第81話 EX.残夜の影く滅国-⑭

 暗く、深い闇の中。


 床もなく、壁もなく、天井もない黒い空間の中で、俺は目を覚ましていた。


「ここは⋯⋯」


 俺は先ほどまで、天の塔頂上で紅月の魔女と成ったエリュシールと戦っていたはず。


 そして、そのエリュシールが展開した魔法により吹き飛ばされ、塔の上から投げ出されたはず。


 それなのに俺は今、上下左右も曖昧な謎の空間の中で一人、ただその場で静かに立ち尽くしていた。


 ここはどこなんだ。そう、心の中で呟きながら周囲を見渡していると。


 突然目の前にキラキラと輝く光の塊が出現したかと思えば、たちまちその塊はとある形を形成していった。


 そう。それはまるで、人間のような造形であり──


「⋯⋯うわ」


 光の塊が人間の形へと変わった瞬間、俺は目の前に現れた人物を見て、心の底からの不快感を抱いた。


 いや、不快感というよりも嫌悪感だろうか。こちらを見てニコッと微笑むその人物を前にして、鳥肌が止まらなかった。


「久しぶりの再会なのに、そんな露骨に嫌な顔しなくてもいいじゃないですか。さすがのワタシも、傷ついてしまいますよ?」


 涙なんてこれっぽっちも流れていないのに、しくしくと泣く仕草を見せる女。


 腰の辺りまで真っ直ぐに伸ばされた白銀の髪はまるで星の輝きのようにキラキラとしていて、一本一本が、まるでシルクのような美しさをしている。


 蒼色の瞳はまるで雲一つない空のように澄んでいて、綺麗に通った鼻筋や、ふっくらとした桃色の唇は、まさに絶世のモノ。


 シミや傷のない色白とした透き通った肌は、触れれば壊れてしまいそうなほど繊細で、彼女の美しさをこれでもかと引き立てていた。


 白を基調とした修道服を身に纏う彼女だが、その少しゆったりとした修道服の上からでも分かるほど豊かに実った胸は、服をぐぐっと押し上げるほどで。


 そして、キュッと引き締まったクビレが見える下腹部の方には、薄らと服の上に浮かび上がる縦筋のへそが見える。


 そんな異性だけでなく同性すらをも魅了するほどの美を放つ彼女が、俺の元へと駆け寄って来たかと思えば。


「あぁ、カナタ様⋯⋯! ずっと、ずっとお会いしたいと願っておりました⋯⋯!」


 なんて言葉を吐きながら、俺の胸元に飛び込んで来て熱い抱擁を交わしてきた。


 むにゅうっと、押し当てられ胸板の上で潰れる柔らかな双丘。


 男としてその感触は、熱は、まさに夢心地のようなものではあるのだが。


 俺はただ無言のまま、彼女の肩を押して体から無理やり引き剥がした。


「あぁんっ、久方ぶりの再会なのにどうして⋯⋯っ」


「お前は会いたいと思っても、俺は二度と会いたくなかったんだよ。エアイリス」


「そ、そんな⋯⋯っ、最後の夜に、あれだけ濃厚で濃密な時を過ごしたというのに⋯⋯カナタ様、酷いですっ」


「酷いって、お前だけには言われたくないけどな」


 うるうると瞳を揺らしながら、胸の前で手を編んで一心に俺のことを見つめてくるエアイリス。


 絶世の美女。もとい超絶美少女である彼女にそんな顔を向けられたら、大半の人間は自分が悪いのだと錯覚し、すぐさま彼女に頭を下げるだろう。


 だが俺は自分が間違ったことをしたとも、間違ったことを言ったとも思っていない。


 だから俺は大きなため息を吐き捨てながら、その場でゆっくりと腰を下ろした。


 すると、そんな俺の隣にエアイリスが座ってきて、俺の腕に腕を絡めて頬擦りをしてくる。


 すぐにでもエアイリスを引き剥がしたかったが、こうなってしまえば何度引き剥がしても結果は変わらないため、俺はもう一度大きなため息を吐き捨てることしかできなかった。


「あぁ⋯⋯こうして結ばれたカナタ様と再びお会いできたこと、誠に光栄でございます⋯⋯! カナタ様がいなくなってから、ワタシは毎日が寂しくて⋯⋯っ」


「⋯⋯おい、いつ俺たちが結ばれたんだよ。勝手な妄想を押し付けないでくれ」


「最後の夜、お互いに口付けを交わしたではありませんか。朝になるまで、カナタ様のあんなところやこんなところに口付けを繰り返したこと、ワタシは忘れていませんよ⋯⋯? あれはもはや、婚姻と言っても過言ではありませんよね?」


「過言だわ! てか、あの方法でしか封印の儀式ができないから仕方なくやっただけだ! 俺には最悪の時間だったよ!」


 そう。彼女こそ、エアイリスこそ俺が異世界にいた頃共に冒険をした仲間の一人であり、俺のスキルやらを封印してくれた【封印の巫女】本人なのである。


 エアイリスには、封印の権能がある。それは対象のを封印し、縛る能力だ。


 しかしその権能の代償として、エアイリスは自分以外の誰かを傷つけることができない。


 それ故、最弱の巫女。しかし、最強無敵の巫女でもあるのである。


「そんな⋯⋯あれだけ昂っていらしたのに、今更そんなこと言われても信用できません⋯⋯!」


「あれは男である以上仕方のない生理現象だ。別にお前には1ミリも興奮していないし、どうにかしようとも思わなかった。事実、あの日の夜俺はお前を抱かなかっただろ」


「はいっ、ワタシのこと大事に思ってのことですよね?」


「⋯⋯はぁ。違うっつーの⋯⋯」


 このように、俺がなにを言っても、皮肉や嫌味を言っても、エアイリスには通用しない。


 なんでも全て自分の都合がいいように受け取られ、むしろ皮肉や嫌味を言っているはずの俺がうんざりするほどの、ポジティブさを見せる。


 エアイリスにはなにを言っても無駄。それはもう嫌なくらいに分かりきっているのだが。


 どうしても悪態をついてしまうのは、俺がエアイリスのクソみたいに汚れきった性根を知り尽くしているからなため、自分を抑えることができないのである。


「⋯⋯てか、何気なくこうして会話をしてるが、なんでお前が俺に干渉できるんだよ。ここがどこかは知らないが、夢の中ではないのは知ってる。お前、俺になにをした?」


「え? カナタ様が先の戦いで気絶したので、落ちた意識の水底でこうして話しかけてるだけですよ? 外界では、時間は止まってるはずです」


「いや、話しかけてるだけですよ? じゃねーよ。別世界にいるお前が、どうしてこっちの世界の俺に干渉できるんだって聞いてるんだよ」


 俺がどうして夏休み前日に異世界に紛れ込んでしまったのかは未だに不明ではあるのだが、それでも別世界への干渉が異常であることは分かる。


 それこそ、俺を元いた世界に返す時、王国の魔導師が数百人単位で魔力を練り、やっとの思いで別世界へと渡るゲートを作り出すことができたのだ。


 魔力の消耗で気絶したり失神したりする者が続出するほどの大魔術を行使しないとできない世界渡りを、エアイリスは一人でやって見せている。


 それが、俺には理解不能なのである。


「封印の儀式の際、ワタシはカナタ様の体内に体液と共に魔力を流しました。それは覚えていますよね?」


「⋯⋯まぁ、あまり思い出したくないがな」


「それにより、カナタ様は未だにワタシの封印によって縛られています。つまりワタシの魔力が残っているということ。ということは、ワタシとカナタ様は一心同体。だからこうして、精神世界の中でのみお話することが可能になったのです!」


「⋯⋯⋯⋯理解できねぇ」


 理解はできないが、こうして会話することができるということは、エアイリスの理論が合っているという証拠に過ぎない。


 どういう原理かは不明だが、俺の身にエアイリスの封印が残っている限り、こうして俺が気絶して意識を落としているという限定的な状況下でのみ、エアイリスは世界を渡ってこちらに干渉できるということだ。


 ありえない。そう、頭の中で思ってはいるのだが。


 その相手がエアイリスならば、認めざるを得ないと思っているのも、また事実であった。


「⋯⋯おい。お前、俺のプライベートを覗き見とかしてないよな⋯⋯?」


「残念ながら、難しいんですよ。視界がぼやけてるといいますか、音がこもってるといいますか⋯⋯カナタ様のことを見守りたくても、なにも感じ取ることができないんです」


「やっぱり覗こうとしてやがったか⋯⋯」


「ですが、特定の条件下でのみカナタ様の様子をこちらの世界からでも見守ることができるんですよ?」


「なに⋯⋯? 特定の条件下、だと⋯⋯?」


「はいっ。異空間──いえ、カナタ様のお言葉を借りるとするならば、"ダンジョン"の中にカナタ様がいる時のみ、カナタの様子や動向を見守ることができるんですっ!」


 目をキラキラと輝かせながら、ニコニコとした眩しい笑顔を浮かべて俺の顔をじーっと見つめてくるエアイリス。


 だが俺は、そんなエアイリスを前にただただため息を吐くことしかできなかった。


 ⋯⋯最悪だ。


 つまり、ダンジョン内での俺の行動や言動。そして誰と出会い、どんな会話をしたのかが全てエアイリスに筒抜けというわけだ。


 別にバレて困ることをしたわけでも、言ったわけでもない。


 それでも、不快なのには変わりなかった。


「おそらく、ダンジョンの大気中にこちらの世界でいうところの魔力に似たなにかが漂っているからだとワタシは推測します。あくまで推測なので、不確定ではありますが⋯⋯」


「⋯⋯なぁ。ちなみになんだが、そっちの世界の魔力とこっちのダンジョン内に漂っているものは、同じものではないのか?」


「そうですね。魔力構成やその組織構造に同一性はありますが、あくまで酷似しているというだけで全く同じものではありませんね。しかし、別物とも言えません。本当に言葉の通り、魔力に似たなんですよねぇ⋯⋯」


 普段は面倒で厄介なエアイリスだが、この辺の推測や考察に関しては、エアイリスほど鋭い者はいないと俺は思っている。


 そういうところに助けられてきたところも多いため、こうして色々と考察し推測を続けているエアイリスを前にすると、なんだか複雑な気持ちになってしまうのだ。


「⋯⋯って、そんなことはどうでもいいんですよ。ワタシはそんなことを言うためにカナタ様に会いに来たわけじゃないんですから」


「じゃあ、なんの用があって来たんだよ」


「ワタシにとって、カナタ様は英雄です。ですから──あんな紅月の魔女と名乗る者などに負けるカナタ様の姿など見たくないんですよ」


 宝石のようにキラキラと輝く瞳が一変、光を失い、曇り、俺の目をじっと真っ直ぐ見つめてくる。


 その目線は、視線は、まるで俺の体に泥のようにまとわりついてくるような、ドロっとしたなにかが宿っていて。


 俺の嫌いな、エアイリスが見せる表情のうちの一つであった。


「カナタ様が封印の鎖さえ解き放ってしまえば、封印しているスキルさえ解放してしまえば、あんな魔女を倒すことなど造作でもないことですよね?」


「それは⋯⋯っ」


「ですが、賢いカナタ様ならそんなこと分かりきっているはず。つまりスキルを解放しない、もしくはしたくないのだと推察できます。しかし、その理由がワタシには分からないのです」


 ⋯⋯いつもそうだ。


 エアイリスはいつも俺の考えを、行動を先回りして読んで、理論的に俺のことを詰めてくる。


 それが嫌いだった。だが、エアイリスには悪気はないし、そもそも微塵も詰めようとは思っていない。


 単純なる疑問。純粋な興味が、いつも俺を追い詰めてくる。


「⋯⋯俺のせいで、リーウェルは殺された。俺が殺したんだ。だから、エリュシールとの戦いの中でスキルを解放するつもりはない」


「なぜですか? リーウェルさんのことを想うのでしたら、スキルを解放してあの魔女を倒してしまった方がリーウェルさんのためになるのではないでしょうか?」


「⋯⋯スキルを解放すれば、エリュシールは倒せるはずだ。だが今更解放してエリュシールを倒したところで、俺がリーウェルを見殺しにした事実は変わらないだろ」


「つまり、仕方がなかった。見殺しにせざるを得なかったという、理由が欲しいということですか? 自分は悪くないと。自分の判断は間違っていないという、正当性がただ欲しいだけの──」


「っ!」


 そこまで言われ、俺はエアイリスの肩を掴んだ。


 分かっている。エアイリスの発言が正しいことや、間違ったことは一つも言っていないなんて。


 それでも今の俺に、その言葉はあまりにも痛く、そして耳にもしたくない言葉であり。


 だから俺はそのまま、肩を掴んだままエアイリスを思いっきり地面に押し倒した。


 相手の体のことなんか、一切考えていない行動。だがエアイリスは痛くも痒くもないといった表情で、ただこちらを見上げてきていた。


「いいんですよ? 気が晴れるまで好きにしても。ワタシは全てを受け入れますから」


「⋯⋯封印の権能を持つお前には、なにも通用しないからそんなこと言えるんだろ?」


「はい。しかし、殴ることで気が晴れるのならワタシはそうすべきだと思いますよ?」


 挑発。煽り。いや、否。エアイリスは、そんな意図を持って発言しているわけではない。


 本当にそう思っているから。自分の発言は間違っていないと確信しているからこそ、俺にそう勧めてくる。


 封印の権能。エアイリスは、指定した対象のを封印することができる能力を持っている。


 スキルの封印。詠唱の封印。事象の封印。これらはエアイリスが得意とすることだが、エアイリスの持つ封印の力はこれだけでは留まらない。


 エアイリスは、自身に降りかかる災いの全てを封印し、防いでいる。


 外部からの攻撃による外傷の封印。魔法や魔術による内部からの破壊の封印。呪いや幻覚等の、精神干渉による汚染の封印。


 意味の分からない使い方だが、それが有効であることを、可能であることを、エアイリス本人が証明している。


 だからこの場で、俺がエアイリスを何分間も、何十分間も殴ったところで、エアイリスには傷どころか、ダメージすら入らないのである。


「そんなにスキルの解放が嫌なのでしたら、あの方法はどうでしょうか?」


「あの方法、だと?」


「はいっ。カナタ様の身に打ち込んだ、杭を抜いてしまえばいいんですっ」


 そう言ってエアイリスが俺の体に触れると、突然俺の右胸、左胸、そして腹部が、淡い光の輝きを放つようになる。


 暖かく、そして煩わしい光の熱。


 そう。この今俺の体で光っている三つの箇所には、エアイリスが打ち込んだ特別な杭が刺さっているのである。


「全盛期のカナタ様の力を100とすれば、今のカナタ様は全力を出しても25程度しか力を出せません。スキルを解放しないのならば、杭を抜いてしまうのが一番の手だとワタシは思うのですが」


「⋯⋯やめろ。この杭を抜けば、確実に日常生活を支障をきたす。この杭だけは、絶対に抜けない」


 俺が日常生活を送ることができているのは、エアイリスの権能によって力を抑えているからに過ぎない。


 もし俺の身に刺さっている杭を抜いてしまえば、力の加減だけでなく、ただ立っているだけでも周囲の人間に危害を及ばせてしまうかもしれない。


 それが嫌だから、俺は自分の力を封印したのだ。普通の生活を送るため、在り来りな日常を送るため。


 だから俺は、杭を抜かない。周りのためだけでなく、自分のためにも。


 もう二度と、人間離れした化け物になるのは御免なのである。


「抜けば簡単に倒せますよ? それこそ⋯⋯こちらの世界にいる、大事な守りたい人のことも守ることができると思いますが?」


「そんな力に頼らなくても、俺は沙──妹を、俺の力だけで守り抜いてみせる。杭なんか抜かなくても、俺はもう今の俺のままで充分だ」


「⋯⋯そうですか。一本でも抜いてしまえば、あのような魔女を葬ることなど容易いはずなのですが⋯⋯残念です。また、あのかつてのカナタ様のご活躍を見られると思っていましたのに⋯⋯」


 残念そうに小さなため息を吐きながら、エアイリスはゆっくりと立ち上がる。


 そして俺に背を向けながら、闇深いどこかへと向かって歩き出した。


「今のワタシの力では、これ以上カナタ様の意識を精神世界へと引っ張り続けるのは難しいです。なので、今日のところは一旦ここでお別れですね」


「⋯⋯もう、お前とは会いたくないがな」


「あっ、最後に一つだけ。カナタ様にお伝えしたいことがあります」


 その場で足を止め、振り返ってこちらを見つめてくるエアイリス。


 俺はそんなエアイリスを前にして、ただ黙って次の言葉を待つことしかできなかった。


「ワタシが封印した、カナタ様の所有するスキル。それは全てではありませんよね?」


「⋯⋯まぁ、そうだな」


「そこに答えはありますよ。スキルを解放しなくても、杭を抜かなくても、あの魔女を倒すことができる唯一の方法が」


「⋯⋯っ! そ、それって──」


 黒く、闇に包まれた世界に光が差し込み、世界の形が朧気になっていく。


 それはまるで、俺の意識の覚醒を告げているようで──

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