紅血
一刻を争う状況――だとすれば、まだ良い方である。
あのタオルを見てしまった私は、もう手遅れなのではないか、と思わざるを得なかった。
タオルに付着していた血の量は相当だ。
ベランダに示されていたのは、あまりにも不吉な徴標なのである。
ただ、急ぐに越したことはない。
私は、先に駆け出していたなずなの後を追って、懸命に走る。
一フロアに十、いや、それ以上の住戸がありそうな大きなアパートである。裏側に回り込むまでには、それまでの距離がある。
とはいえ、皐月の部屋は一階である。回り込めさえすれば、ベランダにたどり着くことができる。
建物の裏側に回り込むためには、一度アパートの敷地から出て、アパートに接する駐車場に入る必要があった。
アパート居住者以外にも月極で利用者を募る内容の看板のある、広い駐車場である。
駐車場からアパートの建物を見れば、皐月の部屋がどこかは明白であった。
目印の白いタオルがあるからだ。
駐車場から見た限りでは、タオルについた血までは見えない。
タオルに血がついているのは、部屋の方を向いている片面だけのようである。
もっとも、一階の部屋のうち、ベランダに白いタオルが掛けられている部屋は一つしかない。ここが皐月の部屋だ。
「かのちゃん、行くよ」
ここでのなずなの「行くよ」は、塀を乗り越えるよ、という意味である。
駐車場の敷地とアパートの敷地の間には一、五メートルほどの高さの塀が設けてあり、これを乗り越えなければ、皐月の部屋のベランダにたどり着くことはできない。
「私、スカートなんだけど」とか「服が汚れちゃう」とか女々しいことを言っている場合ではない。
私は、なずなとともに、不恰好に塀をよじ登り、そのままの勢いでベランダの柵もよじ登った。
ドアの隙間から見えた皐月の部屋のベランダに到着した。
そこには、例のタオルが干してある。
タオルの裏側にべったりとついていたのは、やはり血であった。
見ても分かるし、見る以前に臭いだけでも分かる。
私は目眩がしそうだった。血は苦手である。
対して、なずなは血のついたタオルなどには気を取られていなかった。
すかさずに本来の目的である、ベランダの窓の鍵の確認をする。
なずなが窓をスライドしようとしたものの、窓はビクとも動かなかった。
やはり窓の鍵も閉まってるようだ。
「なずなちゃん、どうしようか?」
「……壊すしかないね」
「壊す?」
私が、なずなの言葉の真意を理解したのは、なずなが、タオルの掛かっている物干し竿を持ち上げて、外した時であった。
タオルが、バサっと落ちる。
なずなは物干し竿を両手で持ち、振りかぶる。
華奢な美少女には似つかわしくない蛮行であるが、この場面ではそれ以外の手段はないだろう。
ゴーン――
なずなが物干し竿を振り下ろすと、想像よりも鈍い音がした。
窓はそう簡単に壊せないようだ。
それでも、なずなの一撃によって、白いヒビが入った。
なずなは、物干し竿でさらに追撃をする。
ゴーン――
ゴーン――
五度目か六度目の攻撃によって、ようやくガラスの半分くらいが割れた。
なずなは、割れたガラスの隙間から、内側の鍵に手を伸ばし、開錠した。
なずなに続いて、私は、土足のままで皐月の部屋に入る。
居間はやはり殺風景である。
物がないわけではない。
例えば、ドアの隙間から死角になっていた部分には、小さな机が置かれており、化粧用の鏡も置かれている。
異様に感じられたのは、部屋自体は整理整頓されているものの、クローゼットが開けっ放しになっていることである。
血染めのタオルに加え、開けっ放しのクローゼットも、SOSのサインであるように私には思えた。
「お風呂場はこっちだよ」
皐月の部屋に何度も出入りしていて間取りには詳しいということなのだろう。
居間で立ち止まっていた私に、なずなが手招きをする。
お風呂場は、廊下沿いの、洗面室に面して設置されていた。
お風呂場のドアは閉まっている。
電気が消えているため、すりガラスの向こうがどうなっているのかはあまり見えない。
とはいえ、全く見えないわけではない。
すりガラスの向こうの浴槽には、明らかにお湯ではない何かがある。
「最悪の事態」はもう目の前にまで迫っていた。
「かのちゃん、開けるよ」
返事をする代わりに、私は息を呑む。
なずながお風呂場のドアを開ける。
浴槽の中は――
紅血の海。
そして、その中心には、動画で見た美少女――儀部皐月が、永遠に覚めることのない眠りについていた。
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