連鎖反応

鮎崎浪人

連鎖反応

 一


 あなたはとてつもない過ちを犯した。

 あなたのことを心から愛するファンに対する卑劣極まりない仕打ち。

 これだけで、僕が何を糾弾しているのか、あなたにはお分かりでしょう。

 僕の心はあなたへのどす黒い怒りで満たされている。

 だけど、安心してください、僕は暴力が大嫌いなのであなたに危害を加えるつもりは全くありません。

 そのかわり、一年を通してあなたがもっとも祝福を受ける日に、絶望にまみれた僕は自ら命を絶ちます。

 僕の死によって、すでに芽生えていたに違いない罪悪感があなたの心をさらに蝕んでいくことを望みます。

 それが僕のあなたに対する精一杯の復讐です。

 ささやかではあるかもしれないがあなたのことを確かに支えていたファンを、あなた自身が死に追いやったという罪の意識に苛まれながら、あなたはこれからを生きていくのです。


 二


 日の出にはまだ一時間ほどあって周囲は薄暗かったが昨日までの冷え冷えとした空気はどこかへ消え失せて、三月上旬の午前五時にもかかわらず、春の到来を予感させるような心地よい暖かさが私を包み込んでいた。

 だが、私の心中は、冷たい雪に覆われた山林の真冬のように寒々としていた。

 一連の出来事に胸中が右往左往する中でうかつにも気づけずにいた大きな矛盾に昨日から悩まされ、布団にはいってもとうとう眠りにつくことができずに夜明けを迎えてしまったのだ。

 日曜日であればふだんは九時頃まで寝ているところだが、今日は五時前には起床した。

 頭の中を整理するためと供養のために、私は散歩がてら自宅近くの浅草寺に詣でることにした。

 観光地である浅草の日曜日とはいっても早朝のこととて、日中なら平日でも人通りが絶えない国際通りに人影はまばらで、車の往来もほとんどなかった。

 ビューホテルのあたりで横断歩道を渡って浅草六区のエリアに入り、そのまま直進してメインストリートを横切った私は、まだシャッターが下りたままの店が両側に並ぶ西参道から本堂に向かった。

 道々、一連の出来事に思いを馳せると痛切な悲しみが込み上げてくる。

 あの悲劇は、と私がこれまで何度も考えたことがまたもや脳裏に浮かび上がってきた。

 あの悲劇は、やはりあの日の握手会が前兆だったような気がしてならない。

 それは今からおよそ一カ月前の二月十一日の祝日のことで、横浜のイベントホールでアイドルグループ「女神症候群」の握手会が開催されていた。

 私はあいにく仕事が入っていたため、かろうじて最後の部に間に合ったのだった。

 神宮寺弥生の前はすでに長い列をなしていて、その中には見慣れた面々も並んでいた。

 私はそうした旧知のファンと視線が合うと目礼をしたり、短い会話を交わしながら自分の番を待った。

 三十分ほどそうしていると、ようやく弥生の姿が間近になり、会話が漏れ聞こえるようになってきた。

「大ファンです、会えてうれしい!」

「ありがとう! 私もうれしいよ」

 とか

「大好き! ずっと応援してるよ!」

「ありがとう! これからも応援よろしくね!」 

 などのごくごく普通の会話もあれば、

「弥生、愛してるよ!」

「あ・り・が・と」

「付き合って!」

「いいよ~」

「じゃあ、とりあえず、ここでチューを・・・」

「はい、出禁!」

 といったやり取りや

「〇〇ちゃんとこ、行ってたでしょ?」

「え? バレた?」

「わたしに隠そうとしたってムリだから」

「すごい情報網」

「ほかの子に行くなら、もう弥生のところ来なくていいからね~」

 といったやり取りなど、お互いに気心の知れた常連のファンならではの独特の会話もあった。

 二十代後半の会社員で医療事務職として都内の病院に勤務する佐山七海もそういった熱心なファンの一人で、神宮寺弥生とは軽口をたたき合う信頼関係を築いているが、今はなにやら二人ともいつになく真剣な表情で会話をしている。

「アイドルオタク」という言葉から世間一般の人がおそらくイメージするであろう容姿よりもはるかに洗練されたそれの持ち主である七海は、握手会などのイベント会場ではひと際人目を引いた。

 だが、近寄りがたい雰囲気は全くなく、気さくで快活な性格だったのと、オタク気質という意味で男性ファンと共通するものがあったので異性には奥手のタイプが多い男性陣にも安心感を与え、弥生ファンの間ではいわゆるマドンナ的存在だった。

 激務に追われたことで現在うつ病を患い休職中であるが、それらの事情を神宮寺弥生に打ち明けていることを知っている私は、なにか病状について弥生に報告なり相談をしているのかなと思った。

 その握手会が終わった後、弥生のファンの何人かでカフェに集まって本日の会の感想を言い合っているとき、私が七海に「今日のハイライトは何?」と尋ねてみた。

 ハイライトというのは、その日の握手会の中でもっとも盛り上がった会話を指すファン用語である。

 握手会に参加したファンは、これもファン用語だが「ループ」といって通常同じメンバーの握手を二巡三巡と繰り返していき、様々な会話を交わす。

 すると七海はけろりとした顔つきで「う~ん、『あなた嫌い、二度と来ないで、わたしの目の前に現れないで』って言われちゃった」と答えたものだった。

 以前も、推す対象を変える変えない、とかで弥生と七海がケンカめいた会話をしているのを耳にしたことがあったが、仲の良い友人同士がじゃれ合っているようにしか見えなかった。

 内気な私からすれば、真面目な話はもちろんのこと、信頼関係があるゆえのきわどい冗談が言い合えるのがうらやましかった。

 そんな七海のそのすぐ後ろには西川康則が控えていた。

 西川もいわゆる「ガチ」なファンで、七海と同じく私は彼とも親しく交際している。

 都内の大学に通う西川は無口でおとなしく人見知りの性格をしていて、ファン同士の談笑の場でも決して多くを語るタイプではない。

 小柄で細身のごくごく地味な印象だが、身なりやふるまいには清潔感があった。

 彼が握手会に姿を現すようになったのはおよそ一年くらい前だったと記憶しているが、古参のファンとして私や七海は彼を歓迎したものの、最初の頃は握手会の雰囲気になじめず楽しめているようにも見えなかったので、その後足繁く通うようになるとは私には思いもよらないことだった。

 口数が少なく控えめな性格にもかかわらず、握手会の後のファンの集まりには必ずといってよいほど顔を出した。

 常連のファンの中には、握手会そのものよりも、その後のファン同士の飲み会が楽しみという者も少なくないが、彼もそういうタイプに属するかというと、彼の挙動を観察する限り、とてもそうとは思えなかったのだけれど。

 そんなふうに奥手の西川だったけれど、彼ほどではないにしろ口下手な私にはなぜかよく話しかけてきた。

 自分自身のことも語ったし、私のことにも関心があるようだった。

 十五歳ほど年下に慕われて私は悪い気はせず、問われるままに色々なことを喋った。

 五年程前から浅草に妻と二人で暮らしていること、都内の中学校で社会科を教えていること、現在は妊娠中で「オタ活」を自粛している妻と私とのなれそめが神宮寺弥生のファン同士の集まりであったこと、アイドル鑑賞の他に詩作が趣味であること、私も七海ほどではないが軽度のうつ病でクスリを服用していることなど。

 また、私に問われて彼も、大学では国文学を専攻していること、品川で一人暮らしをしていること、以前はアイドルにまるで興味がなく神宮寺弥生が初めての「推し」であること、性格が災いして未だ恋愛経験がないことなどをぽつりぽつりと言葉少なに語ったものであった。

 そして彼は私と同様かそれ以上に、弥生のファンとして積極的な活動を行っていた。

 自宅から遠隔地でのイベントに参加する「遠征」はもちろんのこと、弥生の地元を訪れる「聖地巡り」、また弥生が訪れたカフェやレストランに行き同じメニューを食べる「一致活」など。

 中でも、もっとも印象に残っているのは、狂的ともいえるほどの「LIVE ROOM」での奮闘ぶりである。

「LIVE ROOM」というのはLIVE動画の配信アプリで、アイドルやタレントが配信の主体となっている。

 また、視聴者はアバターを作成することで配信画面内の観客として参加することができるような仕組みになっていた。

 その「LIVE ROOM」で、半年ほど前、化粧品のCMの出演権をかけたイベントがあった。

 限定された期間の中で、最も高得点を記録した配信者がCMに出演できるというルールだった。

「LIVE ROOM」では、視聴者が有料で様々なアイテムを購入できるようになっており、投じた金額によって得点が加算されていく。

 神宮寺弥生がそのCMの出演を熱望していたため、私を含めた弥生ファンの意気込みは相当なものだった。

 だが、中間発表ではトップであったものの、ライバルグループのアイドルに猛追され、イベント最終日の開始時点で百五十万ポイントの差をつけられてしまった。

 私も期間中はそこそこの金額を使い、最終日は仕事を早く切り上げて自宅でスマートフォンを手に、弥生とライバル両方の配信を逐一チェックしていたが、配信終了時間の一時間前には、到底この大差は埋まらないともう諦めていた。

 私は弥生ファンと同時進行でLINEでやり取りをしていたが、私以外のファンも同じ気持ちのようだった。

 特に最も熱烈な女性ファンである佐山七海の落胆ぶりは大きく、休職中であることが影響して投入可能な資金が尽きたことを嘆くそのLINEの文面からは悔しさがひしひしと伝わってくるのであった。

 そんなとき。

 一万円というもっとも高額のアイテムである富士山が配信画面に大量に表示された。

 見る見るうちに画面の下部が富士山のイラストで埋め尽くされていく。

 十や二十の数ではない。

 画面の右端のポイント表示が五十万、六十万と加算されていく。

 使用者の履歴を確認すると、すべてのアイテムは西川によって使用されていた。

 その無謀な行為にあっけにとられていた弥生は、やがて嬉しいとも申し訳ないともつかぬ複雑な表情を浮かべながら、ついには涙目になって「西川さん、ありがとう。でももう、いいから・・・」とつぶやいている。

 だが、富士山はなおも画面を覆いつくしていき、最終的には百万ポイントが加算されていた。

 結局それでも、いわゆる焼石に水といった効果しかなく弥生は敗れたのだが、西川の行為はいわば伝説となり、その名は一気に弥生ファンのみならずグループのファン全体に知れ渡ったのだった。

 私はその後で西川にその原資について聞いてみたところ、大学入学時に不動産会社を営む父親から「この百万でなにか将来に役立つことに使ってみろ」と言われて渡されたものだった。

 私は彼が例えば借金によって作ったお金なのではないかと心配していたので、その話が本当らしいと知って安心したのだが、自腹ではないとはいえ、やはり並々ならぬ弥生への愛情がなければできないことだと、半ば呆れながらも感心する気持ちの方が強かった。

 そんな西川にも握手会のハイライトについて尋ねたところ、「梅川さん、僕は弥生さんに重大発表をしました。彼女はだいぶムッとしたようですけど」と言葉少なに語った。

 生真面目な西川のことだから、きわどい冗談などではなく、本当に弥生を不快にさせるようなことを口にしたのに違いなかった。

 普段の西川であれば弥生の怒りを買うような発言をすることはまずありえないので、あえてそのような行動に踏み切った西川の心中や彼が言うところの「重大発表」なるものの内容に私は否応なく興味を掻き立てられた。

 だが、西川はそれ以上は触れたがらなかったようなので、私も無理に聞き出そうとはしなかった。

 私は他の弥生ファンにも感想を聞いてみたが、西川のようなケースは例外で、総じていつもどおりの楽しい握手会だったようである。

 だが、実はその日、弥生ファンの隣の列は修羅場と化していたのである。

 弥生の右隣にいたメンバーが男性アイドルグループのメンバーの一人と交際していると、数日前に写真週刊誌で報じられたからである。

「女神症候群」としては初のスキャンダルで、ファンの間に大きな衝撃が走った

 隣の列では、「今までに使った分の金返せ!」、「今すぐアイドルを引退しろ!」だの「いや、オレは信じる!」、「それでもずっと大好きだよ!」だの罵声や絶叫が飛び交っていた。

 ファン同士のつかみ合いのケンカにまで発展し、当然ながらそのメンバーの握手会は中止に至ったのだが、その光景を横目で眺めながら、私は神宮寺弥生がスキャンダルとは無縁の存在であることに心の底から安堵していた。

 にもかかわらず、なぜか胸の内の片隅に、もやもやと異物が沈殿しているような感覚にも見舞われたのである。

 この騒動は、なにか不吉が起こる予兆ではないだろうか。

 さらなるスキャンダルの幕開きにすぎないのではないだろうか。

 なぜだかそんな気に囚われたのだが・・・

 その予感は後日、私自身や私の周囲に降りかかる災厄という形をとって証明されることになったのである。


 三


 それは二月二十八日のことであった。

 写真週刊誌の巻頭カラーで、神宮寺弥生の熱愛が報じられた。

 お相手は、弥生のボイスレッスンのトレーナーで、三十五歳のその男性には妻子がいるという。

 その週刊誌の発売の五日前である二月二十三日午後十時頃の代官山の路上でのキスが、見間違えようもないほど鮮やかに撮影されていた。

「女神症候群」の絶対的なエースで、全国的にその名を知られる神宮寺弥生のスキャンダルに、TwitterなどのSNSには大きな反響があり、またワイドショーでも取り上げられるほどだった。

 私を含めた弥生ファンの間でも、LINEでの活発なやり取りが行われた。

 落胆、憎悪、悲しみ、そういった感情が多くのファンの率直な反応だった。

 私はといえば、弥生に疑似的な恋愛感情を抱く時期はとうに過ぎていたが、そんな今でも理想の女性像という地位は揺るぎなかったので、偶像に裏切られたといった思いは否定しうるものではなかった。

 しかも、撮影された二月二十三日という日は、ちょうど握手会の日であったのだ。

 普段と変わりない様子でファンと接していた弥生がその後、恋人と会うためにいそいそとデートに出かけたかと思うと、なんだかファン全体が弥生に嘲笑され愚弄されたような気持ちもした。

 私ですらそうなのだから、私より若い男性ファンにとっては、痛恨の衝撃だったことは言うまでもなかった。

 私がこの記事を読んですぐに思い浮かんだのは西川のことだった。

 彼に電話をかけたりビデオ通話を打診することも考えたが、直接彼の声を聞いたりその姿を目前にして会話をするのは、正直に言って大変気が重くはばかられたので、LINEで簡潔に「大丈夫?」と投げかけた。

 しばらくして、「大丈夫です」というこれも簡潔な返答があっただけだった。

 また、先に触れた弥生のファンの間のLINEグループのやり取りでも西川は何らの感情を吐露することもなく沈黙を貫いていた。

 ショックが大きすぎて頭の中がぼおっと麻痺しているようだったに違いなく、それならば私は彼のことをそっと見守っていくことにしようと思ったのだった。

 ところで、男性ファンに比して女性ファンはわりと冷静で、男性ファンを気づかうような反応が支配的だった。

 こんなとき熱烈な女性ファンの佐山七海ならどう反応するだろうかと私は思ったが、その感情には悲痛さが伴っていた。

 なぜなら、七海はこのときすでにこの世から突然に姿を消していたからだ。

 弥生のスキャンダルが発覚するおよそ二週間前の二月十五日の深夜、七海は睡眠薬の大量摂取により自ら命を絶っていたのである。

 重度のうつ病に苦しんでいた七海の生きがいでもあり心の支えでもあった神宮寺弥生の存在を以てしても彼女を救うことはできなかった。

 そう考えると、私は虚しさを感じずにはいられなかった。

 七海の母親からの連絡を仲の良い女性ファンが受けてその死を知った後、私を含めた弥生ファンの間で話し合い、代表者が弥生にインスタグラムのダイレクトメッセージで七海の死を報告することにした。

 突然七海が姿を見せなくなれば弥生は不審に思うだろうし、握手会でファンの誰かが弥生から疑問を投げかけられれば答えに窮するのは必定で、双方ともさぞかし気まずい思いをすることが明らかだったからである。

 そして今後一切、弥生にその話題を持ち出すのはよそうという結論になったので、二十三日の幕張での握手会でも誰もそのことに触れなかったのだと思う。

 だが、その日の握手会後の集まりは、やはり七海の追悼会のような形になった。

 皆が皆、一様に気持ちが沈んでいた。

 私は元々口数が少ない人間だがさらにそれが減っているのが自分でもわかったし、私同様に無口な西川もやはり普段よりも一段と口が重かった。

 誰かがぽつりとつぶやいた。

「七海ちゃんは前回の十一日の握手会が最後だったんだなあ。

 体調が悪くて、やっと最後の部に間に合って、でも時間がなくてループできなかったって言ってたなあ・・・」

 十回どころか二十回、三十回とループするのが当然の七海にとって、その日はさぞかし悔いが残ったに違いなかった。

 だけど、その悔しさを晴らすことはついにできなかったのだ。

 だから七海の分もこれからも弥生を推そうという結論で全員一致して散会したのが午後十時半頃。

 ちょうどその頃、弥生は恋人との逢瀬を楽しんでいたというのは、なんという皮肉であろうか。

 それにしても、なぜ神宮寺弥生は恋愛に走ったのだろうか。

 私はそのことがどうにも解せなかった。

 現在二十三歳の弥生は、「女神症候群」の絶対的なエースであるだけではなく、ファッション誌のモデルも務め、また四月にはドラマデビューを控えている。

 端正な美貌に恵まれ、他のモデルや女優にも決して引けを取らないというのが大方の世間の評価である。

 また、裏表のない実直な性格から、男性のみならず女性ファンも少なくない。

 そんな彼女のキーワードは、清純さ、だった。

 その魅力を彼女は自身でも十分に理解していたはずだし、自分が今後さらに芸能界でステップアップしていく上でコアなファンの支えが必要不可欠であることも認識していたに違いないのだ。

 そのように聡明な彼女がこれからという時期に、世間一般のイメージを覆し、ファンの信頼を損なうような凡庸なミスを犯すとはどうにも不可解だった。

 恋愛より野心、その野心を達成するにはなにをすべきかを熟知している非常にプロ意識の高いアイドルだと思っていたのだが。

 それとも、人間の本能ともいえる恋愛の魔力には彼女とて抗うことができなかったのだろうか。

 しかし、このときの私は、弥生ファンを襲った悲劇が更なる悲劇を呼び起こそうとは思いもよらなかったのである。


 四


 神宮寺弥生の熱愛が大々的に報じられた五日後の三月五日、西川が自ら命を絶った。

 自室で首を吊っているのを発見されたのであった。

 その翌日、西川の母から連絡を受けた私は、西川のインスタグラムの弥生へのダイレクトメッセージの存在を知らされた。

 送られてきた画像を見て、私は自殺の動機を示唆するその内容に衝撃を受けた。

 いや、間違いなく衝撃は受けたのだが、心の奥底では、西川の死を知った瞬間から実はその動機に気づいていてその内容が思い描いたとおりだったような気もするという不可思議な感覚を味わった。

 

 あなたはとてつもない過ちを犯した。

 あなたのことを心から愛するファンに対する卑劣極まりない仕打ち。

 これだけで、僕が何を糾弾しているのか、あなたにはお分かりでしょう。

 僕の心はあなたへのどす黒い怒りで満たされている。

 だけど、安心してください、僕は暴力が大嫌いなのであなたに危害を加えるつもりは全くありません。

 そのかわり、一年を通してあなたがもっとも祝福を受ける日に、絶望にまみれた僕は自ら命を絶ちます。

 僕の死によって、すでに芽生えていたに違いない罪悪感があなたの心をさらに蝕んでいくことを望みます。

 それが僕のあなたに対する精一杯の復讐です。

 ささやかではあるかもしれないがあなたのことを確かに支えていたファンを、あなた自身が死に追いやったという罪の意識に苛まれながら、あなたはこれからを生きていくのです。


 三月五日は神宮寺弥生の誕生日であり、明らかに西川は弥生への当てつけとして、その日を選んだに違いなかった。

 情熱も労力も財力もすべてを傾けて応援してきた、推してきたアイドルに恋人がいたという苛酷な現実を突きつけられる。

 未だ恋愛経験のない若干二十一歳の繊細で純朴な青年にとって、それはどんなにか残酷極まる仕打ちであろうか。

 偶像に対する愛が憎悪と絶望へと一瞬で豹変し、西川をあのような心境、行為に追いやったとしてもなんら不思議ではない。

 私にはそう思えたのである。

 西川の死が弥生に起因するものであるとTwitterで暴露したファンがいて、その内容は瞬く間にSNS上で拡散され、インターネット上でトップニュースとして扱われた。

 おそらくそれらの情報を弥生も目にしたに違いない。

 自分あてに届いた西川からのダイレクトメッセージで薄々は想定していたに違いないが、実際に悲劇が起こってしまった今、弥生はどう感じているのだろうか。

 私にはいくらかの想像は可能であったが、忌むべきスキャンダルによって、ファンを非常に大切にするアイドルという神宮地弥生へのこれまでの印象ががらりと一変してしまっていたので、彼女の西川に対する本心を推し量ることは困難だった。

 だが、その心の内が、言いようもない悲しみや虚しさに彩られて明るみに出るときまで時間はかからなかった。


 五


 西川が自害した弥生の誕生日から三日後の三月八日、神宮寺弥生もまた西川の後を追うかのように、浴室で手首を切り自ら命を絶った。

 彼女の部屋には遺書が残されていて、それは翌日のテレビのワイドショーで公開された。

 

 わたしは、わたしの軽率な行為が招いてしまった悲劇の責任をとります。

 わたしはこれまで遊びや恋愛には目もくれず、普通の人が味わうような青春時代をなげうって、ひたすら芸能活動に打ち込んできました。

 だけど、魔物に魅入られたとしかいいようのない不思議な感情に囚われて、わたしは初めての恋愛というものに身をゆだねてしまったのです。

 そのことで、これまでわたしを全力で愛してくれたファンの方々の気持ちを踏みにじってしまいました。

 それだけではなく、死を選んだ人さえいるのです。

 わたしは自分が犯した罪の重さにこれ以上耐えることはできません。

 わたしは私自身の死をもって、人生の幕を引くことに決めました。

 それがわたしにできる唯一の償いです。

 みなさん、今までこんなわたしを支えてくれてありがとう。


 神宮寺弥生の訃報を目にして真っ先に私の胸に迫ってきたものは、かけがえのない人が突如としてこの世から消えてしまったという喪失感だった。

 彼女はもういない。

 その屈託のない笑顔も、その愛らしい仕草も、その華麗なダンスも、もう観ることは叶わない。

 その優しい声も、その真っ直ぐな歌声も、もう聴くことは叶わない。

 私の全身からあらゆる力が抜け、虚脱感が私を支配した。

 だが、それと同時に別の感情も生まれていた。

 いくら大切なファンが彼女の行為がきっかけで死を選んだとしても、それは彼女自身の責任では断じてない。

 命ほど貴いものはなく、自ら命を絶つことは決してしてはいけない。

 そうは思いつつも、家族でもなければ恋人や恩人でもなくいわば純粋に他人にすぎないファンの死に対し、贖罪の意識から殉死を選んだ神宮寺弥生というひとりのアイドルは、自らの死を以て誠実さや高潔さといった現代では失われつつある内面の美を証明したのではなかろうか。

 そのように私は直覚したのである。

 もちろんこのような感情が、他人の共感を得られるなどとは考えていなかった。

 あくまでも、私個人の、大げさにいえば人生観に由来する率直な感覚であった。

 この日は幸いにして土曜日であり出勤する必要がなかったので、私は日がな一日、ほとんど何もせずに過ごした。

 神宮寺弥生の恋愛、西川の死、そして弥生の死という一連の出来事について考え続けた。

 だが、考えるべきことはたくさんあるようなのに、なぜか思考が空転して手持無沙汰な状態が続いた私は、繰り返し繰り返し西川が弥生に送ったダイレクトメッセージを眺めたりした。

 そして、十数回目にその文面を追っていたときだった、ある矛盾に気づいたのは。

 紛れもないある事実に私の頭の中は混乱した。

 これは一体、どういうことなんだ?

 この事実にどう説明をつければよいのか?

 私はろくろく眠りもせずに夜を徹して考え続けたが、結局、その疑問に答えを見いだすことはできなかった。

 そして、早朝に寝床を這い出し、ひとり浅草寺へと向かったのだった。


 六


 私は西参道を抜け、五重塔の黒い影を右手に見ながら歩を進めた。

 本堂前の境内もやはり人の姿はまばらであった。

 私は本堂への階段をゆっくりと上がり、大提灯の下で、西川と弥生の冥福を祈った。

 参拝を終えた私は来た道をそのまま戻ることはせずに、階段を下りると左に折れた。

 その先には、朱色が鮮やかな二天門が見えた。

 本堂とその二天門を結ぶ参道の途中を右手に入ったところに、今は葉を落としているが大きなイチョウの樹がある。

 そのそばの木のベンチに私は腰を下ろした。

 そして、一連の出来事について改めて思考を凝らしてみたのだが、やはり私が気づいた矛盾に対する回答に至ることはできなかった。

 考え疲れて、ふと目を上げた私は一人の女性の存在を視線の内にとらえた。

 イチョウの樹を隔てて私の反対側ではあったが、その大木のすぐ脇でTシャツにジャージ姿のその女性はダンスを踊っている。

 手足のみならず頭や首や肩を上下左右にリズミカルに動かし、激しさの中にも可愛さを取りいれたそのダンスは、私が愛する女性アイドルのまさしくそれだった。

 キレのあるダンスに思わず見入っていた私だが、にもかかわらず違和感がひとつだけあった。

 それは、ダンスの踊り手の年齢であった。

 その顔を見る限り、明らかに若者とは言えなかった。

 私の年齢を上回っている、それどころか六十歳くらいではなかろうかと思われた。

 さらに、その年齢に比して、ポニーテールに結わえた髪型は明らかに不似合いだった。

 アイドル風のダンスとその年齢や髪型の組み合わせから、私の脳裏にはっとある考えが浮かび上がった。

 あの女性、もしかして・・・ もしかして、あの、珠夢羅早希たまむら さきではないだろうか。

 そうだ、そうに違いない、画像でしか見たことはないが、女性アイドルグループ「エターナル・イノセント」のメンバーである珠夢羅早希だ。

 たしか現在六十一歳にして、四〇年以上の経験を誇る今なお現役のアイドル・・・

 以前に私が「エターナル・イノセント」のファンと交流したとき、珠夢羅早希のことが話題に上がったことがある。

 そのときに、彼女が今なお現役であり続ける理由を聞いたことを思い出した。


 かつて「エターナル・イノセント」に絶大な影響力を及ぼした今は亡き総合プロデューサーには、アイドルが確固として存在しうるための条件に対し、妄想とでもいうべき彼独自の思考があった。

 彼は、世相とアイドルの存立を密接不可分な関係として位置付けていた。

 そして、世の中に負の感情や行動が蔓延しているからこそ、正の存在とでもいうべきアイドルが根強い支持を受けることができると信じていた。

 彼の思考では、まず負の現象ありきなのである。

 長引く不況がもたらすものは、絶望であり無気力であり、暴走する欲望である。

 そんな時代だからこそ、アイドルは輝くことができると考える。

 絶望の対比として、アイドルは夢や希望にあふれる詞を歌う。

 無気力の対比として、アイドルが全力でレッスンやパフォーマンスに取り組む姿を見せる。

 欲望の対比として、アイドルに恋愛の禁止を課す。

 彼は冗談めかして、「俗悪なる世界だからこそ、聖なる存在は輝きを増す。ある意味、暗黒時代が続いているからこそ、長い間、このグループが存続できた」と語っているが、これは彼の本心だろうと考えられている。

 そして、この、負の現象があってこそ正の現象が成立する、という彼独特の思考を、アイドルグループの内部でも実現させた結果が、現在六十一歳の現役アイドル、珠夢羅早希という存在だと言われている。

 ここで対比されているのは、いたって表面的ではあるが老いと若さである。また、醜と美である。

 彼の妄念を成就されるために犠牲者として選ばれたのが珠夢羅早希であったと周囲は口々に言うが、当の早希はそのような見方を気にかけていない様子である。

 わたしは強制的にアイドルを続けさせられていたわけでは決してなく、自ら望んで今もこの場所にいる。

 わたしは踊ることが大好き、歌うことが大好き。

 みんながわたしのパフォーマンスを見て笑顔になってくれれば、こんなにうれしいことはないと早希は常日頃から語っているという・・・


 しばらくの後、ダンスの練習を終えた女性は私とは一定の間隔を置いて、私が掛けているベンチに腰を落ち着けた。

 ふき出す汗を拭うことによってメイクの落ちたその顔は、よりいっそう年齢相応の老いを私に実感させた。

 その姿をちらと横目にしながら、私は彼女との間に奇妙な縁を感じていた。

 私は少し前から、私を悩ませる問題を無性に誰かに聞いてほしい衝動に駆られるようになっていたのだが、アイドル界隈の表も裏も知り尽くしているに違いない珠夢羅早希こそはその恰好の人物であるように思えた。

 だけど初対面だしなあ、と生来の人見知りで臆病な自分がいつものように顔を出し、私は大いに迷った。 

 と、そのとき、六時を告げる弁天堂の鐘が境内に鳴り響いた。

 その荘重な音色は私の全身に重量感を伴って駆け巡り、不思議と決心がついたような背中を押されたような感覚になった私は勇気を奮って声をかけてみた。

「あの、私は梅川と申しまして、アイドルファンなんですけど… あなたはもしや『エターナル・イノセント』の珠夢羅早希さんではないでしょうか」

 話しかけられた女性は少し驚いたように私を振り向いたが、やがてにっこりとうなずいた。

「ええ、そうです」

「あの、私、『女神症候群』の神宮寺弥生の推しなんですけど、あの事件はもちろんご存知ですよね?」

 すると彼女は笑顔から悲しそうな表情になって、再びうなずく。

「ええ、もちろん」

「それじゃあ、ぶしつけなお願いではあるんですが、もしお時間がよろしければ、そのことにかかわる私の話をおききいただけないでしょうか」

「あなたのお話を?」

「ええ、そうなんです、とにかく誰かに話したくて・・・ 

 といっても、決して感傷的にならないように心がけますから。

 私には大きな疑問が残されて、誰かと話せば答えが見つかるかもって・・・

 その相手には、アイドルを知り尽くしたあなたこそがふさわしいんじゃないかって、そう思ったものですから・・・」

 私の真剣な気持ちが通じたのか、私の目をしっかりと見つめながら早希は三度目のうなずきを返した。

 そんな早希の顔には小皺が刻まれ、肌のツヤが失われているのは隠しようがなかったけれども、瞳だけは星のような輝きを放ち異様なまでの存在感を誇示していた。

 その吸い込まれるような大きな瞳に後押しされるような力を得て、私はここ一か月の出来事を細かく語った。

 その間に日は上り、私のほぼ正面にそびえる五重塔は、早朝のすがすがしい光を浴びて、静謐で美しい佇まいを見せていた。

 早希は聞き上手で、口下手の私の要領をえない説明に適宜質問をはさんで、真剣に全体像を把握しようと努めているようだった。

 そうこうするうちに、私のつたない語りは終わりに差しかかっていった。

「そして昨日のことなんですが、私は西川君のダイレクトメッセージを十何回目かに読んだとき、忽然とある矛盾に気づいたんです。

 文面に気をとられていたとか、その文字が小さかったとか、0と8だから見分けがつきにくかったとか、そんなことを思ったりもしましたがそれは単なる言い訳にすぎません。

 人間の思い込みというのは、ほんとに恐ろしいものですね。

 いや、そんなことはどうだっていい。

 つまり、日付なんですよ。

 西川君が弥生さんに宛てたダイレクトメッセージの日付。

 その日付が私を未だに悩ませ続けている・・・

 なぜって、その日付がだったのですから・・・」


 七


 ベンチに座る私たちの前を高齢男性がジョギングで横切り、大通りに突き当たる境内の裏手へ走り去っていった。

 私の話を聞き終えた早希は、ややうつむきかげんになって目を閉じた。

 その表情から、一連の出来事をよく吟味していることがうかがわれた。

 やがてその顔を上げて、大きな瞳で私をまっすぐに見つめた。

「つまり、写真週刊誌が発売されたのは二月二十八日ですが、弥生さんが週刊誌に熱愛写真を撮られたのは、二月二十三日。

 しかし、それよりも三日前の二月二十日に、西川さんは弥生さんを告発するダイレクトメッセージを送っている。

 その矛盾が梅川さんを悩ましているというわけですね?」

「ええ、そうなんです。これは一体どういうことなのか。私には訳がわからない」

 私の声はわれ知らずやや上ずったが、早希の態度はいたって落ち着いていた。

「この矛盾を解くカギは」と早希は確信ありげに言った。「西川さんの心理です。その心理を理解することによって、その矛盾をあっさりと解明することができるのです」

 あまりにも断定的な口調に、私はいささかの反発を覚えた。

「というと、あなたにはすでに理由がわかったというんですか。

 ダイレクトメッセージの日付が写真を撮られる前だった理由が?

 まさか、日付が狂っていた、なんて言い出すつもりではないでしょうね?

 アナログ文化の昭和じゃあるまいし」

 最後の言葉は、昭和生まれの早希への当てこすりだった。

 私が悩み続けた難問を、私の話を聞いただけで解いたらしい早希へのいら立ちが、思わず私にそんな発言をさせたのだ。

「現代のスマートフォンやパソコンの時間が正確無比なのは、もちろん理解しています。

 ダイレクトメッセージの日付は正しかった。

 そのことを前提に、わたしは考えを進めていったのです。

 そうすると、こう考えざるをえない。

 西、と」

 私のいら立ちはますます募るばかりだった。

「そんなことはわかってますって。

 だけど、その告発の意味することがわからずにこんなに悩んでいるんじゃありませんか」

 早希は私の気持ちを受け流すように、穏やかにうなずいた。

「ええ、そうですよね。

 梅川さん、なぜあなたをこの問題がそれほど悩ませるのか。

 それは、あなたが弥生さんのファンであり、西川さんも七海さんも無論そうで、そういった弥生さんのファンに囲まれて活動していたことが、かえってあなたの目を曇らせてしまったのかもしれません。

 むしろ、そういった人々を知らないわたしの方が、客観的な視点で一連の出来事を捉えることができたのですね」

「どういうことです?」

「さきほども触れた西川さんの心理のことですよ。

 あなたの話を聞いて、わたしには西川さんの行動原理というものがはっきりと浮かび上がってきたのです。

 無口でおとなしく人見知りの性格で、ごくごく地味な存在。

 一方、ここに一人の女性がいる。

 学生である西川さんより少し年上の大人のお姉さん。

 イベント会場ではひと際人目を引く洗練された容姿の持ち主。

 だけど、気さくな性格でオタク気質も備えていたので、異性には奥手のタイプが多い男性陣にも安心感を与え、弥生ファンの間ではマドンナ的存在だった彼女・・・

 あなたの見たところ、最初の頃の西川さんは握手会の雰囲気にはなじめず楽しんでいる様子でもなかったのに、その後、常連さんになっていった。

 だけど、常連になっても相変わらず人見知りで、周囲のファンとも親しく接する様子はないにもかかわらず、ファン同士の集まりには必ずといってよいほど出席する。

 あなたの話を聞いて、わたしからすれば、西川さんの行動原理は明らかでしたよ。

 そんなふうに奥手の西川さんですが、西川さんほどではないにしろ口数の少ないあなたにはなぜかよく話しかけてきたという。

 そのことだって、あなたと奥様が神宮寺弥生さんのファンだったことがきっかけで結ばれたことに憧れに近い気持ちを抱いていたのだろうし、うつ病を患っているあなたから、そういった病気のある人に対しての接し方のヒントを得たいと思っていたのでしょうね。

 そう、西だったんですよ」

「そ、それって、つまり・・・」

 私のとまどいをよそに、早希ははっきりとこう告げた。

「ええ、そうなんです。

 西

 のです」

「いや、しかし、でも・・・」

「とはいえ、西川さんが弥生さんのファンだったことは間違いのないことでしょう。

 握手会に来るきっかけは弥生さんに会いたいという気持ちからでしょうし、『遠征』や『聖地巡り』や『一致活』などのオタクとしての活動も、七海さんの興味を引きたいからとはいえ、弥生さんに対する熱い気持ちがなければできないことですからね。

 そのオタクとしての活動の最たるものが、『LIVE ROOM』で百万円を投じた件ですが、これもやはり、休職中で資金が尽きたことを落胆する七海さんを喜ばせるための行動だったのでしょう。

 まあ、七海さんが彼の心を占める中心だったとすると、その周辺に位置する弥生さんへの投資額としては多額ではありますが、元々その百万円は彼の父親から送られたもので、いわゆる自腹を切ったものではありませんから、全額を使ってしまうにしても、わたしたちが考えるほどの心理的抵抗はなかったのでしょう」

 私の頭の中は混乱の極みだった。

 その混乱のままを表現したような言葉が口をついて出る。

「え、でも、え、そんな・・・

 じゃ、じゃあ、一連の出来事にはどういう説明がつくというんです?

 私にはさっぱり分からない」

「ですから、西川さんにとって七海さんの存在がとても大きいものだった以上、彼女のことをクローズアップしてみる必要があると考えたのです。

 すると、七海さんが参加した最後の握手会、二月十一日の握手会の出来事が思い浮かびました。

 あなたが七海さんにその日のハイライトについて尋ねたとき、弥生さんから『あなた嫌い、二度と来ないで、わたしの目の前に現れないで』って言われたと答えたそうですね」

「それはそうですが・・・

 しかし、さっき話しましたが、普段から弥生と七海さんは信頼関係があるゆえのきわどい冗談が言い合える仲で、仲良しの友達同士がじゃれ合っているようにみえたものです。

 それに、そう話したときの彼女の顔つきも平然としたものでしたし」

「七海さんは無理して平静を装っていたのでしょうね」

「そんな・・・ なにを根拠に・・・」

「あなた自身が話してくれたことですよ。

 二月二十三日の幕張での握手会後の集まりで、ファンの方が話していたそうじゃないですか。

 七海さんは二月十一日の握手会のときは、体調が悪く最後の部にしか参加できず、しかも時間がなくてループできなかったと。

 つまり七海さんは、その日、弥生さんとは一度しか握手をしていない。

 そして、あなたも仕事の都合で最後の部にしか参加できなかったそうですが、あなたはその弥生さんと七海さんの様子を目撃していますね?」

「ええ、いつになく二人とも真剣な表情で話をしていました。

 ということは、つまり・・・」

「そうなんです、七海さんはその日、弥生さんと一度しか握手していないということは、そのときに『あなた嫌い、二度と来ないで わたしの目の前に現れないで』と告げられたことになる。

 しかも二人はいつになく真剣な表情をしていた・・・

 つまり、弥生さんが放った言葉は、あなたが解釈したように冗談ではなかったことになるのです」

「・・・」

「そして、そんな出来事があった数日後、七海さんは自ら命を絶った・・・

 その原因は、この弥生さんの言葉にあったのではないかとわたしは思うのです」

 私にはそのときの七海の気持ちが痛いほどよくわかるのであった。

 自分を支えてくれる大好きな推しから、激しい言葉で罵倒された。

 七海にとって、絶望以外の何物でもない。

「あなたは、七海さんが自ら命を絶ったのはうつ病の悪化が原因で、生きがいでもあり心の支えでもあった弥生さんの存在ですら彼女を救うことはできなかったと考えたようですが・・・

 事実はそうではなかった。

 弥生さんという心の支えを失ってしまったからこそ、彼女は救われなかったのです」

「しかし、しかしなぜ弥生さんは七海さんに対して急にそんな発言を?

 そんなことを言う理由がないじゃないですか?」

「それもあなたのお話の中にヒントがありました。

 二月十一日の握手会後の集まりで、あなたは西川さんにもその日のハイライトについて聞いてみたところ、西川さんは『弥生さんに重大発表をしたところ、彼女はだいぶ怒っていたようです』と答えたそうですね。

 この重大発表というのが、西川さんの心の中心を占めているのは弥生さんではなく七海さんであるという告白だったのではないかと思うのです。

 そう告げられた弥生さんは、あまりいい気持ちはしなかったに違いありません。

 なにせ、アイドルという人種は、『自分のファンは自分のことをなによりも最優先に考えている』と確信していますからね。

 また、それぐらいの自信がなければ、アイドルなんて続けられません。

 だから、西川さんの発言によって、弥生さんはアイドルとしてのプライドをひどく傷つけられたのですね。

 そこで、逆恨みというか、七海さんは弥生さんの怒りのはけ口となってしまった。

 弥生さんとすれば、一時のちょっとした意地悪のつもりだったのでしょうが、弥生さんの言葉が七海さんには決定的な打撃となり、彼女を死に追いやってしまったのです。

 そして、七海さんの死により絶望の淵に立たされた西川さんもまた、自ら命を投げうった・・・

 したがって、西のです。

 あなたのお話によれば、二月十一日の握手会のとき、七海さんのすぐ後ろに並んでいたのは西川さんだった。

 だから、西川さんは弥生さんと七海さんの話を漏れ聞いたに違いありません。

 西川さんは七海さんの死を知った後、そのときのやり取りが原因であると気づいたのでしょう。

 そこで西川さんは弥生さんを告発した。

 それが、あのダイレクトメッセージだったのですね。

 ですから、のです」

 私は西川のダイレクトメッセージを暗記するほど目を通していた。

 その文面を思い浮かべてみると、たしかに早希の指摘したような趣旨の方が合っているように感じられた。

 でも、そうだとするならば・・・

「し、しかし、今までのあなたの説明どおりとするならば、弥生さんの死の理由と完全に矛盾することになりはしませんか?

 だって、熱愛の余波でファンを死なせてしまったことの償いとして命を絶つというような意味の遺書を彼女は残しているんですよ」

 すると、早希は憐れむように私を見やった。

「まだ、お分かりになりませんか?

 ですから、弥生さんは遺書でウソをついたのですよ」

「ウソを?」

「ええ、そうなんです。

 熾烈な芸能界の争いを生き抜いてきた弥生さんだって、一人の人間です。

 悪気はなかったにしろ、ちょっとした意地悪というか鬱憤晴らしをした結果、自分のことを熱烈に応援し支え続けてくれたファンを死に追いやってしまったのです。

 自責の念に苛まれ、罪の意識に耐えられず、とうとう自ら死を選ぶことを決意したのでしょう。

 だから、西のです。

 ただ、彼女は一人の人間であると同時に、プライド高きアイドルでもあった。

 このまま自害してしまえば、世間に色々と探られ、自らがファンを死に追いやったことがその原因だと知られてしまうかもしれない。

 そんな汚名を着せられるのは何としても避けたい。

 そう思っていたところへ、二月二十日に西川さんからダイレクトメッセージが届き、西川さんもまた三月五日に自害しようと決意したことを知る。

 そこで、弥生さんは西川さんの死を利用することにした・・・」

 山門の方からおだやかな風が吹いて、早希のポニーテールをふわりと揺らした。

 奇妙なことだが、私はもう、その髪型が不似合いだとは思わなくなっていた。

「そのために弥生さんに必要だったのは、西川さんが自ら命を絶つ前に週刊誌に熱愛写真を撮られることでした。

 わたしとしては、今回の一連の出来事以前に、弥生さんがお相手のボイスレッスンのトレーナーとすでに恋愛関係にあったとは思いません。

 西川さんの死を利用しようと思いついたとき、手っ取り早く写真を撮られるために身近にいたのが、そのボイスレッスンのトレーナー氏だったのでしょう。

 弥生さんの魅力を以てすれば、男性を意のままに操ることはいとも簡単なことだったに違いありません。

 さらに、週刊誌の記者に匿名で情報を流したのでしょう。

 こうして熱愛現場は目撃され、写真を撮られることとなった。

 つまり、というわけなのです。

 そのようにして弥生さんは西川さんが自害する前にあえてスキャンダルを起こし、そのことを世間に公表させることによって、『西川さんはスキャンダルによるショックで自害した』というストーリーをねつ造し、西川さんの自害の理由をすり替えてしまったのです。

 ところで、すでに死を決意していた西川さんは、弥生さんのスキャンダルについてはどう感じたのか。

 弥生さんへのダイレクトメッセージが示すように、そのころにはすでに弥生さんに対する好意は消え去っていたでしょうから、スキャンダルに対しても梅川さんや他の弥生ファンのようなショックはなかったのでしょう。

 七海さんを死に追いやったことを悔いもせず恋愛を楽しむとは大した度胸だと冷ややかな思いで眺めていたのかもしれませんし、あるいは逆に、自責の念から逃れるためにあえて恋愛に溺れざるをえなかったのだろうと多少は同情の念をもって分析していたのかもしれませんし、その辺の心情はわかりませんが、いずれにしろ、七海さんの死により絶望の淵に沈んでいた西川さんの決意は変わらなかったのです。

 弥生さんの思惑通り西川さんは自ら命を絶ったので、弥生さんも予定通りウソの遺書を書き残して自害した。

 こうして弥生さんは、『神宮寺弥生は、自身の恋愛スキャンダルの影響で死を選んだファンに対して責任を取るために自ら命を絶った』という自らが望むストーリーを完結させたのでした」


 八


 ダンスのレッスンを再開するという珠夢羅早希を残して、私は観光客の姿がちらほらと現れ始めた浅草寺を後にした。

 自宅への帰途、私の胸中に去来するものは驚きと懺悔、そして後悔であった。

 早希の語った内容はまったく思いもよらないものであったが、私の疑問を含めた一連の出来事に対する説明としては十分だった。

 だが、早希の話を聞かされる前に、七海や西川の胸の内を察してあげることができなかった自分が情けなく、二人にはどんなに謝っても謝り足りない気持ちが募った。

 にもかかわらず、いっそのこと早希の話なんか聞かなきゃよかった、という気持ちもまた同時にわき上がっていた。

 それはどうにも制御不能で率直な感情であった。

 早希に会う前は、神宮寺弥生の意図したストーリーに対し共感や感動といった情動が私の心中に芽生えていることを自覚し、またそう自覚する自分への不快感はなかった。

 なぜなら、アイドルとそのファンという他人の関係でありながら、逆説的にその一点において家族以上に深く分かちがたく結びついた特殊な関係、そしてその両者の狂的なエネルギーが織りなす愛憎劇、そういった独自の世界観にある種の美を感じ取っていたのだから。

 しかし今や、一連の出来事を通して私が感じ取っていたアイドルやそのファンの過剰なまでの純粋性という結晶は、早希の語りによって私の中であとかたもなく破壊されてしまっていた。

 早希によって暴き出されたのは、愛情や嫉妬や自己保身といった、ごくごく当たり前の人間の営みだったのだ。

 後悔先に立たず、か・・・

 私はもはや昨日までの私には戻れないのだと悟った。

 私はこの先いつまでアイドルを追いかけていくのだろう、いや追いかけることができるのだろうか。

 ふとそんな問いが心の中に立ち現れたが、今の私にその答えは見つからなかった。

(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

連鎖反応 鮎崎浪人 @ayusaki_namihito

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ