第12話 招かねざる男
家事がひと段落したら、いつの間にかもうお昼になっていた。
学校では今ごろ、水島君たちは帰り支度を始めている頃かしら。
サトちゃんはリビングのソファーでスヤスヤと寝息を立てて、起きる気配はない。
テレビを見ていたら、いつの間にか疲れて寝ちゃったみたい。
『それではここで、臨時ニュースをお送りします』
ぼんやりとテレビを見ていると、急に画面が切り替わった。アナウンサーの男性が真面目な顔で原稿を読み始める。どこかで殺人事件が起きたみたいだ。
悲惨な事件も普段なら聞き流してしまうんだけれど。
「水島君の話が頭に残っているせいで、なんだか嫌な気持ちになるわね」
どうでもいい他人ならまだしも、もし彼が殺されてしまったら。そのときアタシは平常心を保てるんだろうか。
「……やめましょ。ご飯が美味しくなくなっちゃう」
ポツリと独り言を漏らしながら、アタシは昼食用のミートソースパスタの準備を始める。一人でいるときには買わないような、ちょっとお高めのレトルトだ。トマトが苦手な彼がいない間に、サトちゃんとアタシでプチ贅沢を楽しもう。
――ピンポーン。
ちょうどその時、インターホンが鳴った。
誰かしらと思いながらも私は玄関に向かう。
そしてドアスコープを覗いて、さらに首を傾げた。
扉の向こう側に居たのは、警察官の制服を着た人物だった。
「警察ですが、こちらが鐘鳴さんのお宅ですよね?」
「あの……どういったご用件でしょうか?」
恐る恐るドアを開けると、眉間にシワを寄せた四十代ぐらいの男性が軽く頭を下げた。物腰こそとても柔らかいけれど、隈のある鋭い目で見つめられると背筋が凍り付く。
「私、長夜警察署の北月と申します」
「はぁ……」
「お宅から聞きなれない子供の声が聞こえると、近隣住民の方から通報がありまして。少しお話を伺いたいのですが」
そう言って警察手帳を見せてきた北月という男性。どうみても確実にアタシを怪しんでいるのが伝わってくる。
「(どう誤魔化そうかしら。親戚の子が遊びに来ているってウソをついても、直ぐにバレちゃうし)」
なんとか誤魔化そうと私は口をパクパクさせる。
北月さんはそんな私の様子を気にすることもなく、強引に家の中へ入ろうとした。
「ちょ、ちょっと!? 勝手に入らないでください!」
「通報があった以上、確認する必要がありますので」
そう言いながら彼は無理やり玄関に上がり込もうとする。
私の制止も聞かず、警察官とは思えない行動だった。
「やめてください! 幼い子が寝ているんですよ!?」
「アイツの子がいるのか! クソッ、悪魔の一族は根絶やしにしてやらねば……俺が正義の鉄槌を……おい、俺の娘はどこにいる!?」
ずかずかと廊下を進む北月さんはアタシの言葉を聞いて、真っ赤に染めた顔でこちらを振り返る。
悪魔? 俺の娘?
……この人は何を言っているの?
「どういうことですか!? 貴方はいったい……まさか、日南さんのお父様なんじゃ」
私が問い詰めると、彼は舌打ちをして視線を逸らす。どうやら彼がここに訪ねてきたのは偶然じゃないみたい。
そうなると彼がここに来た理由は、娘のキョウさんを連れて帰るため?
「お前も悪魔の味方をするのか……邪魔をするなら許さんぞ、このクソ女……っ!」
「えっ――」
北月さんは怒りに顔を歪めながら、私の肩に手を伸ばす。
「きゃぁっ!」
咄嗟に回避しようとしたけれど、足が縺れて床に倒れこんでしまう。
それでも北月さんは容赦なく覆い被さってきた。彼の瞳は血走り、先ほどとはまるで別人だった。
恐怖で身動きが取れない私を見て彼が笑う。その笑みはどこか歪んでいて、狂気に満ちていた。私は今まで感じたことのない絶望感に襲われた。
「ヒビキお姉さん……?」
「サトちゃん? だめっ、こっちに来ないで!」
私の悲鳴で起きてしまったサトちゃんがリビングから顔を出す。それを見た北月さんは再び口元に笑みを浮かべていた。まるでおもちゃを見つけた子供のように無邪気に笑いながら、ゆっくりと後ろを向いた。
「サトちゃん、逃げて!」
一瞬の隙を突いた私は、慌てて彼を突き飛ばす。
そして開いたままとなっていた玄関からサトちゃんを逃がし、自分はキッチンへと駆け込んだ。
「逃げるな……言え……キョウの居場所を吐くんだ……」
ゆっくりと起き上り、アタシを睨む北月さん。
幸いにもサトちゃんには目もくれず、こちらへと近づいてきている。
「キョウを……どこへやったぁああああ!」
彼が大きく手を振り上げた瞬間。
アタシは咄嗟にまな板の上にあった包丁を握り締めた。
包丁の刃先を彼に向け、思いっきり突き出す。
「こないで――!」
目を瞑って全力で拒絶の言葉を吐いた。
私は手に生暖かい感触を感じながらも、必死に何度も何度も叫んだ。
途中で力が抜け、へなへなと床へ倒れ込んでしまった。
気付けば、手元から包丁は無くなっていた。
勇気を出して目蓋を開けると、北月さん――いえ、日南さんはアタシの家の床でぐったりとしていた。
「い、いや……」
彼はもう動くことはない。赤い血がお腹から溢れて、床を赤く染めていく。どうやらさっき包丁で刺してしまったのが致命傷だったらしい。涙を流す私を、血塗れの彼は固まったまま不気味に笑いかけている。
私は震える手で自分の髪を触ると、べっとりと血が付いていることに気付いた。
「……嘘」
人を殺してしまった。
その恐怖にガタガタと体が震えだす。
「どうしてこんなことに……」
床に広がる血を見て、吐き気が込み上げてくるのを感じた私はトイレへと駆け込んだ。そして思い切り胃の中のものを吐き出す。
お腹の奥に残っていたものを全て吐き出してもなお、気持ち悪さが消えなかった。
「悪くない……アタシは何も悪くない……」
そうよ、これは正当防衛だわ。
アタシは自分の身を守るために仕方なくやったのよ。
それにこの男が何者で、何をしに来たのか、確かめる必要だってある。
汗と涙が止まらない私は自分にそう言い聞かせながら、うつ伏せに倒れていた日南さんの上着を漁り始めた。自分が正しい行いをしたと証明できなければ、アタシはもう精神がもたなかった。
「名前は日南
上着から免許証や財布など、個人情報が分かるものは全て見つかった。それに加えて警察手帳とは別に、革製の手帳があった。どうやら個人的なメモを取るために使われていたらしい。他にめぼしい物は特になかったけれど、ここで初めて彼の素性を知ることができた。
彼がここに来た理由――それは水島君の家族を殺すためだった。最初は自分の子供である日南さんを連れ戻しに来たのかと思っていたけれど、どうやらそれだけじゃないみたい。
「あの悪魔という言い方と怨念の相当篭った目……どう考えても、本気で人を殺すつもりだったとしか思えないわ」
さらにメモを読み進めていくと、事情が何となく分かってきた。
たとえば日南さんのお母様と水島君のお父様が浮気して、その子供であるサトちゃんを身籠もったこと。
そのことについて、彼は長いあいだ恨みを募らせていたみたいね。
「日南さんからも、お父様は厳しかったって聞いていたし。どうしても浮気が許せなかったのかな」
警察官としての正義感と私怨が混ざり合って、今に至るってことなのかしら。
「でも……だからって人を殺していい理由にはならないわ」
彼に同情はする。
だけどやっぱり殺人はいけないことだと思うし、今回なんてアタシは完全にとばっちりだった。
彼の腰元にある拳銃はどうみても本物だ。
もしその銃口が私に向けられていたら――。
「――ん? 手帳に写真が挟まってる……え、この人って」
見覚えのある顔。記憶よりもずっと老けてはいるけれど、間違いない。
これはずっと探していた、アタシの初恋の人だ。
「どうして日南さんが、この写真を……?」
状況が飲み込めず、頭が混乱してくる。
アタシは手に持った写真を食い入るように見つめた。すると写真の裏に一言こう書いてあった。
【水島
「……え? どういう、こと?」
思考が定まらない。
頭の中で整理しきれない疑問が次々と浮かんでくる。
いや、答えは分かっている。
ただ認めたくないだけだ。
「水島君のお父さんだったなんて」
こんな形で再会することになるなんて思ってもいなかった。
まさか憧れ続けたあの人が、そんな最低な人だったとは思わなかった。
裏切られた。私の半生が、全て否定された。
アタシの初恋だったあの人は――殺された。
「いや……嘘よ、こんなの……」
今までの楽しかったことや希望が現実によって壊されていく。
「アタシ……何してるんだろう」
呆然としたまま、手からするりと写真が滑り落ちる。
そして両手で顔を覆ったまま、静かに泣き始めた。
何を間違ったんだろう。
アタシの何が駄目だったんだろう。
「好きにならなきゃ良かった、のかな」
アタシが好きにならなければ、こんなことにはならなかった。
でも今さら後悔したって、なにもかもが遅い。
「――やり直したい」
誰かを好きになったりしなければよかったんだ。
そうすれば、こんな苦しみを味わうこともなかったのに。
「そうだ、もういっそのこと――」
もし水島君の言っていた何度も繰り返す夢が現実だったとしたら。
アタシはこんな惨めな気持ちにならなくて済むのかな。
いっそのこと、水島君と結ばれる未来だって――。
「そしたらもう、何も考えなくていいよね」
そうだ、そうしよう。
このまま全部無かったことにしちゃおうよ……その方が楽になれる気がする。
そう思ったときにはもう、私は次の行動に移していた。
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