永年雇用は可能でしょうか/yokuu
【想いを配れば】
ルシルの機嫌が良い。普段より不機嫌な彼女ではないが、今日は一段と上機嫌のようだ。
フィリスは二階から降りてきて、ルシルの機嫌が良いことと、その原因に直ぐに気が付いた。ダイニングテーブルの上には鮮やかな黄色のマルメロが九つ並んでいた。更にルシルの手にはひとつあり、布で丁寧に拭いている。
「あ、先生。ご覧ください!」
手を止め、ルシルは楽しそうにマルメロを掲げた。
「
「はい!」
ルシルの様子からして、香りを楽しむために用いるのではないことは容易に分かった。顔に「どうやって食べようか」と書いてある。生では渋さの際立つマルメロだが、きっとうまく調理するのだろう。テーブルから
フィリスもテーブルに着き、マルメロをひとつ手に取った。
「完熟している」
「そうですね、良い香りですね」
そう言いながらルシルは鼻に実を近付ける。
「マルメロはパイにしても
ほくほくとした顔で、ルシルは十個あるマルメロの配分を考え始めた。ひとつはパイに、ひとつはコンポート、ひとつサラダも試したいとのこと。あとの二つはマルメロ酒で、残りの四つはハチミツに漬けることとなった。
「完璧です」と不敵に笑ったルシルを、フィリスは黙って見つめた。
「あ、でも大変。ハチミツが足りないかもしれません」
ルシルは「これは大変」と繰り返す。彼女には深刻な問題らしい。今日にでも漬けたいのだろうか。
「調達して参ります」
勇ましく立ち上がるルシルを、フィリスは止めることはしない。ただただ、「気を付けて」と道中の安全を祈念するばかり。ルシルはフィリスに向かってキリリと微笑むと、
ルシルを見送った後、フィリスはキッチン横のドアから家の裏手に出た。庭の隅にあるマルメロの木に実はもうない。フィリスだけであればきっと遠くから香りを楽しむだけだっただろう。
家庭菜園はルシルによってよく手入れされている。少し離れたところにある資材置き場では何かを作る予定なのだろうか、意図的に切り揃えられた木材が積まれている。
生きている。
背後に立つ家屋や広がる庭を見て、フィリスは思った。一人で暮らしていたときもそれなりにやっていたが、自分が一人で生きていくに足ればよかった。それがどうだ。彼女の手が入るようになってから、どこもかしこも、無機物でさえも生まれ変わったように生気を帯びる。
快適だと思った暮らしはいつしかそれだけでなく、楽しみへと変わっていった。
長い年月の間に落としたものは何だろう。なくしたものは何だろう。失っていたということをはっきりと思い知ったのは、改めてそれらを拾ったときだった。いや、取り戻した、というよりは新しいものを与えられたのだ。
「……鮮やかなことだ」
陰りのない屋根の上を見遣る。少し濡れた屋根の表面が日に照らされて
「せ、先生ーー!」
しばらくして、慌てた様子のルシルが駆け戻ってきた。何事か。ハチミツが品切れだったのだろうか。それにしては少々過剰な慌てぶりである。フィリスはリビングのソファから起き上がった。
「た、大変です。コルテスさんの
フィリスは自分の許可が必要なことではないと思った。「好きなように」と答えると、ルシルは「ありがとうございます!」とホッとして晴れやかな笑顔を咲かせた。
そして手早くマルメロを
テーブルに残ったマルメロはひとつ。ひとりあたり三つとして持っていったらしい。しかしこれではルシルが当初企てていた通りにマルメロを食すことは不可能である。フィリスはマルメロを眺め、どう食べようかと考えていたルシルの楽しそうな顔を思い出した。
「…………」
フィリスは穏やかな表情で首を傾ける。「ありがとうございます!」と彼女が叫んだ声がまだ耳に残っている。惜しさの
「……楽しみだ」
誰も居ないリビングでフィリスはぽつりと
それは他でもない、彼女のおかげである。
四十分後、元気に帰ってきたルシルを、フィリスは「おかえり」と言って出迎えた。マルメロを配り終えて空になったはずの籠に、何やら色々と入っている。フィリスの視線に気が付いたルシルは眉を下げた。
「その場でお返しをいただいてしまいました。皆さんお優しくって……」
君も
フィリスは「そうか」と目元を和らげた。
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