苛立ち霧立つ・2

 名医マチルダ・ネトル。

 医者の少ない古町で彼女にかかったことのない町民はほとんどいない。ブルーベルもその例に漏れず、ウロウの屋敷に連れて来られるまでは頻繁にマチルダ・ネトルの診療所を訪れていた。

 いつもの安楽椅子に座ったネトル医師が、いつも通り右足を座面に乗せて、猫背で走らせていたペンをふと置いてゆっくりと切り出した。

「……ブルーベル。あなたには隠すべきじゃないと思うから言うわね」

「はい」

 ブルーベルはしかし、医師の呼吸の温度が変わったのを感じ取って居住まいを正した。一家揃ってずっと彼女の世話になってきたが、その肩口で緩く結われた栗色の髪と青空の瞳は変わらない。皺が多少深くはなったものの若々しさを保ったままでいる彼女は、ブルーベルが幼い頃から時間があまり進んでいないように見える。

「正直、状況が芳しいとはいえないわ。最近取り除いた方は落ち着いているけれど、根本の解決には至っていない。というのも」

「…………」

 足を下ろしながら指を組んで、医師はブルーベルをまっすぐに見て言った。

「この病気の大元である心臓の腫瘍が未だ除去できていないからよ。長年こんなところにいるにもかかわらず、ずっとこの種自身が心房にはあまり悪さをしていないことには運が良かったとしか言いようがないわね。けれどそれがいつ暴れ始めるか、警戒をしていても取り除けなければその時は必ずきてしまう。それなのに今の技術で心臓の手術は誰にもできないの。——わたしにも」

「……ここまで、ってこと?」

 ネトルができないと言うのなら不可能なのだろう。彼女は希望のためだけの嘘は吐かない。そういう医者だ。生まれてから二十年近くもずっと病魔と戦ってきたけれど、それが報われることはなかったのかと。

 行き止まり。

 見えていなかったようで、意識下に来るとわかっていた行き止まり。悔しい、すぐ先に待つ死が怖い、というより先にどっと疲れが出てしまう。

 患者が一人でつぶやくように道の終わりを見ていた。

「いいえ」しかし主治医はまた声をかけて。「もう打つ手はないかもしれない。けれどわたしは諦めないわ。あなたの終わりは決してここではないもの」

 最後の勇気を分けるようにその手を握り、力を込める。

「ブルーベル、あなたはここで諦めてしまうの」 


     ○


 真の「ビルケの森」と言うべき白樺の木立は、朝霧に包まれているせいで追手から逃げるには視界が悪すぎた。獣道さえなくてどこへ向かえばいいのかもわからないまま逃げ回る。パタパタと使用人たちの軽い足音を背後に聞きながら、木の根を踏み越えてブルーベルは走っていく。

 電流に貫かれたような痛みの余韻が右腕に居座っていて、先程の肌に現れた何かの結晶が夢ではないことを実感させられる。

「奥さま! おまちください!」

 小さな白い影が近付いてくるのが背後に見えた。屋敷の不思議な使用人たちだ。

「なんなの、あれ」

 ずっと怪訝に思ってはいたのだが、言及するタイミングを失ってしまった。からだは子どもの様なのにもこもこしたシルエットに違和感があるし、見ていると羊の姿が重なって見えるような。

 そう、言うならばあのようなものを妖精と呼ぶのだろう。

 可愛いのだけれど、あの姿が白い森の中を一生懸命駆けている光景は、逃げている身からすると首筋も冷える。

「奥さまー!」

 細い木や草木で彼らから身を隠しながら距離を離していく。あの神使一人一人から逃げるのはそう難しいことでは無いらしい。今振り返って見えるのは四、五人くらいだが、問題は人数が底知れないという点だ。人海戦術を駆使されれば見つかるのも時間の問題だろう。

「奥さま、お戻り下さい!」

 あの使用人たちはなぜこんなところにいるのだろうか。

 彼らがあまりに悲しそうに『奥さま』を呼ぶので、さすがのブルーベルの心も痛む。しかしいっときの情に流されて戻ってあげるわけにもいかない。神の気まぐれに付き合うほど、人生に余裕はないのだ。

 と、抉れた地面に足を踏み外しそうになって。

 どうして気付かなかったのか、目の前には行手を真横に遮る川があった。狭い川で、見下ろすと少し深いところに水が流れている。向こう岸を見ると相変わらず森ではあったが、白樺の姿はなく見慣れた黒い森が広がっていた。

 出口だ。

「これを越えれば……」

 この川を越えれば、ブルーベルの知る『ビルケの森』だ。トウヒの森の土地勘には自負心がある。いつも歩き回っているから多少手間取ってもなんとか帰れるだろう。数歩後退して、走り出そうと言う時に後ろから声が聞こえてくる。

「奥さま!?」

 ミズ・ペネロペはブルーベルが何をしようとしているのかすぐに察しがついたのか、慎重な足取りでゆっくり近付いて。

「奥さま、後生ですから」

 止めているのはわかったけれど、これ以上振り返るつもりはなかった。

「駄目っ……!」

 ミズ・ペネロペの悲鳴とともに、助走をつけたブルーベルは川岸を蹴って跳び上がる。過去一番いい幅跳びだったとは思うが、それでも川幅に足るものではなかった。半分にすら到達出来ずに飛び出した勢いは失速し、ブルーベルは川底へと吸い込まれた。

 川は浅く、落ちれば地面に激突するようなものだ。と、一瞬冷静に考える間があって、次の瞬間には川面が目の前まで迫っていた。

 

「…………っ」

 衝撃に備えるように脊髄が身体を硬くさせ、強く目を瞑る。が、想像と違った柔らかい衝撃が身体を受け止めるようにぶつかってくる。

「うわ〜っ」

 気の抜ける声の誰かと共にばしゃんと川に倒れ込んだ。

 誰か? 落ちるブルーベルを包むように受け止めた白い絨毯がその正体を語っていた。

「痛っ、たあ」

 神らしくもなくブルーベルの下敷きになるように尻餅をついた体勢のウロウがそこにいて。その腕にしっかり抱きとめられたことに気付いたブルーベルの頭の中を支配したのは「助かった」より「捕まった」という切迫感だった。

「やめて……っ、きゃあ!」

 彼の腕から抜け出そうと上衣越しに押し返した瞬間、またあの痛みが胴体から腕を駆け巡った。広範囲を刺す痛みに叫んで、再び自分の肌から結晶が生える感覚を味わう羽目になる。

 しかし先程と違い、その結晶が何かに当たったような食い込むような違和を感じて。

「……あ」

 パラパラと崩れゆく結晶が、白い上衣を貫いていたのを見てしまった。未だブルーベルと卯廊は密着している状態なのだから、上衣の向こう側には彼の体があるというのに。

 呑気な声が漏れるのを聞いた気がするが、確実にお腹に刺さっている。

「————」

 喉が凍る。川の冷たい水に足首を掴まれて、血の気が引いていく。

「あーあー……」

 しかし水のかかった顔の布をのけた当の本人の顔色は青褪めることすらなく、ただただ悲しそうに上衣の穴の調子を眺めた。いや、そんなことを気にしている場合じゃない。

「ちょっと! 止血しないと!」

「ええっ?」

 ブルーベルは慌ててその腕を無理矢理どける。彼のお腹にはやはり結晶が食い込んだのであろう深い傷があって、いや——傷というよりは、穴が。

 暗い穴があった。

「な、」

 そうか、神は血も流れないのか。自分の傷に手を添えようともしない様子が、ブルーベルの行動に理解が追いついていないきょとんとした表情が、痛みを感じていないことを顕著に物語っている。

 気味が悪い。

「ブルーベル?」

「……なんで、止めるんですか。私はただ、せめて家族に会いたいだけなのに……!」

 戸惑っていた神の目が少し細められる。

「外に行けばきみは死んでしまうだろ」

 音が止まる。

 川の温度が一瞬、何も感じられなくなる。

「…………」

「それ、」白い指先がブルーベルの心臓を示した。「はきみの身体をさんざん傷付けてきただろう」

 外から見ただけでは分からない腫瘍をなぜ知っているのか、神は指差して言う。

「結晶はきみの核に取り憑いて居座ってる。もうこれ以上の進行にきみの身体は耐えられない。命の限界が近いんだ。きみが一番わかってたことだろ。だからさ、……って大丈夫?」

「う……ぐ、うええ、」血の気が引いてみるみる蒼くなっていく彼女の肩を支えて覗き込むウロウ。ブルーベルはそれを拒む余裕もなく、胸を上下させる。

「まあその身体でいきなり晶石を抽出したんだから。是非もないか」貧血と荒い息で身体に力が入らないブルーベルの背中を冷静に撫でながら神は溜め息まじりにつぶやく。

「旦那さま!」

 頭上からミズ・ペネロペの声が降ってきて、主人に鋭く声をかける。

「早く奥さまをこちらに。そんなところにいつまでいらっしゃる気ですか!」

「おーい誰か主人の心配もしてくれよ」

「貴方は落ちたくらいじゃどうともないでしょう! 早く奥さまをこちらに渡して下さい!」

「刺さってるもん……」

「は!? なんですか!?」

「な、なんでもない」

 冷たい川に浸かったブルーベルを早く引き上げるのに集中している侍女の威圧的な声に主人の方が萎縮して、慌てて腕の中の彼女を抱き上げて使用人たちに引き渡す。

「奥さま、ブルーベルさま。わかりますか」

「う……」

「体内の血液循環が一時的に乱れたんだ」

 川から引き上げたブルーベルを剥ぎ取るような形で上衣ごと奪ったペネロペに、神は低く言う。「ただの人間が急にたくさん魔力を使ったんだし、それくらいなってもおかしくない。壊れなくて良かった」

「では……、」

 卯廊がおもむろに上衣の裾を掴んで、はたはたと遊ぶように動かすと水の重みと血の斑点が全て乾いて衣の白がじわりと戻っていく。

「いや、館で休めばよくなるよ。あとは任せた!」

「貴方という方は……」

 羊に指先で指示を出すと背中を向けて霧の中に溶けていく主人を、ペネロペは何を言う気にもなれず深く溜め息を吐いて見送った。

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