第80話 EX.残夜の影く滅国-⑬
左腕──左肩から下の感覚が、なくなる。
直後、鋭い痛みが俺の左肩を襲う。
目の前には、切断面から白い光の粒を零す左腕が宙を舞っている。
なにが起きたのか分からなかったが、俺はすぐになにが起きたのかを理解することができた。
「ぐっ⋯⋯ぁあ゛ぁぁ⋯⋯!」
傷口が焼けるように熱い。
絶叫するほどの痛みではないが、慣れていなければ今頃転げ回っていてもおかしくない痛みに、どうしても顔が歪む。
だが俺はすぐに地面に転がる折れた爪刃手甲の刃を拾い、エリュシールの魔法によって未だに焼けている地面にて刃を炙り、そして焼けた刃の腹を左腕の断面に押し当てて止血をした。
「ぅう゛ぁ⋯⋯くっ、はぁ、はぁ⋯⋯っ」
傷口に焼けた刃を押し当てることで鈍い痛みが走るが、それでも止血はできているようで、断面から流れる光の粒を落ち着かせることに成功する。
左腕を失った消失感に頭の中がめちゃくちゃになりそうだったが、俺はそこでゆっくりと深呼吸をし、なんとか平静を取り繕うことができた。
「⋯⋯驚いたわ。腕を切り落とされたのに、動揺することなく瞬時に傷口を焼いて止血するだなんて⋯⋯妙に手馴れているのね?」
「はぁー⋯⋯はぁー⋯⋯っ」
「しかも、そうやって私を強く睨みつけることができるくらい戦意が残っている。あなた、本当にただの人間なの?」
腕を切り落とされてもなお立ち上がる俺に、エリュシールは驚いたような表情を浮かべていた。
そしてエリュシールが長々と喋っている中、俺は呼吸を整えるべく、ただ静かに呼吸を繰り返し続けた。
「それに、驚いたのはそれだけではないわ。私が嵐の魔女サディから継承したあの不可視かつ超速の風の刃を腕一本の犠牲でやり過ごすだなんて⋯⋯想定外だわ。本当なら今頃、体を真っ二つにしていたはずなのに」
そう。あの時、俺は【危険察知】によってなんらかの魔法が飛んでくることに気づいていた。
だが肉体の疲労と気の迷いによって、【危険察知】による警鐘にすぐさま反応することができなかった。
なんとか体を動かすことはできたものの、コンマ1秒遅れたせいで左腕を持っていかれてしまった。
あの時、もっとしっかりとしていれば。ちゃんと頭を働かせ、体を動かしていれば。
このように、左腕を犠牲にすることなんて本当ならばなかったはずなのである。
「ねぇ、これで終わりじゃないんでしょ? あなたの力は、こんなものではないでしょう? 私はね、本当のあなたと戦いたいの! あなたのような強い人間は、初めてだから! だから、あなたを倒すことが私自身への証明になる気がするの! 紅月の魔女と成った私の第一歩として、私はあなたの命を捧げたいの!」
「うるせぇよ⋯⋯お前の価値観をこっちに押し付けてくるんじゃねぇ」
ディーパッドを手に取り、俺は全力で戦うべく【首断ツ死神ノ大鎌】を取り出す。
すると、途端にエリュシールの表情がぱぁっと明るいものへと変わっていた。
「嬉しいわ⋯⋯! やっと、本気のあなたと戦えるのね⋯⋯! あなたのその死神のような風貌、私大好きなの」
「⋯⋯そうかよ。今のうちに、冥土の土産を準備しとけよ」
片手で大鎌を構えるが、やはり違和感は拭えない。
長く、重い大鎌。片手で扱えなくはないが、それでも力強く、そして上手く取り扱うには両手の方がいいのは確実だ。
片手で扱うことで力も入りにくくなるし、なにより自慢のリーチを活かすことができなくなってしまう。
それでも、現状俺が持てる武器でこの大鎌が一番の性能をしている。
逆に言えば、この大鎌が通用しなければ今の俺に勝ち筋はないということだ。
「さぁ⋯⋯行くわよ!」
高らかに声を上げるエリュシールが、先ほど俺の爪刃手甲を破壊した氷の剣を無数にも展開し、俺に向かって一斉に飛ばしてくる。
だから俺は大鎌を構えながら地を蹴り、プロペラのように片手で大鎌を回転させて、正面から迫り来る氷の剣を打ち払うように破壊していく。
砕けた氷の破片が頬や首筋を掠めるが、その程度、痛くも痒くもない。
俺は雨のように降り注ぐ氷の剣の猛攻を潜り抜け、そしてエリュシールの懐に潜り込んでその細い首筋に大鎌の刃を全力で振るった。
だが──
「あの中を潜り抜けてくるなんて、あなたは本当に素晴らしいわ。でも残念。あなたの攻撃は、私には届かないの」
「そんなこと分かりきってるんだ、よっ!」
【豪脚】を乗せた重い蹴りをエリュシールに叩き込むが、それもあまりにも頑丈な魔力障壁によってエリュシールに命中せずに終わってしまう。
だが、これで終わりではない。俺はそれから体を捻り連続でエリュシールに蹴りを浴びせ、そしてその勢いのままエリュシールの首に向けて大鎌を振るった。
しかし、破れない。どれだけ攻撃を与えようが、どれだけ攻撃を続けようが、エリュシールの展開する魔力障壁を破ることができない。
そして、続けて大鎌をエリュシールの首筋に目掛けて振ろうとした瞬間。
「
「──っ!?」
視界が激しく揺れる。
全身に駆け巡る激痛。脳が揺れ、平衡感覚がおかしくなる。
宙に舞っていることに気づいたのは体に激痛が走ってから少しのことで、俺は頭を振りながら【空歩】を使用して体勢を立て直そうとするのだが。
「
視界が、真っ赤に染まる。
瞬間、全身に焼けるような熱さが包み込み、呼吸をしようとするだけで肺が溶けてしまいそうになる。
俺の全身を包む、炎の円。それは渦となり、抜け出そうとする俺にまるで泥のように纏わりつき、体を焦がしていく。
「ぐっ⋯⋯くそっ!」
【豪脚】を乗せた蹴りによってなんとか炎の軌道をズラし、渦の中から脱出することに成功するが、俺は無意識のうちに、その場で膝をついてしまっていた。
皮膚が焼けている。身に纏っている装備の端に火の粉がまとわりついていて、焦げ臭い香りが周囲に漂っている。
なんとか焼死することなく逃れることができたが、あと少しでも遅れていれば、きっと俺は呼吸することができずにその場で動けなくなり、炎の渦に飲み込まれ命を落としていただろう。
なんとか立ち上がろうとするが、先ほど喰らった謎の衝撃によって腹部が痛み、脇腹辺りに鋭い痛みが走る。
額や頬。首元や手は火傷してしまい、痛みから考えて、肋骨も一本か二本は折れてしまっている。
呼吸をするだけでズキッとした痛みが持続的に俺の体に襲いかかる。
立ち上がろうとするだけで、全身に寒気が走って倒れてしまいそうになる。
満身創痍。とは、このことを言うのだろうか。
それに対しエリュシールは五体満足であり、疲れた様子すら微塵にも感じられないほど涼しい表情を浮かべている。
なんとか大鎌の柄を握ろうとするが、傷つき、疲れ果てた体では満足に大鎌を持ち上げることすらままならなかった。
「あら、もしかしてこの程度でおしまいなの? そんなわけないわよね? 私の知ってるあなたは、もっと強いはずよ?」
「はぁ、はぁ⋯⋯うる、せぇよ⋯⋯!」
「さっきまであった迫力も、こうなってしまえば子犬の遠吠えにしか見えないわね。残念だわ。私はまだ、力の1割程度しか出していないというのに。まぁ、それも仕方のないことね。いくら強いとはいえ、所詮は人間。人間の常識や範疇を超越した私にとって、あなたの力はあまりにも脆弱すぎるわ」
地面に降り立つエリュシールが、小さなため息を吐きながら俺の元へゆっくりと歩み寄ってくる。
近づくだけで、意識が遠のくほどの魔力の圧。直視することすら、烏滸がましいと思えてしまうような風貌のエリュシール。
その力は。その存在は。人間でも、魔女でもなく。
それはまるで──
「ねぇ、あなたは蟻に負けることを想像することができるかしら。できないわよね? それじゃあ、鳥が虫に負けるところは? 鮫が小魚に負けるところは? あなたの想像力で形にすることはできる?」
「⋯⋯なにが言いたい」
「少なくとも、私には想像できないの。それと同じで、私があなたに負けるところがこれっぽっちも想像できないのよ。どれだけ思考を巡らせても、どれだけのイレギュラーを想定したとしても、あなたに負けるどころか、傷を負わされるところすらも想像できないわ。これが力の差、格の差というの。それでもあなたは、私を倒そうとする。勝とうとする。超越しようとする。それが私には、どうしても理解不能なの」
まるで俺の心を蝕むように、俺の尊厳を踏み躙るように、プライドをへし折るように、エリュシールが俺の目の前で屈みながらそう長々と口にしている。
それに対し、俺はただ黙って耳を傾けることしかできずにいて。
「翼のない人間が空を飛べると思う? 魔法や魔術、そして道具もなしで飛べると思うかしら? 無理でしょう? 人間が魚よりも上手く水の中を泳げると思う? 無理でしょう? 魚にはヒレがあって、人間は水の中では呼吸ができなくて、勝負にならないわよね? それと一緒。せめて、あなたがなんらかの魔法を扱えたり、なんらかの方法で魔力障壁を破れるのならば話は別だけれど⋯⋯あなたには、そんな力はないでしょう?」
「⋯⋯そんな下らないことをいうために、わざわざ俺の間合いに入ってきたのかよ」
「間合い? それは通用する攻撃の範囲内のことでしょう? あなたの攻撃じゃ、私の魔力障壁は破れない。あなたじゃ私に傷を負わせることすらできない。つまり、私がどれだけあなたに近づこうが、無防備を晒そうが、今この場にあなたの間合いなんてものは存在しないのよ」
大鎌の柄を握り締め、その無防備な首筋に振るおうとするが。
俺はその寸前で、柄を握るべく手に込めた力を抜いた。
──無理だ。そう、察してしまった。悟ってしまった。
両腕の状態かつ【豪腕】を乗せた大鎌の一撃でも、俺はリーウェルの魔力障壁を完全に破壊することができなかった。
それなのに、リーウェルの扱う魔力障壁よりも強固な魔力障壁を展開するエリュシールに、片腕を無くし、疲れ果て、傷だらけの状態の俺がどうにかできるはずがなかった。
すると、見下すように俺のことを見つめてきていたエリュシールの瞳から、スーッと光が消えていく。
それはまるで、俺から興味をなくしたかのようで。
「もういい。あなたはもうつまらないわ。これだけ煽っても反撃してこないだなんて、壁に話しかけているのと同じだもの。まぁ、ほんの少しだけだけれど楽しい時間だったわ」
呆れたようにそう口にしながら、エリュシールが俺の顔の目の前でパチンッと小さく指を弾く。
それにより、突然眼前に白く眩い光を放つ泡のような物体が出現し。
「
「────ッ」
泡が破裂と同時に、世界から音が消える。
巻き起こる爆風。全身を包み、呑み込む力の奔流。体を引き裂き、握り潰すような激痛。
音のない世界の中、俺はキィィン⋯⋯という、小さな耳鳴りだけを最後にし。
為す術なく。情けなく。俺は、塔の頂上一体を吹き飛ばす爆発によって塔から投げ出され、その場で意識を落とした──
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