第6話 重い塊
次に向井田くんが顔を上げたのは、もうすっかり日が落ちて部活生の声もほとんど聞こえなくなってきた頃だった。
「ごめん、遅くなって。これ以上暗くなったら危ないし、読むのはまた明日にしよう」
秋の夕風が少しだけ空いた窓の隙間から入り込んでくる。確かに風は冷たいし、夜道を歩くのは少々怖い気持ちもあるけれど、私は出来たてホヤホヤの彼の小説がどうしても読みたくて、「ううん、今読ませて」とわがままを言ってしまった。
向井田くんはやんわりと口角を上げ、子どものようにはしゃぐ私に一枚の原稿用紙を手渡す。所々黒く滲んでいたり、シワになったりしていたが、これは彼の努力の結晶なのだとそっと撫でた。
「もう本当にあの場面凄くなってたね! これからどうなるのあれ! めっちゃ展開気になるんだけど!」
「まだ秘密だよ。あと四、五ページくらいで終わらせるつもりだから、それまで楽しみにしてて」
私の大振りな反応が嬉しいのか、得意げに微笑む向井田くんと帰る虫のオーケストラの夜道。先ほどまで教室で熱心に読んでいた彼の小説の続きを、早く読みたいと笑顔で言えば、ご近所迷惑だから静かにしてと制された。そんなに大きな声で喋った覚えはないのだけど。
「そういえば浅倉さんってさ、前まで何か部活やってたよね」
「えっ」
「いつも放課後になると、誰よりも急いで教室出てたし、何かラケット袋みたいなの持ってたし、部活忙しそうだなって思ってたんだけど」
あれ、違った? と、急に足を止めた私を不審がってか、顔を覗き込みながらそう問いかける。だから距離が近いって。
後退りしながらそう伝えると、大げさとつぶやくも素直に離れてくれた。
「あんな急いでるの見られてたのか、恥ず」
「部活はもうやってないの?」
「うん、まあ。ちょっと、私の中でいろいろあって」
数秒間の沈黙が流れる。どこからか、また金木犀の香りが漂ってきた。
持ちぶさたで歩く目の前に転がっていた、道端の小さな石ころを弱々しく蹴飛ばす。
……どうせ、またすぐに推理されてバレるんだろうし。細くか弱い息をゆっくり吐き、心のなかで踏ん切りが着いた私は、この沈黙に珍しく動揺する向井田くんに、話しておこうと目線を合わせた。
「……あのね」
四月、入学してすぐに決めた部活は、中学でもずっと続けていたソフトテニスだった。新入生を迎える会で流れた部活動ビデオも、先輩たちが仲睦まじくテニスをしていて、私もあの輪の中に入りたいと心底憧れを抱いていた。
そんな憧れの部活に入部して、数週間が過ぎた時のこと。
あれ、何かおかしい。
きっと私のコミュニケーション能力が低いことも原因だろうが、部活仲間と馬が合わないとたった数日で気づいてしまった。
最初は気のせいだと、時間が経てば気にならなくなると必死にそれを拭っていたが、ついに五月に入ったすぐの頃、私は部活に対して恐怖心を抱くようになっていた。部活のことを考えただけでお腹が痛くなったり、また今日も放課後で一人孤立するのかと思ったら、学校に行くことすら憂鬱になったりした。とっくに体はSOSを出していた。けれどそれに気づかない私は、毎日行きたくもない部活に嫌々参加する。今思えば、ばかみたいな話だ。行きたくないならやめればいいのに。けれど当時の私は、そんなこと思いつきもしなかった。
少し話はズレるが、私には中学の頃とても仲がよく、ずっと一緒にいた部活のペアの子がいた。その子とは高校が別々になってしまったけど、絶対に試合で会おうねと約束をした。そして、これが一番の元凶だった。親友に会うためという傍から見れば微笑ましいモチベーションが、皮肉にも我慢して部活を続ける原因になってしまっていた。
だが、ある日の土曜日、いつものように部活に参加していた私にとうとう限界が来た。いつもは優しい先輩に、さり気なく無視されたのだ。
人間が一番怖いと思うもの、私はそれを裏切りだと思う。
その瞬間、私は頭が真っ白になって、何も考えられなくなった。息が詰まるように、喉の奥がキュッと狭まる。もうダメだ。私はここから一刻も早く逃げ出したい。
そう思ってからの行動は、今までの迷いぶりはどうしたと驚かれるほどに速かった。
ミーティングが終わってすぐに顧問の元へ走り、泣きながらようやく「部活をやめさせてください」と告げた。不幸中の幸いか、顧問は理解がある人で、少し話をしたあと二つ返事で頷いてくれた。
そしてその次の日、退部届を手に持って顧問の元へ訪れる。職員室にいた顧問にそれを渡して初めて、私は肩の荷を降ろすことができたのだった。
「そのあと、美術部入るかなーなんて思いながら体験に行ったけど、まあここでも馬が合わない。もう他にやりたい部活もないしって感じで、今の状態に落ち着いたかな」
ずっと静かに聞いてくれていた向井田くんに、こんな暗い話して申し訳ないなと思いながら、話をしめる。まあ、彼のことだ、きっと「へえ」程度の薄い感想で終わってくれるだろう。いや、そうであれと期待を込めながら、私より背の高い彼に目線を合わせる。
けれど、向井田くんは何も言わなかった。
話し終わっても、目があっても、ピクリとも動かずただ優しげに細められた目で、じっと私を見つめていた。
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