第50話 最後の事件

 月曜の定時後、謙太は朱里にSMSを送った。

 本当は電話をかけようとしたのだが、妙に意識してしまってかけられなかったのだ。


(いい年して中学生かよ……。

 でもKENが亡くなったことは多分、警察で事情聴取の時に聞かされてるだろうし、そうでなくてもネットではニュースも噂も出回り始めてる。

 かなりのショックを受けてるのは間違いないよな……)


 それなのに何事もなかったかのように「シャーロック・ホームズの映画の話をしませんか」などと誘うのは、さすがに無神経すぎる――その思いが、謙太に二の足を踏ませたのだ。


 KENがどこかの金満女性の愛人になったという駿たちの嘘を信じていた時には、なるべく早く真実を教えてあげたほうが朱里の為だと謙太は考えていた。

 が、朱里にも謙太にも予想すらできなかった理由でKENが死んでいたことがはっきりした今、朱里が自分に会う意味があるとは思えない。


 それでも謙太がメッセージを送ったのは、土曜の別れ際に月曜以降に連絡すると約束したのだから、その約束は果たすべきだという義務感――という名の口実――からだった。


――あの後、大丈夫でしたか?

 ショックを受けておられることと、お察しいたします。

 もしよろしければ、落ち着かれた後にでもお話できれば幸いです。

 日時と場所はそちらのご都合に合わせます。


 何度か打ち直し、素っ気なくも馴れ馴れしくもならないよう、気を付けた。

 だが文面をどう練り直そうと、そもそも朱里が自分に会いたがる理由がないと思うと、送信するのが躊躇われる。


(ああもう俺、ウジウジするな。

 電話でなくSMSなんだから、相手にその気がなければ断りやすいし何なら無視でも構わない。

 本当に嫌なら電話だって着拒にするだろうし、取りあえず1回メッセージ送るくらいなら、そこまで迷惑でもないだろう)


 悩んだ末に謙太はSMSを送った。

 そして、日付が変わる頃まで待った。


 返信はなかった。



 火曜は不倫調査のためにふたりペアのチームで対象を尾行していたので、夜遅くなるまで他のことを考える余裕はなかった。

 尾行者がふたりだけだと途中で着替え、服だけでなく靴も鞄も小物類まですっかり趣味の違うものにして雰囲気を変え、対象に気づかれないようにしなければならない。


 そしてその全てを持ち歩いたら結構な大荷物になって目立ってしまうので、あちこちのロッカーに預けるなど工夫が必要だ。

 もっと人手を割ければそんな苦労はいらないのにとぼやく調査員もいるが、変装しながらの尾行・張り込みはいかにも「探偵らしい」気がして、謙太は好きだった。


 水・木はそれぞれ別のチームの応援要員で雑用をこなし、手が空くたびにSMSをチェックした。

 そしてその度に軽い失望を味わい、徐々に期待することに疲れるようになった。それで木曜は久保に誘われるまま飲みに行き、終電近くまで愚痴に付き合った。



 待望の返信が来たのは、金曜の朝だった。


――返信が遅くなり、誠に申し訳ございません。

 その節は新里さんに色々とお世話になり、ありがとうございました。

 明日土曜、10時でご都合がよろしければ以下のURLのカフェでお待ちしております。

 別の場所や時間のほうがよろしければ、その旨お知らせ頂けますと幸いです。


 まるでビジネス文書のようだと謙太は思ったが、自分が送ったSMSも似たようなものだ、と思い直す。

 すぐに、その日時と場所で差し支えないと、用件のみの短文で返信した。時間をかけて文章を練るより、間をおかずに返すほうが大事だと判断したのだ。

 だが、すぐに素っ気なさすぎたと後悔し、自分の優柔不断さに呆れた。


***


 朱里が指定したのは、朱里の勤務先からさほど遠くない所にあるこじんまりした喫茶店だった。

 謙太が着いたのは10時10分前だったが、朱里は先に来ていて奥の席に座っていた。


 白いブラウスのボタンを襟元まできっちり留め、茶色のカーディガンに、ふくらはぎの半ばまで隠れる丈のグレーのスカート。

 先週の水曜に、初めて会った時と同じ服装だ。


 あの時、謙太は地味だとしか思わなかったが、今は清楚で落ち着いていて、朱里の雰囲気によく合っていると感じる。

 謙太は笑顔になりかけたが、朱里の深刻な表情を見て、すぐに真顔に戻した。

 自分が、恋人を亡くしたばかりの女性に言い寄ろうとしている軽薄な男になったような気がして、何となく後ろめたさを感じたのだ。


(会ってくれたのはいいけど、さすがに今日は映画の話なんかできないよな……。

 でもKENに関する話だと、どうしたって彼女に辛い想いをさせるだけだし……)


 悩みながら謙太がテーブルに歩み寄ると、朱里はいきなり席を立ち、深々と頭を下げた。


「ずっと嘘をついてしまっていました。申し訳ありません」

「あの……どうか、頭を――」

「私がKENの婚約者だという話は嘘です。

 それなのに新里さんの貴重なお時間を何日も無駄にさせてしまい、お詫びの言葉もありません」


 店員の視線を背後に感じ、謙太はやや焦った。


「そのことでしたら、おおよその事情は把握していますから、どうか……」


 小声で謙太が言うと、朱里は頭を上げて相手を見た。

 やや、意外そうな表情だ。


「その話をするのは辛いでしょうから、無理しなくても大丈夫ですよ」


 微笑を浮かべ、謙太は言って席に着いた。店員が水とメニューを持ってきたので、コーヒーを注文する。

 朱里も椅子に座り、改めて謙太を見た。


「あの……全部嘘だって、分かってらっしゃったんですか?」

「分かっていたというより、大体の見当がついていた……と言ったほうが正しいですかね」


 朱里は、どことなく諦めたような表情で目を伏せた。

 前回、会った時とは違って、目の下にクマはないし、顔色もそう悪くない。

 どうやら、ずっと泣き暮らしていたわけではなさそうだと見てとって、謙太は幾分ほっとした。


「さすがは探偵さんですね……。最初からずっと、私の言っていたことが全て嘘だと見抜いて……」


(全て、嘘?

 いや……最初は確かに婚約者なんてストーカーの妄想だと思ってたけど、両親の離婚の話だとか父親に邪険にされた話だとか、多少なりとも親しい関係になってなければ知らないような話を知っていたんだから……)


 両親の離婚はもちろん、父親の冷淡な態度についても蒼司から聞いたのだから、間違いなく事実だと、謙太は思った。


「全て私の妄言だと分かっていたのに、何日もずっと話を聞いて下さって、ありがとうございました」

 改めて、朱里は座ったまま頭を下げた。


「え……と、事情は把握しているつもりでしたが、自信がなくなってきました。

 少し認識に相違がある気がしますので、もしよろしければ、差支えのない範囲でお話いただければ……」


 正直に、謙太は言った。

 朱里は顔を上げ、謙太の目をじっと見つめる。

 それから、口を開いた。


「鈴木健太君と中学の同級生だったこと、≪ブリリアント・ノイズ≫のファンだったことは本当です。

 でもKENのことを誰よりもよく知っていただとか、ましてや婚約者だなどというのは全て私の妄想で、ふたりきりで会ったことすらありません」


「えっ……じゃあ、結婚を餌にKENに騙されてたわけじゃ…………」


 思わず謙太が口走ると、朱里はゆっくり首を横に振り、恥じるように視線を落とした。


「それを聞いて、安心しました」


 私になんか、騙す価値もない――そう朱里が言いかけた時、明るい口調で謙太は言った。

 訳が分からず、朱里は戸惑う眼差しを相手に向ける。


「いや俺、てっきり朱里さんがKENに騙されて毒牙にかかったものと思って心配してたんで――」


 途中で言い過ぎたと思い、謙太は口を噤んだ。

 そして、神妙な表情を浮かべる。


「すみません、軽口を叩いてしまって……。

 特別な関係でなくても朱里さんがKENのファンだったのは事実だし、麻薬密売は許されることじゃないけど、亡くなった人のことを悪く言うものじゃないですよね」


 謙太はそう言って謝ったが、朱里が困惑気な表情をしているので、まだ何か誤解があるのだろうかとやや不安になる。


「あの、朱里さんも警察の事情聴取を受けたと聞いていますが、まさか薬物のことをご存じないとか……」

「いえ、その話は警察署で聞かされました。

 ≪ブリリアント・ノイズ≫のファンの間にも違法薬物が出回っていたそうなので、私も潔白を証明するために自主的に検査を受けますと申し出たのですが、顧客リストにも載っていないし、そこまでは必要ない……と」


 それを聞いて、謙太は安堵の溜め息を漏らした。


 その謙太の様子を見て、朱里はますます申し訳ない気持ちになった。

 そして、本当に優しい人なのだと、改めて思う。


 大概の男なら、自分のようなつまらない女が華やかなボーカリストの婚約者だなどと言っても信じずむしろ嘲笑うだろうし、騙されたのではないかと心配するどころか、騙す価値もないと考えるに違いない。

 少しでも長く謙太の優しさに接していたくて、次から次へと嘘を重ねてしまった。

 古い映画の話ではシャーロック・ホームズの映画に興味があるようなので、そこだけは少しでも役に立てたようで嬉しかった。


 だが基本的には、謙太の優しさに甘えて彼の時間を浪費させてしまっただけだ。

 謙太が自分に優しく接してくれればくれる程、罪悪感が募る。

 KENが自分の婚約者だという空想を信じることが難しくなって中学2年の頃の辛い夢をよく見ていたのは、そんな自分に対する罰なのかもしれない――。


 

 朱里が俯いて黙り込んでしまったので、謙太は戸惑った。


 自分の朱里への気持ちが同情でもノスタルジーでもないことは、今はもうはっきり自覚している。

 だが、朱里の気持ちはどうなのだ? 

 そう考えて、謙太は不安になった。

 今日、朱里が謙太に会うことにしたのは嘘をついていたことへの謝罪が目的だ。であれば、もうこれで会う理由はなくなってしまう。


「あの……今はまだ朱里さんの気持ちが落ち着いていないでしょうから今日でなくていいんですけど、もしよければ、いつか『His Last Case』の話をもう少しできたらいいな……なんて」


 どうにかまた朱里と会う口実を作ろうとして言った謙太の言葉に、朱里は顔を上げた。


 これでまだ謙太に話を聞いてもらえる、謙太が好きなシャーロック・ホームズの映画の話なら、しかも日本未公開でめったに見られない貴重な映画の話なのだから、自分が話すことで喜んでもらえると思うと嬉しかった。

 バックマスキングでKENが最後の歌詞にメッセージを隠したという話は自分の捏造だし、映画のセリフとの関連などこじつけに過ぎなかった。

 だが、翻訳アプリを頼りに何日もかけて『His Last Case』を鑑賞したのは本当だし、映画のシーンやセリフについては、他の映画も含めてひとつも嘘をついていない。


「いえ、私は今日でも全く大丈夫です。

 行方不明でどうなっているのか分からなかった時は確かにすごく心配してましたけど、あんな結末になってしまったとは言え、全てがはっきりしてかえって気持ちが落ち着きました」


 そう言って、朱里は微かにほほ笑んだ。


「それは良かった。今日は顔色も良いようですしね――あ……すいません。また、女性に余計なことを……」


 朱里が笑顔を見せたので、謙太も微笑して言った。


 深い仲ではなかったにしても自分を婚約者だと思い込むほどにKENを愛していたなら、その死の痛手は浅くないだろうと謙太は思っていたが、前に会った時より顔色が良いのは確かだ。

 特別に親密でなかったなら一般のファンが知らないようなことまで知っていたのが何故なのかは分からないが、今はそんなことは謙太にはどうでもよかった。


「今日は何も用意していないので細かい台詞までは分かりませんが――あ……そうか。先週の土曜にお会いした時、映画の話をしたいっておっしゃってましたよね?

 すみません。当然、用意しておくべきでした」


「そんな、謝ったりしないで下さい。

 確かに映画の話はしたいですけど、今日は朱里さんの様子が気になったから、ちょっと顔を見たかっただけなので……」


 朱里は、再びまっすぐに謙太を見つめた。


(本当に、どこまで優しい人なんだろう。

 きっと、誰にでも優しくできる人なのだ。

 そうでなければ…………)


「あらすじは大体、分かっているので、朱里さんの感想から聞きたいです」


 コーヒーをふた口ほど飲んでから、明るい口調で謙太は言った。

 今まではあくまで失踪調査の為だったし、朱里がKENの身を案じているのに自分が夢中になってホームズについて語ったのは無神経だったと反省しているが、今日は調査と無関係だし、朱里の今の様子なら大丈夫そうだと判断したからだ。


「そうですね……。大使館内部の家具や調度品などの小物がすごく素敵で何度も停止して見直してしまうほど印象的でしたが、映画のストーリーそのものについては……」


 途中で、朱里は一旦、言葉を切った。


「ワトスンがホームズの代わりに探偵役を務めたんですけど、何故わざわざそんな設定にしたのか分かりませんでした。

 実はワトスンとレストレードのふたりがホームズの思い出話を始めるまで、あれがホームズの映画だと思っていなくて……」


 タイトルは『His Last Case』で日本未公開なのだから、『シャーロック・ホームズ 最後の事件』のような邦題がついていたわけではないし、インターネットに上がっていた映像を見ただけだから予告編や宣伝は見ていなかっただろう。

 フォン・ボルクやアルタモンタの名だけで何の話か分かる程コアなシャーロック・ホームズのファンでもなければ、ホームズの名前が出るまで何の映画か分からなくて当然だと、謙太は思った。


「じゃあ、俺が見たシャーロッキアンのブログとほぼ一緒の感想ですね。『ワトスンは一部のパスティーシュで滑稽な愚者として描かれてしまうことがあるので、ワトスンをホームズの代わりに活躍させることでワトスンが愚か者などではないことを表現しようとしたのかもしれないが、ワトスンにはワトスンの良さがある。なにも、ホームズの真似事をさせる必要などなかった』……って」


 謙太の言葉に、朱里は頷いた。

 それから、口を開く。


「最初は私もそう思っていたのですが、改めて見直しているうちに、それがあの作品のテーマなのではないかと、考えるようになりました」

「それがテーマって、どういう……」


 意味が分からず聞いた謙太に、朱里は微笑する。


「ホームズがいくら優れていて他に並ぶ者のいない程の名探偵であっても、ワトスンにはワトスンの良さがあるのだから、ホームズのような名探偵であろうとする必要はない――映画の中ではワトスンは見事に名探偵ぶりを発揮したのだから、逆説的ではありますが」


「なるほど……。深いですね」


 あまり考えもせず謙太は言ったが、何となくが気になった。


「ラスト近くまで何の映画か分からなかったのに、翻訳アプリを使ってまで見ようとしたのはどうしてですか?

 KENに勧められたからでしたっけ?」


 言ってから、謙太は「しまった」と思った。

 KENの婚約者だというのは自分の嘘でふたりきりで会ったことすらないと、たったいま朱里の口から聞いたばかりだ。

 つまり、KENと同じ映画を見たという話も嘘ということになるが、ではなぜKENの両親の離婚にまつわる話を知っていたのかという疑問が湧く。


(会ったことはないけど、DMかメールを送り合ったのは事実だったんだろうか。

 中学時代の同級生として、たわいもないやり取りをしただけ?

 そんなやり取りの中で両親の離婚や父親の冷酷な態度なんて、そこまでプライベートで言いにくい話が出たんだろうか……?)


 謙太が内心で考えを巡らせていた間、朱里も悩んでいた。


 古い映画を無料で見る機会があったので飛びついたのだが、わざわざ翻訳アプリに頼ってまで見るのに手間のかかる映画を見たのは、何かに没頭して現実を忘れたかったからだ。

 そうやって現実から目を背けていれば、KENから愛されているという妄想が壊れずに済む。

 その嘘はもう告白したのだから、そう言って説明すれば納得してくれるだろう。


 それでも、その説明はまだ全てを語っていない。


(もうこの人には、一切なにも隠したくない…………)


 朱里は暫く黙って俯いていたが、やがてスマホを操作して、ある写真を謙太に見せた。

 そこには、息を呑むほど美しい女性が写っていた。


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