第3話 ギンナン・トラップ その1

 冰雨と一緒に入室した応接室で、理久は初めて間近で校長を見た。

 室内には校長だけでなく、教頭と学年主任、そして、担任、さらには進路指導担当まで集まっている。

 冰雨は応接セットで向き合う校長に分厚い資料を開いてなにか説明しているが、次々と放たれる“横文字の専門用語”と“難しい顔で頷くだけの校長の様子”から、理久は早々に“あ、こりゃ、聞くだけ無駄だわ”と判断して他人事のようにギプスで覆った左手を撫でている。

 ちなみにこのギプスは入室前に冰雨から渡されたもので、グローブのように被せているだけなので巻単に着脱できる。

 もちろん、華穂ともうひとりの少女・小雪を隠すためのものである。

 冰雨が百科事典の一冊ほどある資料をばたんと閉じると、その音に顔を上げた理久をぐいと引き寄せる。

 そして、校長以下を見渡しながら告げる。

「というわけで七尾理久くんは三年後に導入を予定しているさまざまなレベルの生徒を対象とした新教育プログラムの先行対象者に選任されましたので、これより私どもが引き取ります。以上、文科省の宇部冰雨でした。では、これにて」

 冰雨は有無を言わさず理久を促し、席を立つ。

 そして、自分たちを目で追う“ぽかん状態”の校長たちにドアの前で一礼して応接室を出ると、わけもわからず後に続くだけの理久に声を掛ける。

「教室へ鞄を取りに行ってください。その間に私は生徒玄関前へ自動車クルマ移動まわしておきますので」


「お、なんだった?」

 理久の帰還に改めてざわつく教室で、教師が好奇心丸出しのニヤケ面を向けて問い質す。

「いや、よくわかんないんですけど……。しばらくよそへ引き取られることになったんで帰ります」

 教室中の全員がさっきの校長同様にぽかんとする中、理久は鞄を肩に掛けて教室を後にする。

 生徒玄関の前にはすでに冰雨の運転するハッチバックが待っていた。

 慌てて外履きに履き替えて玄関を飛び出した理久は冰雨に手招きされるまま助手席へと乗り込む。

「お待たせしました」

 そろえたヒザに鞄を乗せて恐縮する理久の左手へ冰雨が微笑む。

「車内では外して大丈夫です」

「あ、はい」

 理久がギプスを外すと同時に――

「ぷはー」

「暑かったにゃん」

 ――姿を現した親指の華穂と人差し指のツインテール少女・小雪が両手でぱたぱたとそれぞれの顔を仰ぐ。

 その様子を見下ろす理久と“人差し指”の目が合った。

 すかさず華穂が“人差し指”にささやく。

「また言ってなかったよね。七尾理久さんだよ」

 “人差し指”が理久へと両手を伸ばす。

「小雪にゃん。宇部小雪。よろー」

 華穂以上に屈託のない表情に理久がたじろぐ。

「ああ。……よろー」

 そこへ華穂が割って入る。

「小雪ちゃんはねえ、あたしたちのナビ役でもあるんだよ。ね」

 小雪は胸を張って理久にどや顔。

「そうにゃん。ナビなのにゃん」

 そう言うとなにが楽しいのか、ふたりで声を上げて笑う。

 一方の理久はといえば、そんな“親指”と“人差し指”、そして、校内で発砲する“文科省職員”に囲まれていることで頭の混乱に拍車がかかる。

 とりあえず頭をぶんぶんと振って“この現実”からひとまず距離を置こうと窓の外へと目を向ける。

 そこで流れる“見慣れた町並み”にふと気が付いた。

「あのー」

 冰雨は理久を見ることなく問い返す。

「なんでしょう?」

「もしかして、僕の家に向かってます?」

「そうですけど。それがなにか?」

 答える冰雨に向き直る。

「いや、この時間帯ジカンじゃ家には誰もいないんですけど」

 一緒に暮らしている両親はふたりとも会社勤めなのだ。

 しかし、冰雨はこともなげに答える。

「いますよ。ちゃんとご両親の勤務先と話がついてますから」

 そう言ってにやりと笑った。

 その横顔はやはり美しかった。

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