羊のいない夜

羊のいない夜・1

 どこかで物音がしたのを、ブルーベルは聞いた——ような気がした。

 柱が軋んだのかもしれないし、家中の誰かが仕事をしているだけかもしれない。しかしいつもに比べても輪をかけての強い静寂は、まるで彼女を除いて全てがこの屋敷から消えてしまったかと思う程。

「誰かいる……?」

 声を掛けても誰からも返事がない。そりゃこんな広い家で、たまたまこの部屋の近くを誰かが通るなんてことはないか。そう思い直すが、とにかくその一度だけの物音が気になってしまって再び眠りにつける気がしない。ブルーベルは雑な仕草でベッドの下に手を伸ばし、靴紐を引き寄せた。

 窓の外は夜霧に包まれ、新月なのか空が曇っているのか、木々もその輪郭は薄ぼんやりとしか見えない。

 そっと扉を開けて廊下を覗いてみて、暗闇が続くだけだったので旧式のランタンを手に持って歩いてみる。慎重に足を運んでもギシギシとどうしても鳴る床を踏みしめながら壁を照らして行く。階段を下りても使用人の一人もすれ違うこともなく、いよいよもって孤独感が増してくる。

「ペネロペ?」

 小さな声で家令を呼んでみても返事はないし、聞きつけて来てくれるわけもない。寝ているのだとしたら、この僅かな胸騒ぎのために起こしてしまうことも憚られる。ちょっと見て部屋に戻るだけだ、これくらい一人で足りるだろう。どうせ風の音か何かなのだから。

 二階から玄関ホールにつながる大きな扉があって、音が響かないように通れるギリギリの隙間を開けて階段の上から様子を見る。

 壁際にあるはずののランプも点っていないので三歩先は洞窟のように真っ暗だが、階段上から見下ろせる広間には誰もいないようだった。玄関扉の隙間風が床を這い、冷たい生き物のように足元をすり抜けていく。屋敷内とはいえ、こんなに真っ暗ならそろそろ諦めて部屋へ戻ったほうがいい。

 頭ではそう思うんだけれど、自室と廊下の温度差ですっかり覚醒してしまった足はひょいひょいと階段を降りていく。今までより身体に気を遣わなくていいと思うと、これまでにないくらい身軽に動けるような気がする。

 夜とか関係ない。正直に言ってしまうと病気のことを気にせず動き回れるようになったことに関しては非常に気分がよくて、つい不要でも大きめな動作を取ってしまう。

 まだ治る兆しもないのに調子に乗ってはいけないとは思いつつ、足取り軽くもなる。

 と、一階のどこかで明確に物音がして、ブルーベルは右の廊下を振り返る。広間の両脇にはそれぞれ通路があって、右手側には客間と食堂があるはず。羊であれば問題ないのだが、あの小さな使用人たちがあんなに無粋な音を立てるとは思えない。

 侵入者?

「あの人は寝てるの……?」

 神は気付かず寝こけているのだろうか。家に誰か入って来ているのに、人間みたいに呑気だ。

「……いざとなればランタンも鈍器になる」

 自分の背中を押してランタンの柄を握りしめ、音のする方へとこっそり向かってみる。

「なん……は……出ら…………」

 手前の客間だろうか。部屋を荒らすような物音と共に切羽詰まったような声が聞こえる。卯廊の声ではないが、男の声。物盗りか何かだろうか。

 どうしよう。家主を呼ぶか、今捕まえるか。

 少しだけ様子を見ようと、ランタンを隠しながらそっと扉の隙間を覗き見る。

 見覚えのある隊服に、腰のベルトに剣を下げたシルエット。灯りも腰に下げているので姿をくっきり見ることは難しいが、彼の身分はおおよそ分かった。

「誰だ!?」

 物音も立てていないのにすぐに振り向いて、剣の柄に手を添えるのが見える。

「あ、」

 声を上げてしまって場所も知られた。このまま突進されたらひとたまりもない。しかし男はこちらの返答を待つつもりがないのかどんどん歩み寄って来て、扉に手をかけた。

「……女性……?」

 気勢がそがれたような表情でブルーベルを見下ろす長身の剣士。国家騎士の隊服は森のせいか少し汚れていて、短く整えられた髪もボサついている。怪我をしているのか返り血か、服や顔に新鮮な赤が張り付いて、直前まで誰かと戦っていた事を物語っていた。

 その風体はさながら迷子の落武者である。

「貴女は——、」

「うわっ」

 ほとんど反射だった。ブルーベルは持っていたランタンを思わず振り上げた。すると防衛本能が働いたのか、小さな結晶の刃が弾丸のように射出される。それは紙一重で男の皮膚を掠めて一直線に消えていった。

 浅い傷から血が垂れる。男の表情が警戒色へと一変する。それは普通の一般市民に向ける目ではなかった。

「魔法使いか」

 呟いた男の手元でカチッと音が聞こえた瞬間、ブルーベルは踵を返した。

「待て!」

 不必要な刺激をしてしまった。この白樺の森では増幅されてしまうらしい自分の「体質」に憤りを覚えた。なんなの、もう!

 ミズ・ペネロペの用意する服は綺麗でかわいいのだけれど、裾がひらひら長くて走り辛い。仮にスカートじゃなくても逃げ切れたようには到底思えないけれど、今までこんなに慌てて走ることなどなかったせいですぐに足がもつれる。

「ぶっ」

 べちんと壁に激突して、後ろからすぐに足音が近付いて来て。

「痛った……」

「だ、大丈夫か」

 ブルーベルが鼻を押さえてふらついているとその肩を支えてくれる手があった。見上げれば男がこちらを覗き込んでいて、毒気が抜かれたような表情に戻っていた。

「は」

「すまない。荒らすつもりはなかったんだ。聞きたいことが——」

 男はブルーベルを落ち着かせようとしているのかゆっくりと言葉を選んで言う。しかし弁明が終わらないうちに後頭部への襲撃を食らって、彼は呆気なく言葉を失った。

「奥さまを襲おうとは愚かな男ですね」

 ばったりと倒れた剣士を冷ややかに見下ろして、いつの間に来たのか女家令が立っていた。

「ペネロペ!?」名を呼ぶと視線がブルーベルに移り、瞬時に冷徹な表情が掻き消えた。

「奥さま〜! もー、ご無事ですか!」

 ミズ・ペネロペは床に沈んだ侵入者をひょいと跨いで奥方に駆け寄る。ブルーベルは状況の整理に時間がかかって、怪我の有無を確認する侍女と伸された国家騎士を見比べる。息はあるようだが、完全に気を失っている。

「……え、いま、ペネロペがやったの?」

「そうですが、そんなことよりも痛いところは? 他に触れたところなんてありませんよね?」

「…………」

 ブルーベルも言葉を失った。

 ミズ・ペネロペとは一体……。


     *


「部屋にいないと思ったら何してるんだよ」

 流石にこの騒ぎで起きてきた卯廊が寝起きの細い目で現れて言った。ミズ・ペネロペとブルーベルが椅子に座らせた侵入者の様子を一瞥した後、無言で非難するようにミズ・ペネロペに視線を寄越す。

「何じゃないですよ! 通報して下さい、早く!」

「落ち着くんだブルーベル。それは別に物盗りじゃない」

 寒そうに上衣で身を包み、低い声で嗜める。今までで一番機嫌が悪そうなのは眠いからだろうか。眠りを邪魔されるのが嫌いなのかな、とブルーベルは思ったが今は緊急時だ。

「何で分かるんですか。勝手に入って来たんですよ」

「仮に夜盗でも盗むものなんてないんだよね。……上の階にいれば安全だったものを。見に来てしまうのかきみは」

「…………」

 咎められていると分かったのは数秒経ってからだった。

「私の勝手でしょう」

「馬鹿だね。きみの身を案じたんじゃないか、ブルーベル」

 頭に置かれる手のひらをぺいっと払いのける。

「そんなことよりこの人です。通報しないならどうするんですか、結構弱ってますけど」

「ふーん」

 考えているのか興味がないのかわからないような唸り声でふらりと歩く神は、ふとブルーベルのランタンを見下ろして片眉を上げた。

「……なんです?」

「いや、早く部屋に戻りな。睡眠は大事だろ」

「ですが……」

 それはそうかもしれないけど、この騎士はどうするのだろうか。

 国家騎士とは国を守る役目を背負った武官職である。国民としてはこんな人里離れた屋敷とはいえ、責任と力ある役人の立場の人間が夜盗のような真似をしているとは考えたくない。

「これとブルーベルとは関わりないし、気にする必要はないんだぜ。朝になれば全て終わって……」

「う…………」

 うめき声と共に男が身じろぎして、少し顔を上げる。

「あ……あれ、」

 やはり怪我をしているのか顔を歪めて不安定に座らされていた椅子の上で体勢を直し、周囲を見回す。

「起きてしまいましたか」

 面倒そうに呟くミズ・ペネロペに若干の恐れを覚えつつ、ブルーベルは戸惑った顔でこちらを見上げる男に声をかける。

「あなたは何をしにこの屋敷に入ったんですか」

「先程は失礼した。俺は国家騎士団シューテンデル支署第一中隊副隊長のカイン・ペイファと申します」

 居ずまいを正して礼をする精悍な姿勢はまさに騎士である。

「実は任務の途中に森で迷ってしまって、気付いたらこの屋敷の前にいたんだ。ひとまず雨宿りだけでもさせてもらえないかと声をかけたんだが返事がなくて、空き家だと思ってしまった」

 申し訳ない、と深々頭を下げる騎士は幼い頃に見た軍隊より小さく見えたが、節度ある話し振りと仕草はその称号の印象を下げるものではなかった。

「でも声なんて聞こえなかったけど」

「この建物は声が反響しにくいのです。上の階までは届かないでしょうね」

「そんなことあるの?」

 それって防犯の観点から見たら良くないんじゃないだろうか。

「火急のことだったとはいえ、礼を欠いたことは謝罪する。奥方にも失礼をしてしまった」

「いえ奥方じゃないですし、別に何もされてないですから」ミズ・ペネロペの眼光が鋭くなったのを鎮めて訂正する。実際傷付けられたわけでもなく、ただブルーベルが逃げただけである。「それにうっかり攻撃したのは私です。すみません」

「見知らぬ男が家に入ればあれくらいしても仕方ない。刺激してしまう恐れがあるから、暴漢の対処法としては推奨できないがね」

 彼は憲兵らしく苦言を呈しながら真面目に言う。

 まともな人じゃないか……。

「ペネロペ、一晩だけでも部屋を貸して差し上げたら」

「え?」

 侍女は意外といったような顔で眉を上げる。そんな突拍子のないことは言っていないはずだけれど。しかし彼女の返事より先に、男は丁重に断った。

「いいや、迷惑になるし長居するつもりはない、すぐにお暇しよう」

「だそうですよ」と、ミズ・ペネロペに似合わず素気無く突き放した。「それに私どもが『客人』にお手伝いできることなどありません。早々にお帰りになるのがよろしいかと」

「ちょっと」

 いいんだ、と騎士が手のひらを上げてみせるのでブルーベルは一旦黙る。ミズ・ペネロペとは一度話し合わないといけない。

「すぐに帰る……と言いたいところなんだが、一つ問題があるんだ」

「そうですよ、やっぱり手当てしてからの方がいいですって」

「奥さま、」

 何かを急いでいるようだがせめて応急処置をした方がいい。道具を持って来ようと振り返った時にそういえばとようやく気付く。屋敷の主はいつからいないの?

「お嬢さん、怪我は自分で処置できるから大丈夫だ」

 あのひと、また寝に戻ったのか。

 ここの屋敷はみんなこうなのだろうか。ブルーベルには優しく振る舞うくせに、そうじゃない人間にはあからさまに冷たい。

「薄情者……」

「お二人共。大変申し訳ないのだが聞いてくれ」

 扉に向かって拳を打ち出しそうなブルーベルを呼び止めて、騎士は大きな問題を打ち明ける。

「実は出られないんだ。扉からも窓からも」

「…………」

「俺の力ではどこも開かない。閉じ込められてしまった」

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