【ヒナノ】

 死ぬしかない、と思った。


 事務所を辞めるということは、寮を出るということである。


 寮の外に、私の居場所はない。



 今さら儀部のいる家に戻るわけにもいかない。


 母親と儀部と「妹」が築いている幸せな家庭を、異物である私が壊すわけにはいかないのだ。



 居場所がない以上、今度こそ死ぬしかない。



 貯金は4万円と少し。


 自殺の名所である三段壁まで行く片道の交通費はある、と思った。


 あそこから飛び降りれば、確実に死ねるだろう。


 残りの貯金で、最期の一晩だけ贅沢をしよう。


 大好きな焼肉をお腹いっぱい食べよう。



 そんな私の貯金の使途をギリギリで変えてくれたのが、私が退所したことを知り、心配してくれた瑞綺からの電話だった。



「皐月に会って話したいことがあるの」


 私も、最期に瑞綺に会って、感謝を伝えたいと思っていた。



「VRアイドルとかどうかな?」


 喫茶店で出会った瑞綺が私に提案する。


 瑞綺が「再就職先候補」として勧めてくれるまで、私は、VRアイドルのことを知らなかった。それどころか、巷でVtuberたるものが流行っている、ということすら知らなかった。


 なるほど。瑞綺が私に勧めてくれた理由はよく分かる。VRアイドルであれば、リスカ痕を気にせずに活動ができるのである。



 瑞綺は、「アイラッシュ」というVRアイドルユニットがメンバーを募集していると教えてくれた。一般公募ではなく、地下アイドルや元地下アイドルを中心に声を掛けているらしい、とのことであった。



 死ぬかアイラッシュに入るかの二択だった。


 その時の私はどちらでも良い、と思っていた。



 しかし、瑞綺が、私を死なせてくれなかった。


 瑞綺が、私に代わってオーディションに申し込んでくれた。


 次の仕事が決まるまで、私が寮の部屋を使い続けられるように事務所にも交渉してくれた。



 瑞綺には本当に頭が上がらない。


 もしも瑞綺が本物の母親だったら、私は幸せになれたのかもしれない。



 大手町(おおてまち)VR事務所――アイラッシュの所属事務所も、私を拾ってくれた。


 どこにも居場所のなかった私は、ヒナノとして、新たな居場所を与えてもらったのである。


 アイラッシュの活動も楽しかった。


 他のメンバーとも良好な関係を築けている。


 何より、手首のことを気にしなくて良いことが、私にとっての救いだった。



 私が居場所として求めていたものは、アイラッシュに漏れなく揃っていた。



 しかし――



 私は、偶然知ってしまったのだ。



 アイラッシュの抱える重大な「秘密」を。



 気にしない、という選択肢もあるのかもしれない。


 むしろ、私が欲しているのが居場所なのだとすれば、それは気にすることではないのだろう。



 しかし、私の醜い部分は手首だけではない。


 私の心もまた醜い。


 私は、まで求めるようになってしまったのである。



 ゆえに、私はその「秘密」をどうしても許容できなかった。



 私はアイラッシュのことが大好き


 ゆえに、私の部屋の壁には、アイラッシュのポスターがデビュー当時のものから全て貼られている。


 私は、そのうち一枚を乱暴に剥がすと、カッターナイフとともに風呂場に持っていく。



 アイラッシュのメンバーであるシオン、ミマ、ユウキ、スミレ、そしてヒナノが、サイバー空間を背景に、各々ポーズをとっているポスター。


 中の人たちに恨みはない。


 彼女たちも私同様に、事務所に騙されている被害者なのである。



 私が憎いのは、大手町VR事務所、そして、アイラッシュだ。



 私は、ポスターを風呂場のタイル床に置くと、右手でカッターを握り締める。



 そして、ポスターを目掛けて私の血をかける。



 赤く染まっていく。


 シオンが、ミマが、ユウキが、スミレが、ヒナノが、赤く、赤く、赤く――



 これが私の「復讐」だ。


 私を騙していた者に、私の痛みを教えてやるのだ。


 その上で、私は死ぬ。



 遺書はすでに書いて、机に置いてある。



 この遺書の中身が明らかにされれば、大手町VR事務所とアイラッシュは「死ぬ」。


 私が死ぬことで、私の「復讐」は完遂するのである。



 私は、さらにポスターを私の血で染め上げる。



 死ね事務所、死ねアイラッシュ、死ねヒナノ、死ね私、死ね全部――



 ピンポーン――



 その時、家のチャイムが鳴る音が聞こえた。


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