第7話 最後のページ

 ほろりと生暖かい雫が一滴、二滴。頬を伝って紺色のアスファルトの上に濃いシミを作る。

「大変だったんだね」、「よく頑張ったね」。よくある上っ面だけの言葉は言わなかった。ただ一言、ふーん、そうと言っただけ。

 世間一般的に見れば、自分から聞いておいて適当な返事で終わらす、冷たい人に見えるかもしれない。多分実際、向井田くんはそういう人だ。

 でもきっと、彼の冷たさは心無いものではない。冷たさの中心に暖かさが存在していて、心地良い冷たさになっているのだと思う。今私が、彼の視線と言葉によってリラックスでき、ずっと胸につっかえていた塊を全部吐き出せたのが何よりの証拠だ。


 流れる涙は、必死に拭うにつれて激しさを増していく。向井田くんは慰めの言葉をかけるでもなく、ただずっと静かにそばにいてくれた。それがどれほど救いになったのか、彼は知る由もないだろう。



 昨日私が泣いたからと言って、向井田くんは特に気にかける素振りもなく、また熱心に小説の続きを書き進めていた。その横で、そろそろラフを何枚か練らないととようやく焦りが出てきたので、こちらも黙々と真っ白な紙にシャーペンを滑らせている。

 私がひと段落すると、ちょうど彼も書き終えたようでいつものように原稿用紙に描かれた向井田くんの世界を目で追っていく。どうやら物語は終盤に差し掛かってきているようだ。結末が気になる私は、「早く最後の一ページが読みたい」なんて自由奔放なことを喚く。彼からは「うるさい」と顔を顰めた返事が来たけれど。


「それ、表紙絵のラフ?」

「そうそう。あと二、三枚は描こうと思ってるんだ。描けたら一番に見せるから、どれがいいか教えてね」

「え、俺に選択肢ゆだねるの。浅倉さんの絵、全部すごいから迷うんだけど」

「……」

「あれ、照れてる?」

「て、照れてない!」


 彼がずいっと顔を覗き込んでくるの阻止するために、私は両手を顔の前に出して全力で後ろへ後ずさる。

 向井田くんとは話して数日しか経ってないのに、今ではこうして互いをいじれる程には仲が良くなった。元々話しやすいタイプの人だとは思っていたけれど、まさか放課後二人で、それも表紙絵担当を任されるなんて、前の私じゃ考えられないことだ。


 そんな彼の隣は、不思議と息がしやすかった。



 そして次の日も、そのまた次の日も、私たちは放課後に集まって、世間話からお互いのことまで、話題が尽きることなく作業に没頭した。

 例えばそれぞれの家族構成を聞いてみたり、その日の授業について話してみたり。ちなみに、向井田くんの家は小学五年生の弟さんがいるらしい。放課後わざわざ学校に残って小説を書いているのは、家にうるさい弟がいるため、集中出来ないから、と心底嫌そうにぼやいていた。


「じゃあさ私はどうだと思う? 兄弟とかいると思う?」

「いると思う。しかも上と下に。浅倉さん、絶対真ん中っ子でしょ」

「げ、なんで分かったの」

「……なんか、イメージ的にそれっぽい」

「何だそれ」


 私の家は、母と父、そして姉と私と妹の五人家族である。姉と妹とは特別仲が良いわけではないが、嫌いなわけでもない。まあ、普通だ。

 さほど面白くもない薄っぺらな話を、絶対にシャーペンは止めないという強い意志を感じる向井田くんの横でずっとペラペラと喋る。

 そんな私も、表紙絵のだいたいのイメージが固まってきた。約束通り、四枚の中から一枚いいと思ったものを向井田くんに選んでもらい、下描きに入る。仕上げは液晶タブレットに移してデジタル作業で進めるので、この下描きは私が分かれば良い程度だ。

 そして彼も彼で、ようやく来た最後の一話を書くため、いつもより集中して机に向かっていた。


 静かな時間が流れる。シャーペンがシャッシャッと素早く動く音と、カリカリと途中途切れるような音が教室に広まる。こんなに静かなのは、放課後に集まり始めてから初めてのことかもしれない。いつもはお喋りがすぎる私が、ペンに魂を込めるために一言も話していないせいだろう。おかげで筆の進みは速かった。

 何とか下描きが完成して、アナログでの作業が終わったところで彼の方をちらりと見る。物語はまだまだ続いているようで、珍しく二枚目に突入していた。彼の夢中振りは凄まじく、じっと顔を見つめても全く気づかない。この際、いつまで気づかないかチャレンジを開催してみようか。そんなつまらないことを考えるくらいには、私は暇を持て余していた。

 結局、集中しているところ話しかけて邪魔をするのは悪いと思いとどまり、向井田くんの横顔を眺めて暇をつぶした。観察してみると、彼は意外とまつげが長く、目もぱっちり二重で薄い唇をしていて、なかなかの美形男子だと軽く感動を覚えた。私は今まで、こんなイケメンと放課後二人きりで過ごしていたのか。これまた少女漫画じみた出来事だな。


「なに人の顔じっと見てんの。怖いんだけど」


 ぼーっと見つめているうちに眠くなってきたのか、ウトウトしかけた矢先に向井田くんと目がカチリと合った。向井田くんの表情にはやりきった達成感がにじみ出ており、最後のページまで無事書き切ることができたのかと私まで嬉しくなって飛び起きた。


「はいこれ。楽しみにしてた結末。ちょっと長くなっちゃったけど、いい感じにまとめられたからよかったよ」 

「やっと読めるー! あ、完結おめでとう!」

「うん、ありがとう」


 彼から渡された二枚分の原稿用紙。それはいつもより重みがある気がして、腫れ物を扱うようにそっと手に乗せた。


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