羊のいない夜・2
「開きますけど」
「ええ!?」
ブルーベルが窓枠を押すと、鍵を外したガラスは簡単に開けることが出来た。
「そんなはずは……」
騎士カインは目を白黒させて窓辺に駆け寄ってきた。別に錆びているわけでもないから簡単に開くはずだ。
「玄関から出られるんじゃないですか」
「さっきは開かなかったんだけどな……」
大真面目な顔で首をひねっている騎士が嘘をついているとは思えないが、なにが起こっているのかもさっぱりわからない。まあ神の屋敷ならあの人の気まぐれでこういうこともあるんじゃないかと、段々常識が麻痺し始めたブルーベルは思う。
「ペネロペはわかる?」
客間から玄関ホールに出て扉に向かう騎士の背中を見送りながら問いかけると、いつもより無口な侍女は頷いて言った。
「ええ。あの方、おそらく今は出られませんよ」
「え?」
「だめだ、開かない」
「え!?」
急いで走っていき、扉の取手を両手で掴んで押し開ける。
「開くじゃないですか!」
「いや今、びくともしなかっ……一体なにが起こってるんだ……」
蒼い顔で額を押さえていたが、やがて「魔法使いの家は奇妙なことが起きるもんだな」と自分を納得させるように呟く。残念ながらブルーベルは魔法使いではないのだが、妙な家には違いない。
「開いたんですから出られますよ。どうぞ」
「そうだな……すまない、手間をかけた」
騎士は疲れた顔で玄関をくぐろうと歩き出して。
しかしすぐにバンッと音がしたと思うと、弾かれたように彼は後ろへよろめいた。
「な……!?」
確かに扉は開いていて、外には枯れた庭も見える。しかし見えない壁に拒絶されたように騎士の身体が押し返されたのをこの目で見た。
「やはりですか」遅れて歩み寄ってきたミズ・ペネロペが溜め息混じりに言うのを聞いて、剣士は軽く身構えながら向き直った。
「……あんたら、何か知ってるのか」
「鉄は異物。剣を捨てなさい。そうすればお教えしましょう」
「ちょっとペネロペ、」
「心配はいりませんよ、奥さま。客人に害を加えることはありませんからね」
ミズ・ペネロペは奥さまから信用のない視線を向けられて、つい苦笑いを浮かべる。袖から彼女の指を優しく外し、『客人』に体を向けて剣が腰から外れるのを待つ。
束の間の逡巡の末、騎士が腰から剣の帯を外してそっと床に置いたのを見届けると、恭しく礼をとって微笑みかけた。切れ長で美しい眼が、暗い玄関ホールの中に浮かび上がる妖火のようにすうっと光る。その立ち姿は幽霊然としていて、刃を向けられても動じない騎士の首筋を凍らせた。彼女は唇を開き、『それらしく』挨拶を述べ始める。
「お客人、ようこそ我が主の屋敷へ。当惑されていらっしゃるのも無理はありませんが、当館ではお帰りになる際に条件がつく場合があります」
客人は目を細めて、続きを促す。
「条件……? どのような」
ミズ・ペネロペが提示した条件は、騎士やブルーベルが予感していたような危険なものではなく、しかしそれを上回るほど奇妙であった。
「“この白樺邸から、とあるものを見つけて持ち帰ること”」
騎士は怪訝そうに目を細める。
「……とあるものって、何だ」
侍女は肩をすくめて、手元の灯火が連動して揺れる。
「それは存じません。例えば貴方にゆかりのあるものや、たまたまお目に留まった何かですとか。ご自由に探して構いません。扉が貴方を許すまで、どうぞお早くお選び下さい」
「ペネロペ! ちょっと待って」
理屈の通らない条件を出されて戸惑う客人を置いて立ち去ろうとする侍女を、ブルーベルはその袖を掴んで引き留めた。
「……これでも最大限の助力をしているのですよ。いつもなら客人に対して接触さえしないのですから」
ブルーベルの非難を先読みしてミズ・ペネロペは口を開いた。
「彼のような方は稀にいらっしゃるのです。森を彷徨って、うっかりここに辿り着いてしまう迷い人が」
半分振り返って騎士を示すように視線を向ける。
「屋敷にうさぎが迷い込んでしまうのは防ぎようがないことですし、私どもが気にすることはありません。けれど奥さま、ここは本来、人の立ち入る場所ではないのです。神の領域に入り込めば、その流動に如何とも囚われる。そうなれば神の許しを得るか、決まった抜け道を探るほかありません」
「私がここで生きるしかないように、ってこと?」
ブルーベルがあの神に逆らって生き延びる力がないように、ここに足を踏み入れてしまった者たちも元の世界に帰るためには対抗手段を持たなければならない。
裏を返せば、ブルーベルにはその手段すらないということだ。外に出れば間もなく魔の結晶によって命が枯れるのだから、抵抗しようが結果は変わらない。
早く見つけなければ。これを取り除く方法を。
ミズ・ペネロペは何も言えず、ただ微笑んだ。
「神、だって……?」
薄暗い部屋でも、客人の血の気が引いていくのが分かる。
「……踏み込んではならないところに、俺は来てしまったのか」
「ともあれ貴方はその『何か』をお探しなさい。これ以上私に出来ることはありません」
「困ったな……」
騎士は途方に暮れて頭を掻いた。ホールに取り残された姿を見捨てられなくて、ブルーベルはそっと戻って声をかける。
「怪我は大丈夫なんですか」
「ああ、元々深くはないし血は止めてあるから平気だ」
彼は率直な性分なのか、素直に脇腹に手を添えて笑顔を見せた。
「ありがとう、魔法使いのお嬢さん」
「え?」
「ずっと気遣ってくれているだろ」
突然訳のわからない屋敷に閉じ込められて。しかし彼が取り乱したのはほんの一瞬で、もう次の行動に移ろうとしている。場数を踏んだ騎士とはこうも動じないものなんだろうか。
「私、魔法使いじゃないです」
「おっと、それは失礼。普通の優しいお嬢さんだったか」
「…………」
床に寝ていた剣を拾い、玄関の壁に立て掛ける。リンゴのような灯りだけを手に掲げてブルーベルに向き直った。
「お嬢さん、もう一人で大丈夫だ。しばらく騒がせるが許してくれよ」
そう言って彼は『何か』を探しに歩き出す。
暗闇に溶けそうな背中を見失うより前に、ブルーベルの足は彼を追って床を蹴る。
「……私も手伝います」
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