあったら、聞きにきていい?」

郁美さんは涙をこらえ、黙って頷く。春斗くんは鏡に映る郁美さんの姿を見て、言葉を続けた。

「それで、専門学校を卒業したら、ここで修行させてもらえるかな?」

郁美さんは、自分の顔にタオルを押し当てて、大きく頷いた。


俺のマンションで、3人ですき焼きを食べた。さすがに食べ盛りの男の子だ。多めに買っておいた牛肉はあっという間になくなった。久しぶりに春斗くんと一緒に食事をする郁美さんは、本当に嬉しそうだった。

郁美さんが車で春斗君を家まで送って行っている間、俺はシャワーを浴び、ベッドで本を読んでいた。帰って来た郁美さんは、そのまま浴室へ行き、シャワーを浴びているようだった。しばらくして、郁美さんが寝室に入って来た。そして寝室の電気を消す。すると、窓の向こうに、郁美さんの部屋の明かりが見えた。電気をつけたまま、しかもレースカーテンだけで部屋を出てきたようだ。郁美さんは窓際に立ち、自分の部屋の明かりを見ながら言った。

「私、カーテンを閉め忘れて、本当によかった。カーテンを閉め忘れてなかったら、あなたと出会うこともなかった。そして、あなたと出会わなかったら、春斗と今日みたいに話すことはなかったと思う」

俺は郁美さんの横に立ち、肩を抱きながら言った。

「そんなことはないよ。いつかはちゃんと話せたと思うよ」

「私のために春斗の学校まで行ってくれたのね」

「僕にとってもケジメだったから」

「ケジメ?」

「美容室のそばに、事務所を借りることにしました。だから、事務所代わりに使っていたスペースが空きます。郁美さん、ここに引っ越して、一緒に暮らしませんか?そして、僕と結婚してください」

「私、今年で43歳になるのよ。こんなおばさんでいいの?」

「43歳なら、40年くらいは一緒に暮らせます。僕は、郁美さんと40年一緒に暮らしたいです」

「よかった。春斗の言いつけを守れそう」

「春斗君は何って言ったんです?」

「井手口さんは、とても良い人だから、絶対逃してはダメだよって。そして、これからは僕のことより自分の幸せをちゃんとつかんでねって」

郁美さんの部屋から照らされる明かりに、郁美さんの目からこぼれ落ちた雫が光っていた。

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