第2話 淡い期待

教室の喧騒に耳を傾けると、色々な話が聞こえる。その話はたいていの場合聞こえるだけであって、右耳から脳を経由せずに左耳に直送されていく。


「この前、アユカ見かけたんだよ」


だけど、興味のあるワードが聞こえた瞬間、情報のベルトコンベアは緊急停止する。


アユカという名前は私の中で少し重要な意味のある言葉だ。


私にとってほとんどの言葉が記号でしかないなかで、アユカという言葉はしっかり意味を持っているのだ。


盗み聞きはよくないが、私は学級委員なのでクラスの実情把握は業務だ。

これは不当な行為ではなく、正当な業務なので私は合法的に聞き耳を立てる。


 アユカちゃんについて話しているのは後ろの席の二人。樺沢さんと、樟さん。

 

「あの不良の子だっけ」


「そうそう」


聞き流せばよかった。クラスメイトの噂話なんかに耳を傾けたことを後悔した。そりゃそうだろう。不登校の金髪ヤンキーガールに関する噂話なんてロクなものじゃないなんてわかりきっている。


それでも私は少しアユカちゃんについてのことを知りたくて聞いてみようと思った。だけど結局、聞きたくない言葉が聞こえたから聴くのをやめた。


アユカちゃんは確かに金髪だし言葉遣いは荒いし、先生と喧嘩したけど不良ではないはずだ。


不良って言葉がかなり嫌だ。何かが良くて、何かが悪いなんて言うのは人が勝手に決めることで、私はその言葉を人に与えるのはどうかと思う。


だけれどもまあ、それを訂正しようなんて気もない。誰かがアユカちゃんのことを悪い子だと思っていてもそれはその人の問題で、私には関係ないことだ。彼女がだれに嫌われようと好かれようと私は彼女と仲良くする。アユカちゃんが仲良くしたいかどうかは別としてだ。


今日は少し足の調子が悪いから部活に出ずに帰ることにした。


いつもは家に直行するけど、今日は公園に寄ろうと思う。アユカちゃんがいる可能性は低いけど、淡い期待を抱いて向かう。


アユカちゃんは以外にも逃げ足が速くて追いつけなかった。名前を呼ばれたくらいで心が揺らいで手を放してしまうとは、我ながら情けない。今度こそ彼女の手首をがっちりと掴んで、そのまま引きずりまわしてやろうと決めた。


さあかかってこいアユカちゃんといった気持で公園の隅に来たが、やっぱりアユカちゃんは居なかった。


しかし、野生の本能を微塵も感じさせない甘い猫の声が聞こえた。


「おー、ねこ!」


警戒心のかけらもないらしく、私の足にすりすりと頭をこすりつけながら喉をゴロゴロと鳴らす。


「おー、よしよし」


猫を撫でていると、後ろからドスの利いた声で名前を呼ばれた。


「おい、餅田」


振り返ると、誰もいない……わけはなく、少し首を動かして見下ろすと、アユカちゃんが私を見上げてにらんでいた。どんなに怖い顔をしても結局見下ろす形になると全く威圧感がない。そもそもの顔がかわいいし、仕方ないかもしれないが。


「かわいい」


「は?」


「だって本当なんだもん。怖い顔してないでニコニコして?


「あのさ、本当にウザいんだけど。馬鹿にしてるの?」


眉間のしわが消え、私の瞳を捉えてにらみつけていた目が下を向く。



「周りから浮いて、学校に来ないでフラフラしてる私のことなんか、馬鹿にしてるに決まってるよね、委員長」


悲しげに言う彼女に対して、私は何も言うことができなかった。


アユカちゃんは自分自身のことを、そんな風に思っていたのか。金髪にして学校に行かないでグレるのがかっこいいとかそうではなく、社会のレールから外れた自分を悲観しているのか。金髪は似合っているし、ダメージジーンズからちらっと見える太ももはエッチだ。学校に行かないのも正直私は大した問題だと思わないが、彼女は思い詰めている。




「そんなわけないじゃん」


「もういいから」


少し語気を強めつつ、私の目の前から去ろうとした彼女の腕をつかむ。今回こそ逃がさない。


「不良を更生させようとか、思っちゃってんの?てか、離せよ」


「アユカちゃんは不良じゃないでしょ」


アユカちゃんのやっていることといえば、学校をさぼって髪を染めて、平日の昼間の公園で猫に餌をやっているということだ。


これのどこが悪いのだろう。学校に行かないのは確かにいいことではないかもしれないけど、それを責めるのは他人のするべきことではない。


「とにかく離せ!マジでいい加減にしろよお前!」


「いやいや、離さない。あなたがどんな人であっても仲良くしたいの。あなたがアユカちゃんである以上ね」


 アユカちゃんにどんなことがあったのかはよくわからない。


だけどどんなことがあろうと私には関係ないしどうでもいいことだ。


「ふざけんなっ!」


アユカちゃんが私の手を振り解くために無駄な抵抗をし、バランスを崩して倒れかける。


その大きな動きにびっくりしたのか、今まで静観していた猫が逃げ出してしまった。

餌が満杯になったお皿を置いて、去って行ってしまった。


「あ……」


私たちはすぐに猫を見失ってしまった。どうせすぐ帰ってくるだろうけど、アユカちゃんはすごくショックを受けたような顔をして立ち尽くしている。


「アユカちゃん、猫はすぐ帰ってくるよ」


「いやいや、お前ふざけんなよ。すぐ見つけないと危ないじゃん。私がびっくりさせちゃったから混乱してるだろうし……」


野良猫はたぶん人間程度には怖気づかないと思う。体格の大きい私にすら恐れることなくすり寄ってくるほど勇敢で肝が据わっているんだから、小さくて弱そうなアユカちゃん程度にビビって混乱するはずがない。


「大丈夫だよ、野良猫なんだし、どうせ戻ってくるよ。戻ってこなくてもつよくいきるさ」


「だけど、何かあったらどうするんだよ。この公園に連れ戻さないと危ないじゃんか」


この子、あの猫の飼い主でもないくせに随分とお節介だ。


「じゃあ、探しに行く?」


「お前は来なくていい。私だけでいく」


「私にも手伝わせて!体力には自信あるんだ」


「勝手にしろ」


こうして私たちは時折夜ごはんの匂いがする夜の住宅街で、猫を探す旅に出る。

私としては例の猫については全く心配していない。猫は人間が思うより賢いし身体能力も高い。放っておいても餌場に帰ってくると思う。


だけどアユカちゃんはとても焦っている。そうなってしまった原因は私にもあるし、もしも万が一猫が帰ってこなくなってしまったらアユカちゃんはこの公園に姿を現さなくなり、私は彼女に絡めなくなる。


猫を一緒に探すことで少し仲を縮められるかもしれないし、手伝わない手はない。


茜色の空は紫になり、やがて青白い月が顔を出す。


小学生の時にやらされた剣道で獲得した精神力と、部活のハンドボールで培った体力を活かす時が来た。





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