第5話「継接融解」
夢の内側。
身体の浮遊感。
これが夢であると理解できる。
これはあの頃だ。
三年前の夏。
身体を舐めるような熱さが肌を濡らす。
「ありがとう……
私は廃墟の裏庭で屈んでいる
この時の私は、彼女と知り合いでも、ましてや友達でもない関係だから自然と「ちゃん」付けになっていた。ただ純粋に同じクラスの人を殺せる少女と偶然知ってしまっただけの間柄。
傷口の断面はとても綺麗で、死体とは思えないほどの精巧さがそこにはある。
この時点で、
自分たちに暴力だけを振りかざしていたはずのその父親には憎しみ以外の感情がないはずだったのに、死体となって初めて美しいのだな、と思えた。
虚空を見つめる父親に見られている気がした。
微かに、父親から殴打された腹部が痛む。
美しい亡骸の父親は土に埋められ失せていくのに、傷という
脳裏に
学校から帰れば、父親がお母さんに酷い言葉と暴力を浴びせている。
気の弱いお母さんは反論する事ができない。ただ、お母さんは父親に謝る事しかできなかった。そんなお母さんを守る
何より一番辛かったのは、何も悪くないお母さんが私に対して謝る事だった。
その度に、私の中に空洞ができていくみたいに、辛くて、空っぽで————。
父親の
「ありがとうって、何が?」
土で腕や服を汚しながら、それを気にも留めることなく、彼女は私の感謝に疑問を
「何がって……殺してくれた事、だけど」
私は怖気づきながらも、率直に言う。それ以外に感謝を述べる理由がなかったからだ。そうした私の言葉に対して疑問を
「ハッ。面白いな、お前。殺されて当然と思ってたんじゃないのか? だから私に頼んだんだろう? 普通なら料金取るところだけど、クラスメイトだしな、無料にしたけどよ、それで私に言うのが感謝かよ。全く理解できないね」
「こいつはさあ」と彼女は土の中に埋まっていく父親の顔に脚を乗せる。
「お前にとって蠅みたいなもんだろ? お前の精神を
お前には殺す気持ちがあったとしても、殺す手段と思考を持ち合わせていなかっただけだ。私は当然の事を、当然のようにやっただけ。
蠅を殺して感謝をする奴なんていない。だから、お前の感謝の意味がわからない」
彼女は、呆れている眼をしていた。暗がりでもわかる。彼女の瞳に色彩がない事が。彼女が犯した罪が、彼女にとって
だからこそ、私の「感謝」に理解を示さない。いや、示せない。
それもまた当然のことだ。私には殺意は持てても、殺害へは至れないのだから。彼女とは違う枠組みの存在なのだ、と理解する。
「それでも」と私は笑顔になって続ける。
多分、この時の私は生意気になっていたのかもしれない。これまで誰かに我を通すみたいな選択肢を持つことの無かった私が、――いや、持つ事を許されなかった私が、父親を殺してくれた彼女に自分の意見を出すなんて。
彼女の言葉が、どこかいつの日か壊れてしまいそうな脆さがあったかもしれない。
「それでもね、
「……なんで?」
「だってね、やっぱり私は卑怯者だから。殺す事ができないから、殺す事のできる貴方にお願いをするの。殺意を持てても、人を殺す勇気なんてないから。でも、貴方にはきっとそれが誰よりも上手くできてしまう。当然のように。だからね、感謝をするの。
「なんだよ、それ」
彼女は穴から出てくる。目線が同じになった。
ズボンに付着した土を払い落としている。
掘り返した土を私の父親に被せていく。
「……初めて言われた、そんなこと。お前、変わってるな」
「
微かに、彼女が笑っている事に気が付いたのは少し後だった。
夏の残像。
埋葬される死。
雲一つない夜に踊る月。
廃墟で行われた死体処理に、鈴虫が祝福を込めて鳴いているように私は感じた。
夢の中の視界がその時、暗転する。
水の中に放り込まれたように、暗い底へ落下していく。
浮遊感。泡。漂う。
ふいに私の身体が死体のように停止する。
横を向く。そこには何かがあるように感じたから。
視界が微かに
そして「何か」と眼が合う。巨大な眼だ。
私が豆粒にでもなったかのような大きな魚眼。
————鯨?
間違いない、という意識すらあった。これは鯨なのだ、と。
全体像が暗がりの中でくっきりとしていく。
鯨の頭部付近には、
鯨は、涙を流していた。泣くことのできないはずの鯨が、人のように涙を流し、その涙は水面の天井へ上がっていく。
泡をたて、灯へ還るようにその涙を私は見送っていた。
空へ呑み込まれる涙。無くなっていく。何もかもが。
まるで、魂が天へ還るようだ。
そんな世界に私は沈んでいる。
しかし、本当の水の中ではない。
私が濡れている、という感覚がないのだ。
夢の中の海に、私は沈んでいるに過ぎない。
浮遊する私に何かが触れた。上だ。
そこには少女がいた。鯨の涙が人の形を作り出していた。
可憐な少女だ。
————お姉ちゃんと仲良くしてくれて、ありがとう。
少女は笑顔でそれだけを言い残し、華奢な身体が花に変わっていく。そして、霧散した。天上へ舞い上がったのは、白百合だった。そうか、彼女が——と私は納得しながら
鯨は鳴く。海の
そして私は眼を覚ます。海の音が、止んだ。
◆
朝だ。差し込む陽射しとべたつく身体の嫌悪感で目が覚める。
身体を起こし、いつの間にか寝ていた事に驚く。
周囲を見渡す。呰百合がいない。
それ以前に、頭蓋骨も添えられた白百合も、何もかもなくなって味気ない廃墟になっていた。
全てが夢で、私は幻想に向かって脚を動かしてここまで来たのだろうか、と夢遊病に
と、自分の手に何かが当たる気配がした。驚いて、それをぐしゃり、と潰してしまう。はっと虚を突かれた気分になったが、安心したことにそれはペットボトルだった。潰されたからといって、簡単に元に戻るものだ。
ペットボトルを手に取り、それが昨日
腐った水だ。よく飲んでいたな、と呆れた。中身はない。
夢ではなかった、とこの時に安堵する。
ペットボトルに付箋が張り付けられていた。
そこには「ありがとな」と感謝の言葉が、呰百合の文字で刻まれている。
文字の形すら変わっていないのか、となんだか安心というよりも心配になった。
ぐしゃぐしゃだけど、
「何がありがとうなのよ、
私はゆったりとその紙を胸に引き寄せ、窓から見える空を見上げた。
私と呰百合の待ち合わせ場所のようなこの廃墟。
私の内側にあった昔の傷跡は完全に消えた気がした。
まだ終わらない夏。けれど、
ツギハギランデブー 柚木梯 @yu3uki
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます