苛立ち霧立つ

 どこにいたって結果は同じだし、仕方ないか。

 ブルーベル・クルークは、そう割り切って諦めるようなたちの娘ではなかった。


「奥さま。あら、お早いお目覚めだったのですね」

 背の高い侍女が扉をノックする頃にはすでに目覚めてしまっていて、ブルーベルは覚醒しきった鋭い目で侍女を振り返った。

「いま朝食の準備をしていますから、その間に着替えてしまいましょう。」

「…………」

 昨日の祈祷堂から移って本館らしき建物の上階に、花嫁のために用意された部屋。あの男と同じ部屋なんてことにならずに済んで心底ほっとしたが、帰してもらえなかったことに変わりはなく状況は未だ芳しくない。ただ、絨毯が敷かれただけの式場もといあの祈祷堂と比べてこちらは女性が過ごすために最低限の準備がきっちりされており、その上使用人たちの世話を受けて一晩を過ごしたお蔭でブルーベルは別段不便もなく朝を迎えていた。

 侍女は『奥さま』の返事がなくても特に所作に迷いもなくこちらに近寄ってきて、手に掲げ持った衣服を差し出す。

「お気に召されると良いのですが」

 足運びには乱れがなかった彼女が少し遠慮がちに差し出すので、これはもしかしてこの侍女が選んで用意してくれたものなのだろうかとブルーベルは思った。

「あの、こだわりとかないですから」

 こんなところだ、服のセンスが合うかどうかの期待などしていない。見た感じ綺麗な布ではあるけれどここのものを何でもかんでも借りている事実に抵抗感を覚えつつ、なんでもいいですと言って仕方なく受け取った。

「そうですか……」

 彼女は昨日、この屋敷の主人と頻繁にぼそぼそ相談しあっていた傍らの女性である。長い茶髪を後頭部の高い位置でまとめ、暗い色の服をぴしっと着こなしている。他の小さな体に細い手足のついた羊のような子供のような使用人たちと違って、ここでブルーベルが唯一出会った人間だった。

 屋敷の様子を見ている限り侍女が使用人の中でも中心となっているようで、いわば女家令のような役割を担っているらしい。同じ人間がいることに関しては多少の安心材料にもなるのだが、彼女はどうしてこんなところで働いているのだろうか。

「あの、」

「とても良くお似合いですよ」

 ブルーベルの着替えを手伝って、裾をちょいちょいと直すと侍女は立ち上がる。もう一度襟の部分を気にしながらも、満足そうにそう褒めてくれた。

 もし、あの男につかまっているなら一緒に逃げないか。そう声を掛けようと口を開いたのをそれ以上言えなくなってしまった。初めて見た彼女の笑みが、そんな提案を必要としているようには到底思えなかったのだ。

「参りましょうか、奥さま。食堂までご案内します」

「案内なんてなくても昨日も行った部屋なら行けるんですが」

「いえ、旦那さまからご案内するよう命じられておりますから」

「はあ…………」

 大きな溜め息を吐いて、朝の支度を終えたブルーベルは侍女の後ろを大人しくついていく。眺めていた窓の外は相変わらず霧に包まれた木々が声をひそめる白ばかり。

 ここは世界から遠く離れた場所。

 どうやったら抜け出せるだろうか。

 食堂に入ると、テーブルについた神が上衣と顔の白布を外した状態でニコニコと待ち構えていた。

「〈卯廊〉さま、お連れしました」

「うん。ブルーベル、おいで」

 館の主は頬杖していた手を正面へ向けて彼女の席を指す。彼とは昨日の婚礼ごっこ以来だが、やはり話が通じなさそうな一方的な笑顔が少し怖い。というよりもはや鼻につく。

「今すぐ離縁してください」

 がん、と両手をついてテーブル越しに迫る。仮にも婚礼を済ませた翌日、その新妻の最初の一言とは思えないような要請。

「だめ。」

 ウロウ神は笑顔のまま歯切れよく却下する。

「せめて家に帰してください!」

「だーめ」

「もう!」

 腕を組みながら長い背もたれに寄りかかり、神は至ってのんびりと朝から憤慨する妻を眺める。

「ほら、兎に角座りなよ。珍しく料理番がきみのために朝食を作ってくれたんだぜ。食べなきゃ一日の力も出んだろ」

「……あなた、微塵も人の話に興味ないたちでしょう」

 ブルーベルの指摘を「そんなことないって」と人懐っこい笑顔で反論するが何の効果もない。

「”ここ”でも人間は空腹に陥る。夕飯も結局口をつけなかったらしいし、多少なりとも食べた方がいいぞ」

 ここと言われてもブルーベルにはこの森深い場所がどこなのか知らされていないし、だからこそ逃げ出すにも向かう方角すらもうわからなくて動けないわけだが、当たり前のように説明のないものを助言されても反抗心を煽るだけである。

「あなたたちで食べたらいいでしょう」

「ブルーベル?」

 溜め息まじりに妻を呼び、ひょいと視線をその後ろへ流した。

「失礼致します」

「えっちょっと」突然肩を掴まれて椅子に座らされ、見上げると肩に手を添えたままの侍女が微笑みをうかべた。

「大丈夫、ただの栄養たっぷりなご飯ですよ。私が保証しましょう」

「いや、そういうことじゃなくて」

「仕方ないなあ、我が花嫁は……」逃げられなさそうな笑顔に嫌な汗をかいたブルーベルを、机越しに乗り出したウロウがその頬に触れて言った。「口移しなら食べてくれるのかな? ——痛い!」

 侍女は主人の顔に残った手形を呆れた目で一瞥だけして、ブルーベルの横にそっと膝をついた。

「貴女には健康であって欲しいのです、奥さま。主をはじめ我々一同、その心に偽りはありません」

「紹介が遅れたね。彼女はミズ・ペネロペ。きみの世話をするメイドだよ」

 もう赤みがひいた自分の頬に気遣うことはなく、椅子に座り直した主人はグラスをぐるぐる回しながら侍女を指した。

「ちなみに怒らせないのが賢い。目が据わる前に言うことを聞いておくが最も安全だ」

 ミズ・ペネロペの、自分の子に言い聞かせるかのように静かで強い目。何故だか逆らえないような圧力があって、女家令の威厳を感じた。

「…………分かりましたよ……」

 このままここに居たらこうしてどんどん押し切られていくんだろうか。ブルーベルは眉間を押さえながらのろのろと食器に手を伸ばした。

「美味しい?」

 神は満足そうな様子でスプーンを咥えた矢先に問いかけてきて。彼の話し声と似たような素朴で淡白な味が喉を滑っていく。

「…………うすいです」


     ○


 食後に散歩でも行っておいでとミズ・ペネロペと共に食堂を出され、朝食をとってから何だか無口になってしまった奥方。白の使用人が数多いるこの屋敷では、それを気遣う小さな視線が八方からそっと寄せられている。

 彼女がここに連れられて来てからというもの、良くも悪くも屋敷全体が落ち着かないような空気で満ちていて、きっとそれは彼女にも伝わってしまっているのだろう。ただでさえ婚姻に対して反発しているのに、この屋敷や主人を厭うのも無理はない。

「……せっかくですから歩きましょうか。私がこの屋敷をご案内します」

 全く旦那さまは下手な紹介をしてくれたものだ。ミズ・ペネロペは胸の内で溜め息を吐いた。旦那さまがそう言ってしまっては警戒心が深まるだけだ。彼女にとって他ならぬこの屋敷の最も信用ならない、主人の発言なのだから。

 食堂を出てぐるりと回るように一階と二階をご案内し、奥さまのために整えておいた三階の部屋まで戻ってくる。気が乗らないのかととりあえず手早く済ませたのだが、ペネロペが開けた扉を通ることもなく静かに口を開いた。

「外はどうなってるんです?」

「屋敷の外ですか? 外はお庭と講堂があるだけです。あとはもう森が広がっているだけですが」

 窓の外を見下ろしてもあるものは限られている。庭などもほとんど草刈りをするのみで眺めが良いとはお世辞にも言えない。

「連れてってください」


 神使たちがわっせわっせと開けてくれた両開きの扉をくぐって玄関から外へ出ると、ただただ霧深い森と、その中にポッカリと広場があるだけ。卯廊が一つも頓着しないのでもうずっとそのままだが、気分転換をするにも向かないほど殺風景だ。

「祈祷堂は?」

「はい?」

「私が、最初に連れてこられたところです」

「ああ」ミズ・ペネロペは、講堂のことですねと手を叩いて言った。「それなら正玄関ではなくて、屋敷裏の扉から出ると真正面にございます。ここから外を回って裏庭に入るのでしたら垣根の木戸を開けて壁沿いに行くと左手に見えます」

 ミズ・ペネロペは屋敷を向かって右側を指す。そちらを見ると確かに建物の敷地を区切るための生垣とその間に木戸があるのが見えた。

「ああ……」聞いておいても特にまた訪れる予定もない。曖昧に相槌を打って、ブルーベルは玄関の反対方向へ視線を向けた。

「ここってビルケ森の奥深くでしょう。食糧や生活用品の調達はどうしてるんですか?」

「それは不定期で『行商人』が参りますので、その時に。私どもは直接街へ出向いてお買い物をするということができませんから」

 行商人。

 外部の人間が出入りするならどこかに道があるはずだ。たとえ舗装されたものじゃなくても、そこを通るのが一番外に繋がっている可能性は高い。

 石と煉瓦の仕切りがあるだけの庭の先を眺めて、道も見えずにぼうっとしていると玄関のほうでガサガサと小さな音が聞こえる。

「あら」

 ミズ・ペネロペが溜め息まじりに屈んだ視線の先に神使が一人、垣根に引っかかってもがいている。そばに居たもう一人が引っ張っているが、どこか枝と絡まってしまったのだろうか、なかなか外れない。木戸を使えないほど体が小さいわけでもないのに、なぜそんなところを通ろうとしてしまったのか。

「ううーん」

「うう、ごめんなさいペネロペ……」

「仕方ないわね、じっとしていなさい」

 ミズ・ペネロペの手を借りて神使が手足を動かしているのを一瞬はただ見ていたが、ブルーベルは今こそ好機ではと思い至った。

 衝動的に玄関の柵に足をかけ、庭に降り立つ。

「奥さま!?」

「まずい、」

 着地の瞬間、砂が擦れて音が鳴ってしまったのだ。侍女が振り返って虚をつかれた顔をしているのを見ることさえなく、ブルーベルは駆け出した。

「いけません、奥さま! あんたたち行って、お止めして!」

 ミズ・ペネロペが慌てて指示を出すと神使たちがタタタと逃げ出した花嫁を追いかける。しかし柵を軽々と飛び越えた家令の方が余程素早かった。

「奥さま、お待ちください!」

「離して……っ」

 侍女に手首を掴まれて、瞬く間に捕まってしまう。ブルーベルは手を振り払おうとして、侍女の方を振り返った。

 瞬間、掴まれた自分の腕にひび割れるような痛みが走る。

 同時に、その腕の肌から石英のような結晶体が生え出し、急速に成長した。

「きゃっ!?」

 結晶はペネロペの肩先まで伸びてきて、反射的に飛び退いた。

「大変、今のは……ああっ奥さま!」

(今のはなに……!?)

 侍女の手から解放されたブルーベルは動転しながらもまた走り出した。結晶は生えたところから風化するかのように瞬く間にばらばらと崩れ去って、元の右腕に戻る。かわりに訳のわからない状況に肌が粟立っていた。

 古い東屋を走り抜け、追いつかれそうな気配を感じつつ、ブルーベルは真っ直ぐに庭の終わりを目指す。

「ブルーベル! あまり無理は……」

 屋敷の方から男の声が空気全体に響く。見ると窓から手を離し、こちらに向かおうとしていて。走り出した足は止まらない。ウロウの言葉などは彼女の逃げ足に拍車をかけるだけであった。

 たまたま外にいた神使たち数人が正面の道で壁を作ろうとするのを突破すると、虚しくも簡単に崩れてキャー、と小さな悲鳴がいくつも上がる。

 右腕に違和感がある。いや、身体全体がなんだか重い。力がうまく入らなくなってくる。

 何……?

 、急激な不調。

 でも今捕まったら、神に背いた花嫁が怒りに触れて殺されない保証はない。もう後戻りはできない。

 ブルーベルはころげそうになりながら走って庭をようやく抜け、正面で途切れる道をそのまま真っ直ぐ飛び出して、白樺の森へと逃げ込んだ。


「奥さま……」

 ミズ・ペネロペが白樺の間に消えた彼女の影を見送って立ち尽くす。隣で聞こえてくる浅い溜め息で卯廊の到着を知る。

「旦那さま」

「ん」

「……やはり、酷なのでしょうか。こんな場所に生者を閉じ込めておくのは」

 神は頭を掻いて、侍女の言葉を噛み砕いているかのように少し唸った。

「まあねぇ……でもしょうがない。」そう、仕方がない。彼らは話し合って、それでも花嫁を迎えたのだ。

「大丈夫さ。おれもあの子に苦しみばかりを与えるつもりはないから」

 ペネロペが神を見ると、卯廊は白樺の木々をじっと見つめていた。いつも庭に出てはこうして屋敷の外を詰まらさそうに眺めていたが、その霧を映した瞳に、こんなふうに微弱にでも光が集まってくる様子を侍女は知らなかった。

「……それで、連れ戻しに行かないのですか?」

「大丈夫! 〈羊〉たちが捕まえに行ったし!」

 確かに花嫁を追いかけて神使たちが数人白樺の森へと入っていったが、神はこれで満足というようにすっきりした顔をしているのでミズ・ペネロペの感傷は吹き飛んだ。

 女家令は上衣を置いてきた出不精な主人の無防備な背中に強めの喝を入れる。

「ご自分で探してきなさい! 夫は貴方でしょ!」

「痛あ!」

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