第83話 EX.残夜の影く滅国-⑯

 ずっと、疑問に思ってきたことがあった。


 それは一つ下の後輩である白銀 玲と共に【深緑の大森林】に挑み、レベルというシステムの存在に気づいた時から抱いていた疑問だ。


 その時に明らかになったのは、俺のレベルを0から1に上げるために、160万を超える経験値を取得する必要があるということだった。


 レベルは、その者の身体能力やスキルの有無で次のレベルアップまでに必要な経験値が変動する法則がある。


 その時点で俺は【空歩】や【豪脚】といった強力なスキルを解放していたため、そのせいで次のレベルまでの道のりが遠のいてしまったと思っていた。


 しかし、心の片隅では『そんなたった二つのスキルを解放しただけで、160万も経験値が必要になるのか?』と思う自分もいた。


 だが精神世界でエアイリスと会話を交えた時、俺はあることを思い出したのである。


 異世界で俺が得たスキル。それは、大きく分けて三つある。


 一つ目はノーマルスキル。


 【投擲】を始め、【空歩】や【豪脚】、【瞬脚】や【豪腕】のスキルは全て、ノーマルスキルに分類されるスキルだ。


 ノーマルスキルは特定の行動を取ったり、スキル所持者が発動したいと思ったタイミングで発動することができる、スキルの名称である。


 基本的には暴発することのないスキルではあるのだが、以前学校で野球部の先輩にボールを投げ返した際に【投擲】が発動してしまったように、無意識下でも条件を満たすことで発動してしまう場合がある。


 そして、ノーマルスキルの定義は"基本的に誰でも、老若男女問わず取得することができるスキル"であり、異世界では取得している者の多い割とポピュラーなモノだったりする。


 次に、二つ目はパッシブスキルだ。


 かつて高峯さんを自転車から助けた時や、モンスターとの戦闘時によくお世話になっている【危険予知】が、パッシブスキルに含まれるスキルである。


 ノーマルスキルと違いパッシブスキルは常時発動しているスキルであり、他にも俺は【健康体】という病気や疫病等を防ぐことができる便利なスキルも、封印せずにこちらの世界に持ってきている。


 そして、最後の三つ目。


 三つ目のスキルは、エクストラスキルと呼ばれるモノだ。


 ノーマルスキルやパッシブスキルと違って取得難易度が高く、それでいて扱いにくく、一癖も二癖もあるスキルだ。


 だがその分強力であり、異世界ではエクストラスキルを一つ持っているだけで、どれだけノーマルスキルを持っていても太刀打ちできないと言われていたほどである。


 俺もいくつかエクストラスキルを取得しているのだが、どのスキルも強力かつ危険なモノのため、俺は現代日本で在り来りな日常生活を送るべく、異世界からこちらの世界に戻る際にあらゆるエクストラスキルを封印してきた。


 だが一つ。唯一、封印をしなかったエクストラスキルが一つだけ存在する。


 それは決して、封印を忘れていたわけではない。エアイリスと交える封印の儀式が嫌だったというのもあるが、明確な理由は違う。


 その理由は、実に単純なものであり──


「もう終わりにしようぜ、エリュシール」


 俺の呼び声に応え、顕現した魔剣ダラク。


 剣というにはあまりにも細く、薄く、そして長い刃を持つこの剣は、常におどろおどろしい雰囲気を放っている。


 【破剛の両手剣】と違って、今俺が手にしている【魔剣ダラク】はあまりにも軽い。


 軽すぎて、柄を握っていることすら忘れてしまいそうになるくらいには、一切の重さを感じない剣であった。


「⋯⋯あなた、なにをしたの⋯⋯? あれだけの密度の魔法をやり過ごし、あまつさえ私の魔力障壁さえも貫通する一撃を放つだなんて⋯⋯っ」


「簡単な話だ。なにも難しく捉える必要は無い。俺が、この剣が、お前の魔法を切っただけだ」


 ありのまま起こったことを嘘偽りなく説明したのに、エリュシールは信じられないと言わんばかりの表情でこちらを睨みつけてくる。


 だがそんな中、俺は今ようやく気持ちよく空気を吸えることにちょっとした感動を覚えていた。


 エリュシールが紅月の魔女に成ってから、空気中にエリュシールの放つ魔力が混ざっていたため、不快というか、一呼吸一呼吸にちょっとした違和感を感じていた。


 だが、今はそれがない。


 まるで空気清浄機で浄化され綺麗になった空気を吸っているような気分に、俺はつい笑みを浮かべてしまっていた。


「魔法を、切ったですって⋯⋯? ありえない。氷の剣は魔力を物質に変性させる魔法だから、破壊されるのも納得がいくわ。でも、炎や光、影の魔法を切るなんて無理よ。たとえ核を破壊したとしても、魔法の余韻は消えない。完全に消滅するだなんて、理論上不可能だもの⋯⋯!」


「あぁ、お前の言う通りだ。悪いな、言葉足らずで。正確に説明するのなら⋯⋯切った上で、コイツが喰っちまったんだよ」


「まさか⋯⋯魔力の、吸収⋯⋯?」


 察しのいいエリュシールは、俺の言葉だけで魔剣ダラクの特性を疑いながらも理解してくれたようだ。


 そう。魔剣ダラクは、魔力を喰らう剣だ。


 魔力を喰らう。それ即ち、魔法を打ち消すということ。


 まさに、魔導師殺しの剣。異世界にいた魔導師は皆、名を聞いただけで絶望するほど恐ろしい剣の一つなのだが。


 それでもエリュシールは、どこか不敵な笑みを浮かべていた。


「⋯⋯いいわね。いいじゃない⋯⋯! これでようやく、対等に戦うことができるわ! やっと楽しくなってきたわね! 一方的な蹂躙ほど、つまらないものはないもの!」


「本当にそうだと思うか?」


「えぇ、もちろんよ! 確かに、魔力を吸収する剣は魔法を扱う私にとって天敵みたいな存在だわ。でもね、そういうモノの攻略法は大体相場が決まってるのよ」


「⋯⋯と言うと?」


「その剣が魔力を吸収できなくなるまで、魔法を叩き込めばいいのよ!」


 力強い魔力の奔流を纏いながら、エリュシールが自身から放たれ、溢れ出す魔力を更に練り上げ、その質を高めていく。


 魔法は、魔力の量や質によって威力や規模が大きく変動する。


 今のエリュシールが展開する魔法は、きっと先ほどよりも強力で、正確で、まさに魔法の高みをこの目にすることができるだろう。


 だが、決して臆することはない。怯むこともない。


 俺は魔剣ダラクの柄を軽く握り締めながら、宙に舞い魔力を練り上げているエリュシールに向かって、一歩、また一歩とゆっくり歩んで行った。


焼き滅ぼせ、冥蒼轟天火竜ディーヴァ・リーデスヴィーエ!」


 エリュシールの詠唱と共に猛々しく燃え盛る蒼き炎の竜が顔を出した瞬間、急激に周囲の温度が上がっていく。


 体感にして、3度は上がっているだろうか。


 距離として見ればまだ20メートルも離れているのに、一瞬で大気の温度を上昇させるほどの火力を放つ竜が三体四体と展開され、エリュシールの腕の動きに合わせて空を泳いでいた。


 一目見ただけで分かる。あの蒼い炎の竜は、触れたものを燃やすとか焦がすとか、そういう範疇から大きく外れていることが。


 触れた瞬間から皮膚や肉、骨の髄までが一瞬で溶かされ無へと化すほどの熱を纏う蒼い炎の竜が、渦を巻きながら俺の頭上へと降り注いでくる。


 どんな金属でさえも、耐火効果のある装備すらも、呑み込み焼け溶かす炎の塊。


 まさに絶望。どう足掻いても逃れることができず、防ぐことすら不可能なほど高位な魔法。


 だが──


「さすがに熱いな」


 ごうごうと唸りを上げながら迫り来る蒼い炎の竜に向けて、俺は軽く魔剣ダラクを振るう。


 漆黒よりも深く黒い刃が、蒼い炎の竜の下顎を微かに掠めた瞬間。


「──っ! な、なんですって⋯⋯?」


 力の抜けたエリュシールの声が、静寂によって包み込まれた紅き月の夜に静かに響き渡る。


 それもそのはず。


 なぜなら、ようやくエリュシールが真面目に戦う気を見せ、圧倒的なまでの実力を見せつけようと放った自慢の魔法が。


 俺のたった一振りで、消滅したからだ。


「あぁ⋯⋯いい魔力だ。おかげで、コイツも喜んでるよ」


「⋯⋯っ!」


「どうした、なにを動揺してるんだ? コイツは魔力を喰らうってさっき教えたよな? まさか、今の一発でコイツの魔力吸収許容量を超えようとしたのか? ははっ、それはさすがに考えが甘すぎるんじゃないか?」


「⋯⋯そうね、私の考えが甘かったわ。そんなたった一本の剣程度でいい気になってるあなたの息の根を止めるのだから、もっと全力を出した方がいいわよねっ!」


 強く拳を握り締めたエリュシールが天に向かって腕を伸ばすと、エリュシールの周囲に無数の青い魔力の塊が浮かび上がっていく。


 その魔力は次第に変形していき、剣や斧。鎌や槌などの、あらゆる武器へと成っていく。


 黒く、影のような闇を纏う氷の武器たち。その幾百を超える鋭利な殺意が、全て俺へと向けられていた。


蹂躙せよ、惨冰黒徨讃歌ギーリァ・エステイルラッハ!」


 声高らかに詠唱をするエリュシールが、天に向けて掲げた拳を俺に目掛けて振り下ろし、そしてこちらに人差し指を向けてくる。


 すると、待ってましたと言わんばかりに氷の武器の大軍が一斉に動き出し、俺を跡形もなく木っ端微塵にするべく襲いかかってくる。


 一つ一つの威力は蒼い炎の竜の方が明らかに上だが、その質量や密度は、こちらの方が圧倒的だ。


 これだけ展開すれば、いくら魔剣ダラクを持つ俺でも捌き切ることは不可能だとエリュシールは考えたのだろう。


 だが、エリュシールはまだ分かっていない。理解していない。


 いくらやったって、どれだけの魔法を展開したって、魔剣ダラクが顕現した以上エリュシールに勝ち目などないのだ。


「ほら、餌だぞ」


 そう、魔剣ダラクに話しかけるように剣を掲げると、俺に目掛け襲いかかってきていた氷の武器の大軍の行き先が、俺ではなく魔剣ダラクへと吸われていく。


 そしてそのまま、氷の武器は魔剣ダラクと激突して砕け散る──ことはなく、魔剣ダラクの刀身に接触した氷の武器は、全て等しく刃の中に溶け込むように吸われていき、消えていった。


 実に簡単な作業だ。俺は、なにもしなくていい。ただ魔剣ダラクを掲げているだけで、こんな魔法などやり過ごすことができる。


 やがて、幾百もあった氷の武器の大軍はその数を減らしていき。


 気づいた頃には、エリュシールの展開した氷の武器は全て、魔剣ダラクの餌となって吸収され尽くしていた。


「いい選択だ、エリュシール。質より量。俺が捌けないほどの魔法を展開するのは、間違った選択ではない。だが、個の魔力が低いせいでコイツに魔力の主導権を奪われたな」


「魔力の、主導権⋯⋯?」


「あぁ。コイツが魔力を吸収する原理は、他の魔力を強制的に自分と同じ魔力に変えて取り込むからだ。だからコイツは魔法を切ることができる。そして、さっきみたいに一つ一つの魔力が少ない魔法ならば、俺がなにかするまでもなく勝手に魔力を上書きして吸い尽くしてしまうってわけだ」


「な、なによ、それ⋯⋯! そんな、ふざけた能力があっていいわけ⋯⋯!? たかが、剣の分際で⋯⋯!」


「コイツは確かに剣だ。だが、生きている。俺たちが呼吸をして生きているように、コイツは魔力を喰らって生きている。まぁ、本来なら手にするだけで所持者が死ぬような剣なんだけどな」


 それ故に、魔剣。


 敵や味方など関係なく、魔力であるならお構い無しに喰らい尽くす獰猛な剣。


 だが元々、この剣は俺のモノではなかったのだ。


 異世界で戦った、とある魔族。本来ならその魔族の所有物であり、その魔族が作り上げた稀代の一刀。かつ、ソイツにしか扱えない代物だったのだが。


 まぁ、今はそんな話どうでもいいだろう。


「それと、気をつけた方がいいぞ」


「⋯⋯っ、なんの話よ⋯⋯!」


「首、隙だらけだからな?」


 わざとらしく首筋を見せながら、ゆったりとした流れるような動きで魔剣ダラクを振るう。


 そんな俺の行動を前に、エリュシールは目を大きく見開きながら腕で顔を隠し、一瞬で何重にも魔力障壁を展開したのだが。


「──ッ!?」


 時すでに遅し。


 魔剣ダラクを振るったことで発生した不可視の斬撃は、20メートル近く離れているエリュシールの魔力障壁を全て喰らい、その左腕に一筋の線を走らせる。


 だが、その程度で止まるようなものではなく。


「ぁ、がぁっ!?」


 魔力障壁を喰らい尽くした不可視の斬撃は、そのままエリュシールの両腕を切り落とし。


 その後、エリュシールの無防備な胸に微かな傷をつけ、不可視の斬撃の強襲はようやく終わりを迎えた。


「はぁ、はぁ⋯⋯! ありえない⋯⋯! 私は、魔力障壁を五重にも重ねたのよ!? それなのに、それなのに⋯⋯!」


「魔力障壁なんて、そんな魔力の塊コイツの餌になるだけだぞ」


「そんなの、最初の一撃で理解していたわ⋯⋯っ、斬撃を、飛ばせることだってね⋯⋯! でも、まさか五重展開の魔力障壁すらも破られなんて、想定外だわ⋯⋯!」


 切られた両腕の断面から白い光の粒を零しながら、エリュシールは額から一粒の汗を垂らしていた。


 魔剣ダラクは、振るうことで不可視の斬撃を生成し、飛ばすことができる。


 それだけを聞けばそこまで優れた能力には聞こえないが、魔剣ダラクが生み出す不可視の斬撃には、凶悪にも魔力を吸収する能力が備わっている。


 つまり、どれだけエリュシールが魔力障壁を何重にも展開したところで、不可視の斬撃の前では無意味に等しいのだ。


「エリュシール。お前は、まだ一つ大きな勘違いをしている」


「勘違い、ですって⋯⋯!?」


「あぁ。俺を騙し、リーウェルを殺し、紅月の魔女と成ったことで戦況を掌握し、主導権を握り、生殺与奪の権すらも握っていた。それは間違いない。だが、今はもうその立場が逆になってるんだよ」


「⋯⋯っ!」


「一体いつまで、自分を上位の存在であると勘違いしている? お前はもう、俺を見下ろす立場にはいない。いや、見下ろすことができないはずだ」


 正直、魔剣ダラクの性能を知っていたとはいえまさかここまで簡単にエリュシールを追い詰めることができるとは思ってなかった。


 言ってしまえば、エリュシールは超がつくほどの魔法特化であり、魔法の対処法や、魔力障壁の突破法がなければ、どれだけ実力があっても詰んでしまうタイプの相手だ。


 だが、まさにエリュシール特効と言っても過言ではない魔剣ダラクのような武器さえあれば、紅月の魔女と成ってユニークモンスターと化したエリュシールでも、攻略が容易になる。


 とまぁ、言葉だけで言うのは簡単だが実際のところはかなり厳しくはあるだろう。


 正直言って、この魔剣ダラクはチート武器だ。だからこそ、エクストラスキルを介することしか扱えない、特別な武器ではあるのだが。


 ユニークモンスターをここまで簡単に追い詰めることができる武器を呼び起こす、俺のエクストラスキル。


 しかもこのスキルの強みは、このスキルによって呼び起こすことができる武器は魔剣ダラクだけではないというところだ。


 とんでも性能をしている魔剣ダラクではあるが、その他の武器も魔剣ダラクと同等か、それ以上の特性、性能のモノもある。


 ではなぜ、こんな強力で凶悪な武器を呼び起こすことができるスキルを、俺は封印しなかったのか。


 その理由は本当に簡単かつ単純なものであり、本来なら、このスキルはこの世界──もとい、地球上では絶対に発動することができないスキルだからである。


 このスキルは魔力を武器に吸収させ、吸収させた魔力と武器を代償に新たな武器を召喚し、顕現させるスキルだ。


 その名も、【魔奪装纏】という。


 発動条件は三つ。


 一つ、魔力核を中心に生成される魔法の核を武器で貫き、魔力を武器に流し込むこと。


 二つ、魔力を流し込む際に、武器が武器としての原型を保っていること。


 三つ、呼び起こすために必要な魔力の規定量を充分に満たしていること。


 【魔奪装纏】のスキルは、これらの三つを満たすことでようやく発動することができる。


 そう。このスキルを発動して武器を呼び起こすためには、絶対的に魔力が必要不可欠となる。


 だが俺のいる世界には、地球には、魔力という概念が存在しない。


 つまり、いくら強力なエクストラスキルと言えど、魔力が存在しない世界では完全に産廃のゴミスキルと化すのである。


 だから過去の俺は、それらを考慮しつつもエアイリスとの不快な封印の儀式を早く済ませるべく、【魔奪装纏】のスキルは封印しなくてもいいと判断したのだが。


 俺は、このスキルの存在をさっきのさっきまで完全に忘れていた。


 今はこうして無事に魔剣ダラクを呼び起こし、エリュシールを追い詰めることができたわけだが。


 それがエアイリスの言葉のおかげだと考えると、なんだか複雑な心境になってしまうのもまた事実であった。


「⋯⋯紅月の魔女であるこの私が、ただの人間であるあなたの格下⋯⋯?」


「あぁ。もちろん、俺がお前を追い詰めることができたのは全てコイツのおかげだ。だが、コイツは俺にしか扱えない代物だ。お前は、俺に負けるんだよ」


「ふっ、ふふふふっ⋯⋯そんなの⋯⋯そんなの、絶対にあってはならないことだわ!!」


 俯かせた顔を上げ、狂気に塗れた笑みを浮かべながら、天を仰ぐエリュシール。


 両腕とも肘から下が無くなっているとはいえ、エリュシールから放たれる魔力の圧は未だ健在であり。


 いや、むしろ追い詰められたことで感情が怒りに埋め尽くされているのか、魔剣ダラクを持ってしても鳥肌が立つほど、その魔力の圧は凄まじいものであった。


「あなた一人を相手に、こんな手は使いたくなかった! でも、確実な勝利を得るためには、あなたという存在をこの世から消し去るには、恥や外聞をかなぐり捨ててでも使うしかないわッ!」


 エリュシールがめいいっぱい両腕を広げることで、その足元に大きな白い魔法陣が展開される。


 それはかつて、桃葉さんが魔術を使用した際に描いていた魔法陣よりも遥かに大きく、そして複雑な構造をしており。


「奮い立つ晩鐘の叫喚よ! 千鎖を結ぶ凶星の瞬きよ! 今ここに、我が声を以て厳正なる夜明けを告げる!」


 エリュシールを包み込む魔力の奔流が、足元に広がる魔法陣へと吸われていき、やがて輝きを放つようになる。


 魔術の詠唱。魔法だけで俺を相手にしてきたエリュシールが、ここに来て魔術を発動させようとしている。


 それ即ち、命の危機を感じたエリュシールがようやく俺を一人の敵と認め、本気で葬り去ろうと決意したということだ。


「儚きかな夢の泡沫! 心酔たるは静謐の真秀呂場! 今宵の帳を終幕に、朝日の目覚めに瞳を揺らす者なれば、絶世の日に革命の鐘を掻き鳴らす!」


 エリュシールの足元に広がる魔法陣の周りに、計五つの小さな魔法陣が展開されていく。


 以前桃葉さんが作り上げた魔法陣は、ただ三つの魔法陣が重なるだけのシンプルなものであった。


 だがエリュシールの展開する魔法陣は複雑ながらも美麗であり、素人目で見ても鮮やかなその魔法陣は、あまりにも美しすぎるモノであり。


「西から昇る星よ、東へ沈む星よ! 時の流れに逆らい、世界の循環を欺き、否定し、二度目の月夜に感涙せよ!」


 最後に、巨大な魔法陣が今までエリュシールが展開してきた魔法陣を囲うように描かれていき。


「──また会いましょう、刻ノ旅人よアトーラ・コンツェルト


 静かに、エリュシールの声だけが夜に響く。


 それから待たずして、ゴーン、ゴーン、ゴーン、と、どこからともなく重々しい鐘の音が聞こえてくる。


 なにかが起きている。そう気づき、俺は周囲を見渡したのだが。


 そこで俺は、紅色に染まっていたはずの世界から色が消え、白と黒だけのモノクロの世界に変わっていることに気がついた。


「油断、慢心。即ち怠惰。残念ながら、あなたは己の力を過信してせっかくの勝利を逃してしまったわ」


「⋯⋯なに?」


「星詠の魔女、クロエ・リルネスタ。今まで謎だった彼女の魔法が、彼女の魂を取り込み解析することでようやく判明したのよ」


 先ほどまで焦燥し、動揺し、額から汗を流していたはずのエリュシールが、清々しいほど涼しい表情を浮かべながらこちらを見つめてくる。


 そこで俺は、異変に気がついた。


 魔剣ダラクで放った不可視の斬撃により、俺はエリュシールは両腕を切断し切り落とすことに成功した。


 その切断面からは白い光の粒が零れるように流れ出ていたはずなのに、今はその光の粒の流れが止まり、宙で動きを止めていた。


 それだけではない。体を包み込むように撫でていた風や、足元で舞っていた砂埃までもが、その動きを止めている。


 そう。それはまさに、時が止まっているような──


「⋯⋯まさか、時間の干渉か?」


「えぇ! クロエの魔法は、時を操作する魔法だったのよ! そして、今私が発動した魔術は時を巻き戻す魔術よ! 無尽蔵に近い私の魔力を三割も使った大魔術。まさかクロエがこんな素晴らしい魔法を扱えただなんて、嬉しい誤算だったわ! でもこれで、もうあなたはおしまいよ!」


 話しているうちにも、空へと舞って消えていったはずの白い光の粒がエリュシールの腕へと集まっていき、見る見るうちに傷が癒えていく。


 そしてそのまま、白い光の粒が集まることでエリュシールは自身の両腕を取り戻していて、胸元に走っていた傷も、いつの間にか治って綺麗な素肌に戻っていた。


「あなたの敗因は、私の魔術詠唱を止めなかったことよ! 私がなにをしても負けることはないだろうという、慢心が招いた結果に過ぎないわ!」


「⋯⋯なるほどな」


「このままこの時は、私がリーウェルを殺す瞬間まで巻き戻されるわ! あなたはなにが起きたのか知らず、分からず、ただあなたの力を知り、奥の手を理解した私に一方的に嬲り殺されるのよ! あっはははは! ほんと、無様で無様で可哀想ねぇ!?」


 勝利を確信したエリュシールが、元に戻って両腕をめいいっぱい広げながら空を仰ぎ、愉快そうに高笑いを上げていた。


 今俺が魔剣ダラクを振るって不可視の斬撃を放てば、確実にエリュシールの首を刎ね飛ばすことができる。


 それだけの隙を、エリュシールは晒している。だがそれはつまり、今俺がエリュシールになにかしたとしても、結末は変わらないということだ。


 この魔術は、きっと発動した時点で独立する魔術であり、たとえ術者死んだとしても最後まで発動しきる術式なのだろう。


 だからエリュシールは、これでもかと隙を晒している。首を切られても、心臓を貫かれても、全身をバラバラに切り刻まれても、時が戻り蘇ることができるからだ。


 それなら、それならば。


 俺はその淡い希望すら、打ち砕いて見せよう。


「⋯⋯出力解放、20パーセント」


 右手で強く柄を握り締める魔剣ダラクを、天に向けて掲げるように大きく振り上げる。


 それにより、俺の声に反応し共鳴する魔剣ダラクの刃から、黒い魔力の奔流が溢れ出した。


 ソレは不気味なくらいに美しく、そしてあまりにも濃く純度の高い──いや、高すぎる魔力の塊。


 まるで星のようにキラキラと輝き、煌めきながら流れるエリュシールの魔力とは、訳が違う。


 一切の輝きが、煌めきがなく、周囲の光を吸収しながらも黒く、深く、闇すらも呑み込むほどの漆黒の魔力。


 その、漆黒の魔力を纏い、今にも暴れ出しそうなほどに魔力を欲する剣を、俺はゆっくりと振り下ろし──


「──贄ノ黒衝サクリファイス


 漆黒に染まった刀身の鋒が、コツンッと地面に触れる。


 その瞬間、鋒から魔力が溢れ出し、まるで爆発したかのような魔力の奔流が飛び散るように解放され、四方八方、漆黒の魔力が世界を侵していく。


 俺はゆったりとした動きで魔剣ダラクを持ち上げ、刀身にべったりと付着する魔力を払い捨てるように、剣を振り払った。


 その刹那──魔剣ダラクの刃が撫でた空間に亀裂が走り、まるでガラスがバラバラに割れて砕け散るように、大きな亀裂が走っていく。


「なっ⋯⋯!?」


 息を呑むエリュシール。


 エリュシールの大魔術により、世界は時を止め、世界を巻き戻す時間の逆行が始まった。


 だが今度は、その時間の逆行が動きを止めた。


 否、時間の逆行が止まったわけではない。止まり、巻き戻った時間が、正しい時の流れに戻っただけである。


 風は流れ、砂埃が舞い、色を失った世界が再び紅色に染まっていく。


 亀裂の入った世界はそのまま粉々に砕け散り、まるで何事もなかったかのように、世界は正しい方向へと進み始めた。


「う、嘘⋯⋯あ、ありえないわ⋯⋯! 時間に干渉する、魔術の常識を逸脱した大魔術よ!? 世界を改変する力よ!? それなのに、どうしてこんな呆気なく⋯⋯!?」


 分かりやすく動揺を露わにするエリュシールを前にして、俺は魔剣ダラクを構えながらゆっくりと歩き出す。


 そんな俺に対し、エリュシールは殺意をこれでもかと放ちながら、強く睨みつけてきた。


 だがその殺意の中には、睨みつけてくる瞳には、微かに怯えや恐怖に似た感情が混ざっていて。


「勘違いするなよ、エリュシール。確かに、お前の時間を操作し定まった世界の運命を変える力は強力だ。厄介と言ってもいい」


「⋯⋯ッ!」


「だがな⋯⋯その力が魔法や魔術である以上、俺はその悉くを破壊することができる。時の干渉でも。世界の改変でも。因果や理、概念の創造でもな」


 宙に浮かび、余裕の表情を浮かべながらこちらを見下ろしてきていたエリュシールは、もういない。


 今では地に足をつけ、分かりやすく怒りと動揺を露わにし、俺から距離をとるように後退しながら、汗を垂らしている。


 まさに形勢逆転。完全に、お互いの立場が逆転した。


 悦に浸りながら、一方的に俺を嬲り殺しにしようとしていたエリュシールなどもう既に過去の存在だ。


 今のエリュシールは展開する魔法の全てが無効化され、時間を逆行させる大魔術すらも呆気なく打ち砕かれ、為す術がなくなっている。


 圧倒的かつ脅威的な存在であったエリュシールではあったが。


 今ではもう、ただ絶望に打ちひしがれている哀れな一人の少女にしか見えなかった。


「もう、お遊びは充分だろ。エリュシール」


「はぁ⋯⋯はぁ⋯⋯! 私は、私はまだ負けてないわ⋯⋯! 私は紅月の魔女なのよ⋯⋯! ようやく、私の野望を、願いを、叶えることができる力を手に入れたのに⋯⋯!」


「目を覚まさせてやるよ。お前は、神なんかじゃない。俺と同じ、ちっぽけな存在なんだよ。エリュシール」


 魔力を高め練り上げていくエリュシールと相対すべく、俺はゆったりと魔剣ダラクを構える。


 【深緑の大森林】から始まった、長きに渡るダンジョン配信が今。


 エリュシールとの死闘を経て、ようやく終わりを迎えようとしていた──

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る