第5話「継接融解」

 夢の内側。

 身体の浮遊感。

 これが夢であると理解できる。


 これはあの頃だ。

 三年前の夏。

 身体を舐めるような熱さが肌を濡らす。

 呰百合さゆりが、私とお母さんを苦しめていた父親を殺してくれたあの頃の夏。


「ありがとう……呰百合さゆりちゃん」


 私は廃墟の裏庭で屈んでいる呰百合さゆりにお礼を言った。

 この時の私は、彼女と知り合いでも、ましてや友達でもない関係だから自然と「ちゃん」付けになっていた。ただ純粋に同じクラスの人を殺せる少女と偶然知ってしまっただけの間柄。


 呰百合さゆりは地面に掘った土の中で屈んでいる。掘られた穴は深い。2メートル以上は掘っていた。そこに私の父親だった死体が分割され、呰百合さゆりによって埋められていく。

 傷口の断面はとても綺麗で、死体とは思えないほどの精巧さがそこにはある。

 この時点で、呰百合さゆりへの私の評価は「人間ではない」だった。


 自分たちに暴力だけを振りかざしていたはずのその父親には憎しみ以外の感情がないはずだったのに、死体となって初めて美しいのだな、と思えた。


 虚空を見つめる父親に見られている気がした。

 微かに、父親から殴打された腹部が痛む。

 美しい亡骸の父親は土に埋められ失せていくのに、傷というよごれは消えないものだった。


 脳裏によぎのは、家でお母さんを虐める父親の背中。

 学校から帰れば、父親がお母さんに酷い言葉と暴力を浴びせている。

 気の弱いお母さんは反論する事ができない。ただ、お母さんは父親に謝る事しかできなかった。そんなお母さんを守るすべも私自身にはなくて、私も父親の暴力に逆らえないでいた。そんな記憶に吐き気が込み上げてくる。


 何より一番辛かったのは、何も悪くないお母さんが私に対して謝る事だった。

 その度に、私の中に空洞ができていくみたいに、辛くて、空っぽで————。

 父親のさびれた人生にとっての鬱憤先うっぷんさきとなった私とお母さんはまるで、まだ臍の緒で繋がった運命にあるように感じられた。生きる為の息継ぎが上手くできなくて、2人で寄り添っている。


 「ありがとうって、何が?」


 土で腕や服を汚しながら、それを気にも留めることなく、彼女は私の感謝に疑問をていしていた。穴の中で呰百合さゆりが私を見上げている。


 「何がって……殺してくれた事、だけど」


 私は怖気づきながらも、率直に言う。それ以外に感謝を述べる理由がなかったからだ。そうした私の言葉に対して疑問をていする彼女の気持ちが理解できなかった。私は殺してくれたことに心底感謝をしているのに。


 「ハッ。面白いな、お前。殺されて当然と思ってたんじゃないのか? だから私に頼んだんだろう? 普通なら料金取るところだけど、クラスメイトだしな、無料にしたけどよ、それで私に言うのが感謝かよ。全く理解できないね」


 「こいつはさあ」と彼女は土の中に埋まっていく父親の顔に脚を乗せる。


 「お前にとって蠅みたいなもんだろ? お前の精神をむしばみ、それをたくわえてえつに溺れる害虫だ。そんな虫が肌を舐めるようにってきた。殺されて当然だろう? 血を吸う蠅に『でも、私の血を吸わないとこの子が生きていけない』なんて馬鹿げた思考をする奴なんていねえだろ?

 お前には殺す気持ちがあったとしても、殺す手段と思考を持ち合わせていなかっただけだ。私は当然の事を、当然のようにやっただけ。

 蠅を殺して感謝をする奴なんていない。だから、お前の感謝の意味がわからない」


 彼女は、呆れている眼をしていた。暗がりでもわかる。彼女の瞳に色彩がない事が。彼女が犯した罪が、彼女にとってつゆ一つほどの後悔も、良心の呵責かしゃくも存在せず、あるのは壊すべき廃棄物をただ壊すだけのような、そんな作業めいたもので、彼女の言う通り至極当然の事に違いないのは理解できた。


 だからこそ、私の「感謝」に理解を示さない。いや、示せない。

 それもまた当然のことだ。私には殺意は持てても、殺害へは至れないのだから。彼女とは違う枠組みの存在なのだ、と理解する。


 「それでも」と私は笑顔になって続ける。


 多分、この時の私は生意気になっていたのかもしれない。これまで誰かに我を通すみたいな選択肢を持つことの無かった私が、――いや、持つ事を許されなかった私が、父親を殺してくれた彼女に自分の意見を出すなんて。

 彼女の言葉が、どこかいつの日か壊れてしまいそうな脆さがあったかもしれない。


 「それでもね、呰百合さゆりちゃんには感謝しないといけない……と思うんだ」


 「……なんで?」


 「だってね、やっぱり私は卑怯者だから。殺す事ができないから、殺す事のできる貴方にお願いをするの。殺意を持てても、人を殺す勇気なんてないから。でも、貴方にはきっとそれが誰よりも上手くできてしまう。当然のように。だからね、感謝をするの。呰百合さゆりちゃんにできて当然の事は、私にとって当然じゃないから。私は貴方にはなれないから、感謝をするの」


 「なんだよ、それ」


 彼女は穴から出てくる。目線が同じになった。

 ズボンに付着した土を払い落としている。

 呰百合さゆりは私を見るのを辞めてシャベルを構えた。

 掘り返した土を私の父親に被せていく。


 「……初めて言われた、そんなこと。お前、変わってるな」


 「呰百合さゆりちゃんに言われたくないかな」


 微かに、彼女が笑っている事に気が付いたのは少し後だった。


 夏の残像。

 埋葬される死。

 雲一つない夜に踊る月。


 廃墟で行われた死体処理に、鈴虫が祝福を込めて鳴いているように私は感じた。


 夢の中の視界がその時、暗転する。

 水の中に放り込まれたように、暗い底へ落下していく。


 浮遊感。泡。漂う。

 ふいに私の身体が死体のように停止する。

 横を向く。そこには何かがあるように感じたから。


 視界が微かに明瞭めいりょうさを得ていく。明るいというわけでもないが、雲の隙間から差し込む月明かりのように暗い中にあかりがあるようだった。

 そして「何か」と眼が合う。巨大な眼だ。

 私が豆粒にでもなったかのような大きな魚眼。


 ————鯨?


 間違いない、という意識すらあった。これは鯨なのだ、と。

 全体像が暗がりの中でくっきりとしていく。


 鯨の頭部付近には、表皮ひょうひがあるのにそこから尾にかけて肉も臓物も綺麗に空となって、骨が晒されている。体長の果てが見えないが、微かに尾が動いているのがわかった。無数の小さな発光した何かが、鯨の骨の隙間を縫うように蠢いている。微生物なのか、何かわからない。


 鯨は、涙を流していた。泣くことのできないはずの鯨が、人のように涙を流し、その涙は水面の天井へ上がっていく。

 泡をたて、灯へ還るようにその涙を私は見送っていた。


 空へ呑み込まれる涙。無くなっていく。何もかもが。

 まるで、魂が天へ還るようだ。


 そんな世界に私は沈んでいる。

 しかし、本当の水の中ではない。

 私が濡れている、という感覚がないのだ。

 夢の中の海に、私は沈んでいるに過ぎない。


 浮遊する私に何かが触れた。上だ。

 そこには少女がいた。鯨の涙が人の形を作り出していた。


 可憐な少女だ。はかなげで、上に向かって伸びた黒く長い髪がこの暗い夢の海の中で漂っている。年齢はいくつだろうか。中学生にも見えるし、小学校高学年とも言われても信じてしまいそうな華奢で、童顔。白いワンピースをひらひらとさせている。どこか、呰百合さゆりに似ているのは気のせいだろうか。


 ————お姉ちゃんと仲良くしてくれて、ありがとう。


 少女は笑顔でそれだけを言い残し、華奢な身体が花に変わっていく。そして、霧散した。天上へ舞い上がったのは、白百合だった。そうか、彼女が——と私は納得しながら微睡まどろみの感覚を味わう。

 鯨は鳴く。海の天蓋てんがいへ、魂たちは海の一部となって還っていく。

 そして私は眼を覚ます。海の音が、止んだ。



 朝だ。差し込む陽射しとべたつく身体の嫌悪感で目が覚める。

 身体を起こし、いつの間にか寝ていた事に驚く。

 周囲を見渡す。呰百合がいない。


 それ以前に、頭蓋骨も添えられた白百合も、何もかもなくなって味気ない廃墟になっていた。

 全てが夢で、私は幻想に向かって脚を動かしてここまで来たのだろうか、と夢遊病にさいなまれたのかもしれない、などと錯覚する。


 呰百合さゆりとの会話も、あの焚火の匂いも、夏の音色も全てが霧散してしまったような虚無感。


 と、自分の手に何かが当たる気配がした。驚いて、それをぐしゃり、と潰してしまう。はっと虚を突かれた気分になったが、安心したことにそれはペットボトルだった。潰されたからといって、簡単に元に戻るものだ。

 ペットボトルを手に取り、それが昨日呰百合さゆりの飲んでいたものだと気が付く。


 腐った水だ。よく飲んでいたな、と呆れた。中身はない。

 夢ではなかった、とこの時に安堵する。

 ペットボトルに付箋が張り付けられていた。


 そこには「ありがとな」と感謝の言葉が、呰百合の文字で刻まれている。

 文字の形すら変わっていないのか、となんだか安心というよりも心配になった。

 ぐしゃぐしゃだけど、かろうじて読める文字は綺麗とは言い難いけれど、呰百合さゆりらしさが間違いなくそこにはあって、学生の頃を思い出させる。


 「何がありがとうなのよ、呰百合さゆり


 私はゆったりとその紙を胸に引き寄せ、窓から見える空を見上げた。


 私と呰百合の待ち合わせ場所のようなこの廃墟。

 私の内側にあった昔の傷跡は完全に消えた気がした。

 まだ終わらない夏。けれど、おもいでが過ぎ去っていった気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ツギハギランデブー 柚木梯 @yu3uki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ