苛立ち霧立つ・3
使用人の力を借りて屋敷に戻ると、ようやく身を起こせるまで回復した。視点も定まらない中聞こえた彼らの声の言うところには、ブルーベルは脳震盪を起こしたような状態になっていたらしい。
「すみません……」
ここでも医務室のベッドを借りることになるとは。破れて川に濡れてしまった服はいつの間にか柔らかいガウンに換えられていて、部屋の端に使用人がふたり、指示がくるのを待つように立っている。
「全部旦那さまが悪いのですから、奥さまがお気になさる必要はないのですよ」
ミズ・ペネロペは家主のいないところでさっぱりと言い捨てる。
「全部おれのせいか」
いたらしい。いつの間にか顔の白い布を付け直した家主が廊下から様子をうかがっている。しかし相手をする気がないのか侍女はブルーベルを見たまま問う。
「具合はいかがですか、奥さま。痛いところや、違和感のあるところは」
「腕に不快感が残っているくらいです」
筋肉痛のような、あるいは鱗を剥がしたような微妙な名残が肌の奥にじわじわとある。やっぱりブルーベル自身の腕から水晶が生えたことは間違いないらしい。
こういった場で正直に身体の調子を伝える癖がついている。ブルーベルは雑に腕をさすってみせた。そうすると、ミズ・ペネロペの柔らかくも冷静だった表情が安堵で崩れた。
「そうですか……良かった、本当に、大きな怪我もなくて」
手術から目覚めた時によく母親がしたように、侍女はブルーベルの肩をそっと包んで抱きしめた。
「ああ、ほんとうに、無茶しましたね。あんなところ、飛び越えられると思ったのですか」
「…………」
確かに思い返せば怪我をしに飛び込んだようにしか思えない川幅であった。怒られても文句は言えない。
「ごめんなさ、」思わず謝ろうとしたら涙が鼻頭まで出かかって、あわてて深く息を吸う。
ミズ・ペネロペの腕の中でブルーベルの青い瞳がゆらりと光ったのを、卯廊は黙って見ていた。小さなささやきが聞こえるので足元の羊を見下ろすとおろおろ佇んでいる。「奥さま」が泣いているせいか、家令が珍しく取り乱したせいか、何かするべきなのではと戸惑っているのだろう。ひょいと持ち上げて構ってやる。
「本当にすみません、服を無駄にしてしまって。あんなに綺麗な……」
「いいんですよ。あの程度でよろしければいくらでもお作りしますから」
作る、ということは、あの綺麗な服は彼女が「奥さま」のために手作りしたものだったのか。そう思うと後味が悪い。結晶が生えたせいでズタズタになってしまった。
「なんだったんですか、さっきのは」
「旦那さま」ミズ・ペネロペが伺いを立てるように主人を振り返ると、彼は抱えていた使用人を下ろす。布を後ろへ回して顔が露わになり、冷たい碧の瞳が白いまつ毛の下で悩ましげに動く。
「……ブルーベルの身体には内側を蝕む呪いが棲んでいる」
ゆったりとベッドに歩み寄り、どこにも繋がれてもいないのに佇んでいた点滴棒にそっと触れる。
「それは単に病という存在でもあるね。今はよくそう呼ばれているようだけど、医療的観点で見て仕舞えばきみの場合は不治の病を抱えていることになる。そうだよな」
言い返せなくて、ブルーベルは神を睨み返す。主治医が今の医療では完治には足りないと言うのだから、彼の言葉にも真っ向から否定はできない。
「……なぜ私の病のことなんて知っているんです」
「それは勿論おれの伴侶だからさ」
「伴侶になった覚えはないんですけど」
「体内の至る所に結晶が生まれる希少な現象。ただの医者にそれは駆逐しきれない。」
反論を素通りしたことより許せないことがあって、ブルーベルは訂正を加えた。
「ただの医者じゃありません、ネトル医師は素晴らしい人です」
「へ? ううん、そういう問題じゃない。医学だけじゃどうにもならないものだからな。それ……きみ自身は『結晶』についてどういう認識でいるんだ?」
「結晶って……極めて稀な形の腫瘍と聞いてます」
神はぶんぶんと首を振る。
「あれはきみの身体の中にあった微少な魔力粒子が結晶化したものだ。腫瘍じゃない」
「……は?」
ブルーベルに見せるように神の指が触れていた点滴棒をなぞると、砂のような白い屑がその軌跡に生まれて、パラッと消えていく。
「……魔力、粒子? でも私はあなたと違ってただの人間ですけど」
「そう。だから病というよりは体質とも言えるな。放っておいても空気と一緒に吸い込んだ魔力粒子で身体の中で結晶を作ってしまうから、癌のように溜まりに溜まって死ぬ」
「ですがさっきのは」
「あれもきみが作った結晶だよ。今までと違ったのは、ここが魔力粒子に満ちてるせいで体内に溜まってるぶんを上回って表皮上に結晶化したんだ」
なんだそれは。
「……もう少し休みましょうか、奥さま」
ブルーベルの様子をずっと見守っていたミズ・ペネロペの腕が卯廊の話を遮って、ブランケットを掛け直す。しかしその手を押し退けて、蒼白い顔をしたまま奥さまは言う。
「いいえ、もう少し聞きます」
静かなブルーの目が侍女を見上げ、邪魔をするなと訴える。
侍女が黙って引き下がると、神は片眉を上げて伺いを立てるような表情をしたがまた口を開いた。
「そうだよペネロペ。これからが大事な話なんだ、ここで区切ったら意味がない」
「ですが……いえ。申し訳ありません」
殊勝に頭を下げるミズ・ペネロペにいいよと手を振り、さてとブルーベルのベッドに腰掛ける。
「もう間も無く死ぬところだったんだよ、ブルーベル」
「…………私は死んだんですか」
「いつ死んでもおかしくなかったことは事実だ。もしかしたらきみもわかってたのかもしれないけど」
彼女の沈黙は肯定へと辿り着き、何かを言い返したそうにしていた唇を悔しそうに噛む。溜め息を吐き、神はまた妻の頬に手を添える。それは慰めか、安堵か、愛おしさなのか。触れられたブルーベルはおろか、ミズ・ペネロペにも彼の仕草から読み取れるものはない。
人の死は、必ずしも神にとってのデメリットではない。家令は憂慮を胸に押し込めてただ見守った。
「……うるさい!」
間をおかずに払いのけ、ブルーベルは神の胸倉を掴んだ。
「それでもネトルは諦めていなかったし、私も諦めてないの。 私が生きることを」
勝手にこんなところに連れてきて、人形みたいに部屋に押し込めて。一日分溜まったブルーベルの憤慨が、貧血の身体に熱を迸らせた。
「勝手に私の命の終わりを決めないで!」
「……奥さま、」
ペネロペの小さな声が医務室に落ちる。白い襟を掴んだ手が離れそうになるのを強がりが許さなくて、また力を込めた。
「お願いですから解放してください、こんなところに居られない、私は生きないと」
まだ生きないと。
諦めてなんかいない。
家族が本心では諦めていても、一緒に戦うと言ってくれた人が一人いるから。それだけで十分だ。
「ああ…………」
頭上でこぼれた吐息とも感嘆ともつかない声。
早く離せばよかったのに卯廊のシャツを掴んでいたせいで、ブルーベルの手が白い指にそっと包まれる。
「一つ、誤解を解こう。ブルーベル。きみはまだ死なないよ」
「は……?」
「本来なら死ぬのも時間の問題だっただろう。でも運の良いことにここなら進行する心配もないから余命なんて関係なくなるんだよ」
にっこりと笑う神の陰を見上げて、視界がやけにチカチカと光る。この場所に来る直前の記憶、いやに眩しかったのを思い出した。
いやいや。呆然としている場合じゃない。
「……はい!?」
「おれのとこにいればきみの時間も動かないから死なないよ」
噛み砕いていうことにはそういうことらしい。
疑うより先に希望が芽生えた。行き止まりを睨んでいたブルーベルにとって、曖昧でもそれは縋らざるを得ない光で。
「っそれ、本当なんですか」
「妻に嘘は吐かない」
飄々と澱みがない神の言葉じゃ信じるには足りないので、ミズ・ペネロペを振り返る。侍女は真率な顔で、ブルーベルに向き合って頷いた。
「はい。ここはビルケヴァルトの深奥、神の眠る迷霧の地。この館の時間は外とは全く違うのです。病の進行もほぼ止まると言って間違いないでしょう」
「…………」
「そういうことだよ」
ずるい、というか卑怯なことをする。命を助ける代わりに嫁入りしろだなんて。人の弱みにつけ込んで。
何を満足そうな顔をしているんだ、この男。
腹に据えかねていつまでも離されない手に震えが走り始める。
「……全く」
ミズ・ペネロペが見かねて立ち上がり、主人の横までくると大雑把に主人をブルーベルから引き剥がす。
「ああ」ぽいとベッドから追い出された神は気の抜ける声でパペットのように床に転げ落ちる。
「奥さま。こんなところで、誰の言うことも信じられないかもしれません。けれど私は約束します。……あなたがこのヴァルトの外へ出て、永く生きることをお望みならば。このペネロペもそれを全霊でお手伝いいたします」
胸に手を添えて美しい敬礼をして、侍女は誓約する。
神は信じられなくとも、彼女のことならとりあえず信じても良いんじゃないだろうか。
「後生ですからもう無茶な逃げ方はしないでくださいね! 本当に危なかったんですよ。」
「は、はい」
人差し指を立てて強めに釘を刺され、気圧されながらブルーベルも約束した。次に無理矢理外に出ようとすればこんなに優しく済ませてはくれないだろうという気迫が滲んでいて、これで簡単に脱走できなくなってしまった。
「主人の前で言うべきじゃないことをいっぱい言ってないか? こんなところって言わないで」
ブルーベルからは見えないベットの横の床から神の声が軽い口調で苦情を垂れる。しかしペネロペはその声の方を見下ろしただけで謝ることも助け起こすこともしないでにべもなくただ一言。
「そんなことより早くお立ちになっては」
「冷たい……」
よいしょと立ち上がる神は侍女の不敬に気を損ねた様子もなく、背を丸めて部屋の出口へ気まぐれにのそのそと歩いていく。
「あ、今日は安静にしてるんだぞ。相当な負担がかかったんだから」
「しばらくはもう逃げませんよ。失敗したので」
「もう逃げないでほしいんだよなあ」
苦笑する口元が角の向こう側にちらっと見える。と、足元の羊を一人拾うと、そのまま廊下へ出ていった。
「…………」
しかし大人しく寝るとは言っていない。このままでは腹の虫が治らないのでベッドを飛び起き、制止の手が伸びる前に部屋を飛び出した。
「待って下さい」
その背中にブルーベルの声が投げられて、糸に引かれるように神は振り返った。何故か持っていた羊をぽいと廊下に解放して、へらっと笑いかけてくる。
「ブルーベル? 寝てないとミズ・ペネロペに叱られるよ」
「治るまでです」
神が目を丸くしているうちに、ペースに巻き込まれないように大きな声で言い放つ。
「完治したら絶対に離縁してもらいますからね!」
「え〜それは困る」
「困るとかじゃないです、いずれ絶対に帰りますから」
宣言する。何もあてはないし、治らないかもしれないけれど。
でも、時間の制限は奪われた。
まだ足掻いてもいいなら。
ここで戦うことも受け入れよう、暫定として。
「私は、ここを私の終わりになんてしない」
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