推しメン
電車内では、女性とは隣の席に座った。
気マズかったし、罪悪感はあったが、席がちょうど二つ分だけ空いていたので、致し方ない。
そこに座らない方が、よっぽど不審である。
女性からは今まで嗅いだことのないような良い匂いがする。朝の日差しのような爽やかな匂い。何の香水だろうか。全く見当がつかない。
隣に座っておいて、一切会話をしないというのも不自然なので、とりあえず訊いてみることにする。
「あのぉ」
「あなた、可愛いね」
……え?
「……あなたって誰?」
「何その質問。面白いね」
女性がキャッキャと笑う。
泣き顔も美人だったが、やはり笑顔の方がその何百倍も魅力的である。
というか――
「私のことを『可愛い』って言った?」
「うん。最初声を掛けられた時、アイドルがモデルさんかな、って思っちゃった」
それはさすがにお世辞が過ぎる。
たしかに昔はご当地アイドルをやっていたが、妃芽花はともかく、私は底辺中の底辺である。
最近は、メイクだって最低限しかしていない。
私が明らかに取り乱している様子をどう解釈したのか、女性は、
「初対面でいきなり変なこと言っちゃってごめんね」
と、私に謝ってきた。
「いやいや、むしろごめんね。私が変なリアクションしちゃって」
「ううん。私が変なの。私、アイドルが好きだから、可愛い子に話しかけられて、テンション上がっちゃった」
「え!? アイドル好きなの!? 私も好き!!」
乗客の視線が集まるのを感じる。
ヤバい。テンションが上がって大声を出してしまった。
私は、意識して声を落とす。
「……どんなアイドルが好きなの? 韓流とか?」
「ううん。引かれるかもしれないけど、マイナーな地下アイドルとかの方が専門で」
「本当!? 私も……」
マズい。マズい。またテンションに合わせて声量が上がってしまった。落ち着け自分。落ち着け。
とはいえ、到底落ち着けるような状況ではない。
とびきり可愛い子と知り合えて、しかもその子には、私と共通の趣味があるのである。奇跡的な展開である。
絶対に連絡先を訊こう、と心に決めたのであるが、それをすぐに実行に移せるような冷静さもなかった。
私は、怒涛の如く地下アイドルについて語り始めてしまっていたのだ。
「『エスティバル』ってユニット知ってる?」
「もちろん、知ってるよ」
「私、エスティバルの紫の子が好きで」
「夢逢(ゆあ)ちゃんでしょ!」
「そう! 夢逢ちゃん! 上京してすぐに特典会に行ったんだけど、本当に細くて、可愛くて……」
アイドルファンの悪い癖が出てしまう。語るのが楽しくて楽しくて止まらないのだ。
それに、女性も、単なる聞き役ではなかった。
地下アイドルの知識は私に匹敵するほどで、相槌以上の反応を常に返してくれる。
それに――
私はとても不思議な感覚だった。女性とは間違いなく初対面である。こんな尊い顔の子と過去に出会っていたとすれば、決して忘れることはないだろう。
しかし、話せば話すほど、初対面という感じがしなくなっていた。
本当に不思議である。この子と話すのは、初めてではない気がする。
私もこの子も、互いに互いを知った仲であるような、そんな気が徐々に強まっていくのだ。
「次の停車駅は早稲田。早稲田駅です」
電車のアナウンスで、私はようやく冷静さを取り戻す。
「私、ここで降りるね」
「ここは……早稲田?」
「うん。あなたはどこで降りるの?」
私の質問に、女性は信じられない言葉を返す。
「この電車、どこに行くの?」
「……え?」
この電車は中野行きである。残り数駅で終点の中野に着く。
「あなた、家はどこなの?」
「清澄白河」
……え? それって……
「路線が違うよね? ここは東西線で、清澄白河に停まるのは半蔵門線だから」
私が間違った電車に女性を誘ってしまったわけではない。
女性がいたホームがそもそも間違っていたのである。
「え? どうしよう?」
私は焦る。調べるまでもなく、錦糸町までの足はもう途絶えている。
今晩、この女性は家に帰ることができないのである。
まさかこんな可愛い子に野宿をさせるだなんて危険なことはさせられない。
私とは対照的に、女性の表情には危機感がない。
「あなた、名前は?」
信じられないことに、こんなタイミングで、こんなことを訊いてくる。
「え? 名前? 早宮果乃だけど……」
「かのちゃん……やっぱり!」
女性がパチンと手を叩く。
私の名前を聞いて、一体何に合点がいったのか、私にはサッパリ分からない。
徐行していた電車が、完全に停車する。
プシューとドアが開く。いよいよ時間がない。
「どうしよう? 私、ここで降りるけど、あなたは……」
「私、
……え? シオンって、もしや……
「私、あなたの推しメンだよ。だから、かのちゃん、今晩かのちゃんの家に泊めて!」
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