迷霧のクリンゲル

端庫菜わか

白樺の下で婚礼

これは婚礼と呼べるのか、



 郊外ののどかな土地にある古町ビルケは白樺を借りたその名にそぐわず、入口の街道から見るとトウヒやモミがまばらに群生しているせいで黒っぽく見える。しかし町のはずれにある針葉樹の森の入り口から深くへずっと歩いてゆけば、やがて露が視界を遮る場所へ辿り着くだろう。

 そこには白樺の群生するエリアがあり、深奥にあるといわれる祠には、古い神様が鎮座するという。

 古来より人々は森の神様を祀り、彼が集落に厄災をもたらすことがないようにあらゆるものを捧げた。しかし神様は彼らからの捧げ物に満足することがなかったらしい。そしてあるとき、長年沈黙していた神はひとつ所望を口にした。


 我が伴侶となる者を一人差し出すようにと。


    *


 ギイイ、と古い金の蝶番が億劫そうな音を立てて。少し遠い扉の隙間からちらりと顔を覗かせた侍女が柔らかく笑いかける。

「花嫁さま、旦那さまがいらっしゃいましたよ」

 祈祷堂のように広い、家具すらまともに置かれていないがらんとした部屋の奥。絨毯の敷かれた上に座り、じっと待機していた小柄な花嫁は、濃淡のある深い青紫の瞳をゆったりと持ち上げる。

 しかし彼女の目には正面の大きな扉も迎えの侍女も映らなくなった。顔を上げる一瞬の間、気付けばすぐ目の前に、片膝をついた男が現れていたからだ。

「ブルーベル。我が花嫁。待たせてごめんな」

 男の顔は白い布に隠れていて、そのせいで花嫁の視界はほとんど白で埋め尽くされる。しかし男は布越しでも見えているのか息が聞こえてきそうな距離で彼女を見下ろして、優しげに言う。

「きみのような可憐な乙女に出会えて嬉しいよ」

 男は沈黙したままの花嫁に甘い声で囀って、花嫁の顎を指で優しく持ち上げる。「ああ、美しい。その名にふさわしい青の瞳、流れるような黒い髪。これこそ人間の輝きというものだよ!」

 男の背後には幾人かの使用人が付き従い、浮き足立った様子でこちらを見守っている。この屋敷に花嫁が迎え入れられることを喜んでいるのだろう。男はというと、花嫁の様子が見えているのか見えていないのか、満足そうに眺めては言葉を綴っていく。

「きみが何をしてもおれは受け入れる。きみが望むことは力の限り叶えたい。そして守ろう。——神の名にかけて」

「……あの」

 花嫁はずっと結んでいた唇を開いた。

「なんだい、花嫁」

 男をじっと見つめたまま、自分の頬に優しく触れる手をガシッと掴んで花嫁は言った。

「帰してほしいんですけど」


 それを聞いた瞬間、時が止まったように誰もが声を飲み込んだ。ガラン、と使用人の誰かがボウルのようなものを取り落とす音が虚しく沈黙に落ちる。

「ええ…………!?」

「ええ、じゃなくて」

「そんな、花嫁」

 一同は揃ってショックを受けた顔をして、口々に声を上げる。

「どうしてですか」

「はなよめ……」

「我々は貴女を待ち侘びていたというのに」

 憤慨の糸を抑えきれなかった彼女は男の手を放り捨て、自分の膝を両手でバンと叩いた。

「よく結婚なんかできると思いましたね! 無理矢理攫ってきておいて!」

 目の前の男——神はこてんと首を傾げた。


 花嫁もといブルーベル・クルークは、ビルケの町に住む十九の娘である。

 小さな町の端にはとある画家が住んでいて、半年ほど前から彼女はそこでちょっとした家事手伝いや助手のようなことをして働いていた。ただの町娘がどうしてこんな怪しい屋敷の一室にいるのかといえば、ちょうど今日、カメラを抱えてビルケの森の中を歩き回っていたせいだろう。歩き慣れた針葉樹の木々の間を進んでいたはずが、いつの間にかこの部屋で座らされ、平服姿のまま婚礼を待たされていた。

「さらう? 何を言う、紳士的に連れてきたじゃないか」

「本人の了承もない時点でそれは人攫いです」

 あの森には神が棲んでいるという言い伝えは古くから語り継がれてきた。それこそビルケが名のない小さな村落だった昔から。その姿は詳しく伝わっておらず、今では霧のようにぼんやりとしたイメージが残るのみである。

 確かにこの男の風体は人間の姿ではあるものの浮世離れしているというか、非現実的な様子ではあった。雪の絨毯と見紛うほどの分厚いマントを軽く羽織り、顔を隠した白布になめらかな白髪、耳より上の場所にはぐるりと渦をなぞるように頬の辺りまで突き出す巻き角。卵の殻のような白いその角が作り物でないのだとすれば、それだけで彼が常人とは違うことの証明になる。何より目の前にいる人間の形をしたものが超自然的な存在であること、それはブルーベルのような平凡な人間の皮膚にも伝わってくる、陶然としてしまいそうな微睡の気配が物語っている。

 彼が自分を神と言うのが正しいなら、間違いなくその名は『ウロウ』。ビルケの人々が大昔から祈りを捧げてきた、森と羊の神である。

 ブルーベルは神隠しに遭ったのだ。

 それにしたって納得しがたい。何故自分がこんなわけのわからない連中に取り囲まれて、結婚させられそうになっているのか。

「旦那さま……やはりいささか突然すぎたのでは」

「うーん、手紙とかから始めるべきだったかな」

 神は合点がいかない様子で腕を組み、そばにいる侍女とこそこそ何か話し合っている。ブルーベルは白で覆い尽くされそうな頭の中の霧を少しでもと振り払って、周囲の様子を盗み見た。部屋はやはり祈祷堂に近い構造をしているが、重々しい煉瓦の壁と天井近くの緻密なステンドグラスが構成する町のものと比べて、ここは壁の代わりに分厚いガラスと柱が外からの光を注がれるだけ内に通し入れている。ただ、ガラス壁の外を伺っても建物を囲む白樺の木立と霧のほかには何もない。

 本当に、神の居場所に招き入れられたのだ。

 部屋のたった一つの出口の前には屋敷の主人であろう神と、その後ろに控えている数人の神使らしき使用人たち。いくらこの棟が古く朽ちかけていても、あのガラスを割るほどの力はブルーベルにはない。この位置関係で不意を狙って逃げることは不可能だ。

 と、何か決まったのかぴんと人差し指を立てて神は言った。

「わかった。これから恋文でも書こう。読んだら結婚してくれる?」

「読みません」

「えー……」

 何がしたいんだ。まず仮に読んだところでそんな一足飛びに結婚なんてしない。

「……家族が待ってますし、帰らないと」

 首を傾げていた彼はああそのこと、と悩みが晴れたような声で返答をした。

「大丈夫、きみの家族にはもう伝えてあるから心配ないよ」

「は!?」

「娘と結婚するから、当分は帰ってこないぞって伝えてきたぞ」

「神とは————」

 ブルーベルは額を押さえて天井を仰ぐ。神とはこんなに身勝手なものであったか。あっけらかんと笑顔を見せる男に、ブルーベルは希望を捨てずに問いを絞り出した。

「家族は……母と父はなんて?」

「ん? 何か言ってたかな」

「一方的に結婚宣言して帰ったってこと!?」

 背筋が凍るのを感じながらブルーベルは確信した。やっぱり人間とは違う世界の者なのだ。結婚に至る順序どころか倫理観が違いすぎる。

 っていうか怖い。攫われてからこっち、今初めて会ったのにどうしてここまで準備が進んでるの?

「……あの、私の家族には何もしていませんよね……?」

「え?」

 一番悪い予想をしてしまった。この神が人間に対して何をするのか、自分の欲望のためにどこまでやるのか。しかし神は質問の意図が分かっているのかいないのか、調子を変えずに笑顔で答えた。

「勿論、ちゃんとお菓子も持って行ったんだよ」と、使用人たちに目配せをして首肯しあいながら事もなげに言う。

 家族には特に危害を加えたりしていないようだ。それだけでもわかってよかったとブルーベルは息を吐く。けれど今頃、いなくなった娘を心配しているのだろう。

「きみが会いたいならここに連れて来てもいいし、一緒に暮らすなんてことも可能ではあるよ。仕方ない」

「私だってここでは暮らしませんよ。帰るって言ってるじゃないですか」

 少し気を抜くと話が進みそうになるのですかさず反論した。頑なな抵抗は男の心を多少凹ませたのか、彼は肩を落として呟く。

「そんなに嫌か……」

「誘拐されたら誰だって嫌でしょ!」

「どうして?」

 どうしてときた。ブルーベルは会話の価値を見失いかける。

「……とにかく早く帰してください。あなたと結婚する気はありませんから」

 溜め息まじりに訴えかけると「強情だなあ」と肩を竦めた。こちらが言うべき言葉だ、それは。

「では……」

 ふと、神のすぐ近くに控えていた侍女が口を開く。

「まさかすでに、他に恋慕を寄せる相手がいらっしゃるのですか?」

「な」

 神があわてて侍女を振り返ると、彼の様子を見た部屋中の使用人たちの間にも氷のような緊張感が広がる。

「それは……いませんけど」

 侍女の突然の問いかけに戸惑ったブルーベルがうっかり正直に答えると、神と神使たちは大袈裟な仕草でホッと胸を撫で下ろした。それから彼は、口を挟んだ侍女の裾を引っ張ると花嫁から聞こえないように侍女の耳に手のひらを添え、ヒソヒソと文句をつけた。

「こら、いたらどうしてたんだ」

「事実確認は大事でしょう。お蔭で手間もひとつ減ってよかったじゃありませんか」

「ちょっと、あの」ブルーベルは内緒話の中で理不尽に話が進んでいやしないかとひやひやして口を挟んだ。「恋人がいないからって私は結婚しませんってば」

 これじゃずっと同じことの繰り返しだ。どうしたら諦めてくれるんだろうか。そう考えたのは向こうも同じだったらしく神はブルーベルに向き直り、駄目押すかのようにゆっくり手を差し出す。

「……ねえ花嫁。ここにいるべきだ。ここにいればきみは、」

「私はあなたの差し出すどれも求めてない! わたしを憐れんでここに閉じ込めようとしてるなら、あなたはあまりに勝手だわ!」

 頭のどこかで自分の主張が相手には届いていないのだという諦めが既にあったと思う。それに加えて神という自分に対して比較にもならないくらい優位な存在と交渉しなければならないと、いつもより強硬的に言葉を選んだ自覚はある。

「たとえあなたが神だとしても、私を遮るなら花嫁になんかならない。絶対に」

 けれどまさか。

「————」

 言葉の続かない白布の裾からかろうじて見える顎の輪郭を、透明な液体がなぞってぽたりと落ちる。

 ブルーベルは目の錯覚を疑った。しかし神の隣の侍女は一言。

「泣いちゃいました」

「ええ!?」


「な、泣いてない泣いてない」

 早く取り繕おうと白布の下に潜らせた手で拭う涙が、拾いきれずにぽたぽたと零れて膝に落ちていく。子供のように身を縮める神を目の前にして呆気に取られたものの、しかしブルーベルがここで譲る義理はないはずだ。

「な、泣いたってだめなものはだめですよ! 私の人生なんですから!」

「人生」

「なんでさらに泣くんです!?」

「だって」

「…………花嫁さま、」

 鼻をすする主人に代わり、見かねた使用人たちが突然両手を床について頭を下げた。そしてブルーベルに向き合って交渉を始める。

「衣食住その他奥様のご趣味の継続などでしたらご心配に及びませんよ。私どもが貴女の望みを叶えて差し上げます」

「何か不足していることがあれば我々が補います」

「ですからどうか」

「奥様になってはくれませんか」

「奥様になってください」

 そんなふうに群がられると首を縦に振らない自分が悪者であるかのように思えてくる。小さな神使たちが訴えかけるのをブルーベルは片手で顔を覆って視界から隠し、罪悪感に駆られて「わかった」とか言ってしまわないように言葉を絞り出す。

「そ……ういう事じゃないでしょう? だ、だいたい、こんな粗末でおざなりな祝言しか上げられないような男と結婚する気はありません!」


「祝言?」


 この時こう言ってしまったことを花嫁はずっと後悔することになる。しかしすでに手遅れであった。これを聞いた神の声が、泣いていたと思えないほどに部屋の中で鐘のように響いた。ブルーベルにとっては不吉な鐘だ。

「祝言…………なるほどね、こういうのが望みか?」

 『答え』を手に入れた神は自分の頭の上に両手を持ち上げ、打ち合わせる。

「…………っ!?」

 その瞬間、風が床を猫のように走り回って、ブルーベルの座る絨毯も浮かせそうな勢いで部屋中に舞い上がった。

 きゃあきゃあと小さく騒ぐ神使たちの間を縫って風がと行き交い、周囲の埃を巻き上げてキラキラと生き物のように疾っていく。ブルーベルははじめ、不自然に光る風のせいで視界が歪んだのかと思った。

 壁から天井へ、風が撫でていった場所から瞬く間に部屋中に白い花が咲く。

 いや、本物の花ではない。飾りだった。眠気に引きずられた一瞬のような間に、ブルーベルの目の前はそれは華やかで柔らかい白でいっぱいになる。部屋中が婚礼のための装飾で彩られていった。

 朽ちかけの祈祷堂が、あっという間にそれなりの婚礼場に早変わりする。


「これで結婚してくれるってことだろ?」

 

 白布が風でひっくり返り、彼の顔が顕になる。布をとって見えた顔は陶磁器の白い肌に粉雪が積もったような白髪。嵌め込まれたアイスグリーンの瞳は常人とはやはり異なった光を放っている。重ねてそれはもう求婚の成就を信じてやまない晴れやかな喜びに満ちた表情が、ブルーベルの喉を凍らせた。

「…………し、」

 かろうじて絞り出したのはもはや抵抗でも何でもなく、ブルーベルは押し切られたことを悟った。

「指摘されてから適当に付け足しただけでしょう……」

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