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心の音色(リアナ視点) 前編

 図書室の時計に目を向けると、16時55分を指していた。もう少しで終わってしまう。


「リアナ、どうかしたの?」


 エマにそう言われて、私は首を振る。


「ううん、何でもない」


 エマがいて、ルイスがいて。そんな風に家族以外の人と過ごせるなんて、元の国にいた頃の自分には想像も出来なかった。


 その時、17時を知らせる鐘が鳴った。私はカバンを掴んで立ち上がる。


「先帰るね。また明日」

「うん、また明日!」

「気を付けて帰ってね」


 二人に送り出されて、私は図書室を後にした。




 家に帰ると、自分の部屋よりも先に向かう場所がある。一階の一番奥の、小窓が一つあるだけの小さな部屋。その部屋の扉を開けると、すでに先生が待っていた。先生は私の姿を見て優しく微笑む。


「さて、今日も練習を始めましょうか」

「はい」


 私は棚から自分のヴァリンを取り出す。


 ヴァリンは四本の弦を持ち、弓で弾いて音を出す弦楽器だ。この国では音楽が文化に溶け込んでいて、楽器が演奏できれば必ず将来の役に立つ、とお父さんは言っていた。


「それでは昨日の続きから始めましょう」


 ヴァリンを顎と肩の間に構える。習い始めて数カ月。上達はしていると思う。でも私は自分の出す音が好きになれなかった。




 お父さんは私と同じように無愛想で無口だけど、家族思いの優しい人だ。元の国にいた時、魔法が使える私への嫌悪や軽蔑を盾になって避けてくれた。


 その後、魔法が広まっているこの国に逃げてきてから、お父さんは私に「魔法を使わないで生きるための術」を身に付けるように求めた。それがヴァリンだった。


 お母さんはお父さんを説得して、私を魔法学校に転入させてくれた。この国は元いた国とは違って、魔法を使えることが普通の世界だ。魔法学校で魔法の使い方を勉強したほうがいいに決まっている。


 それはお父さんも分かっているはずなのに魔法以外のことをやらせようとするのは、お父さんのワガママなんだってお母さんが言っていた。それは私にだって分かる。魔法によって今まで辛い思いをしてきたお父さんが私のためを想ってやっていることだって。それがこの国ではあまり意味のないことかもしれなくても。


 だから私は毎日、この習い事のために大切な図書室での時間を切り上げて家に帰る。今までたくさん苦労をしてきてくれたお父さんのワガママを聞いてあげたいから。でも、この楽器を好きになれるかはまた別の話だった。




「リアナお嬢様はヴァリンがあまりお好きではありませんか?」


 時間になって教本を片付けていると、先生が訊ねてきた。


「ええ、まあ……」

「好きではないことを練習するのはお辛くないですか?」

「でも、そうすることが家族の願いですから」

「そうですか……何かを習得するということは、他者のためだけでは苦しく辛い道のりだと思います。せめてリアナお嬢様の好きな音色を見つけることが出来たら、このヴァリンのことももう少し好きになってもらえるかもしれませんね」

「そうでしょうか」

「ええ。明日は他の奏者の演奏を録音したものを持ってまいりますから、一緒に聴いてみましょう。それではまた明日もよろしくお願いいたします」


 そう言うと、先生は深々とお辞儀をして部屋を出ていった。


「はぁ……」


 勝手にため息が出る。こんなやる気のない生徒を毎日相手にするのは、先生も少し可哀想だと思う。


 私はヴァリンを手に取った。そして構える。


 曲を演奏できるようになった。先生も上手くなったと言ってくれる。でも何かが違う。自分の音をいいと思えない。


 そう思いながら自主練習をするまでが日課になっていた。




「今日は昨日お話ししたように、他の奏者の演奏を聞いてみましょう」


 翌日、そう言って先生は練習の後に何人かの演奏を聞かせてくれた。


「いかがです? 気に入る音はありましたか」


 先生の期待するような表情に、私は顔を背けた。こういう時に上手く嘘が吐けない。


「……そうですか。ではまた、新しい奏者の音源を探して持ってまいりますね」


 そう言って微笑むと先生は帰っていった。




 ふと胸が苦しくなる時がある。どうして私はヴァリンを好きになれないのか、どうしてお父さんの期待に応えられないのか。元の国にいた頃はそんな風に苦しくなることはなかった。この国に逃げてきて、普通の生活を手に入れて、大切な人達が出来てからだ。


 前にエマ達が、私の表情がないことを生まれた環境のせいなのかと心配していたことがあった。その時は父に似たんだと話した。でもそれはやっぱり違うのかもしれないと最近思う。私は本当に何か大事な感情が抜けているのかもしれない。だからみんなの期待に応えられない。だから、エマとルイスみたいに誰かを愛することなんて出来ない……


 私は近くの椅子を引き寄せて、小窓の真下に置いた。そして棚の一番下の引き出しに隠していた靴を取り出し、それを持って椅子の上に立つ。小窓の鍵を開けると心地いい風が吹き込んだ。外へ靴を放り出し、身を乗り出して小窓をくぐり抜ける。


「ふぅ……」


 音もなく地面に着地すると放り投げた靴を履いた。部屋の外は裏庭に繋がっていて、植え込みの間を抜けていくと敷地の外に出られる。


 どうしても気持ちが沈んだときはこうしてこっそり外に出る。家族は私があの小さい窓から外へ出られるなんて誰も知らない。いつも自主練習を終える時間までに戻れば心配されることもない。


 家の敷地を出て細い路地を抜けていくと、人気のない川辺につく。ここで座って水の流れを眺めていると心が落ち着くから、外へ出た時は時間が許すまでここで過ごしている。


 でも今日は先客がいた。川岸に一人立つその男の後ろ姿は、手に何かを持っていた。そしてそれを顎と肩の間に構える。


 聞き馴染みのある楽器の音。それなのに、今まで聞いたことの無い音色。情熱的で繊細。もっと聴きたいと思うのは初めてだった。


 あっという間に一曲が終わってしまった。気が付けば息を殺していたみたいだ。その時、強い風が吹いて足元がふらついた。そのはずみで近くの石を蹴ってしまう。


 石の転がる音で男はこっちを振り向いた。

目が合う。


「あんた、誰?」

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