白昼夢
窓から差し込む陽光によって、自然と目覚めた時、隣の布団は空だった。
自らの布団の上にちょこんと座ると、私はあくびをしながら伸びをする。
――そうか。夢だったのか。
駅のホームで声を掛けた美少女が、偶然シオンの中の人だなんて、ファンの妄想そのものだ。現実にはあり得ない。
そんな夢を見てしまうほどに、私の脳内はシオンに侵されてしまっているのだ。
推し活も少しはセーブした方が良いかもしれない。そうしないと、実生活に支障を来たす。
それにしても――
「幸せな夢だったなあ……」
私がもう一度伸びをしていると、ガチャリと音がして、家のドアが開く。
「かのちゃん、良い夢見れた?」
半開きのドアから顔を出し、無邪気にそう聞いてきたのは、夢に出てきた美少女――なずなである。
「……あれ? 夢のはずじゃ……」
「かのちゃん、まだ寝惚けてるのかな? もうそろそろお昼だけど」
なずなによって、ドアが完全に開けられる。
パンプスを脱いで玄関に揃えたなずなは、廊下を通り、まるで自分の部屋かのように私の部屋に入ってくる。
現実は、夢よりもさらに進展しているようだ。
「かのちゃん、たしか大学生だったよね?」
「うん。そうだけど……」
「今日は大学の授業はないの? 月曜日だけど」
私は、アイラッシュのポスター以外で唯一壁に掛けてあるもの――掛け時計に目を遣る。先ほどなずなが指摘したとおり、正午まであと5分である。だいぶ寝過ぎてしまった。
「……大丈夫。出席日数はまだ足りてるはずだから」
「それって本当に大丈夫なの? 限界大学生になってない?」
正直今は大学の単位のことなどどうでも良い。目の前の現実への対処が最優先である。
「なずなちゃんの方こそ、今日はお仕事はないの?」
「今日はオフだよ。ライブもないし配信もないしレッスンもない」
やはり目の前の美少女はシオンの中の人で間違いないようだ。
私は、徐に布団から立ち上がる。
「簡単なものになっちゃうけど、今から朝ごはん作るね。もう昼ごはんかもしれないけど」
「かのちゃん、気を遣ってもらわなくて大丈夫」
なずなは、私の両肩を押さえつけ、無理やり布団に座らせる。
そして、私と同じ布団に座り、黒目が大きな愛らしい目で、私の目をじっと見る。
あまりにも距離が近い。
朝から心臓がバクバクである。
「かのちゃん、それよりお願いがあるの」
「お願い?」
「私と一緒に、皐月の家に行って欲しいの」
「皐月……ああ!」
ヒナノの中の人である。昨日寝る前に、なずなが言っていた。ヒナノの中の人は、儀部皐月という名前だと。
そして、昨日の話によれば、皐月はアイラッシュを辞めたがっているということだった。
「皐月ちゃんの家に行って、どうするの?」
「もちろん、説得するの」
なずなは昨日も言っていた。「絶対に皐月を説得して、アイラッシュに戻ってもらうから」と。たしかに、そのために皐月の家に行く、とも言っていた気がする。
「私がついて行くのは良いんだけど……」
というより、本音を言えば、渡りに船だろう。
なずなとの次の用事ができれば、なずなとすぐにお別れをしないで済む。
それに、ヒナノの中の人とも会えるのだ。
アイラッシュのファンとしては、あまりにもありがたい提案である。
ただ――
「私がついて行って意味があるのかな? 私、皐月ちゃんのこと、よく知らないし」
皐月が扮するヒナノのことはよく知っているが、この場面では意味を持たないだろう。
せめてヒナノ推しであれば、ファンを代表して説得要員になれたのかもしれないが。
「皐月にはね、自傷癖があるの」
「自傷癖って……リスカとか?」
「そうそう。だから、皐月はアイドルを辞めて、VRアイドルになったの。手首の傷を隠すために」
VRアイドルの裏側には、色々なことがあるのだろうとは想像はしていたが、想像を超えていた。
「ヒナノの中の人って、元アイドルだったんだ……」
「あれ? かのちゃん、知らなかったの? アイラッシュの中の人は、ミマ以外は全員元アイドルだよ? 掲示板とかで前世バレしてるけど」
――それは知らなかった。
「……ということは、なずなちゃんも元アイドル?」
「そうだよ」
納得だ。
むしろこのルックスでアイドル経験がないという方が不自然である。
「まあ、私はだいぶ昔に色々あってアイドル辞めちゃったんだけどね」
あと、となずなが付け足す。
「私の場合は前世バレしてないからね。だから、かのちゃん、掲示板見ても無駄だよ。ヒナノとスミレとユウキは、声で前世バレしちゃってるんだけど」
なるほど。VRアイドルでは、顔は隠されるものの、声は表に出るので、前世を知っているファンによって特定が可能なのだ。
他方、シオンの声は電子的に加工されているため、なずなの肉声は表には出ていない。
なずなの声は、ほんわかしていて、聴いていて心地が良い。
加工してしまうのはあまりにももったいない気もするが、もしかするとなずなは前世バレ回避のために声を変えているのかもしれない。
「話を戻すけど、皐月には自傷癖があるから、私、心配なの。家に行ってみたら……ということがあるかもしれないでしょ?」
なずなの心配はなんとなく分かる。
皐月はアイラッシュを辞める、と言っているくらいだから、おそらく精神的に不安定な状態なのだろう。
「最悪の事態」も頭によぎる。
「だから、かのちゃんに付き添って欲しいの。皐月の家に一人で行くのは怖くて。……ね? 良いでしょ?」
推しのお願いを断れるほど、ファンは偉くはない。
この至近距離でお願いされれば、尚更断る術はない。
「……いいよ」
「やったあ! かのちゃん大好き!」
今度は座りながらハグをされてしまった。
私がこの子に逆らえる日は、この先も永遠に来ないだろう。
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