第47話 告白
――一体、いつまで
そう問う自分に、もうひとりの自分は答えられない。
辛い記憶や厭な思い出から目を背け、考えないようにすることが根本的な解決にならないのはもう分かっているのに、過去を幸せな空想で塗りつぶすことで、再び現実から逃げてしまった。
考えないようにすればする程そのことを意識して考えずにいられなくなってしまうので、単に忘れようとするやり方は全くうまくいかなかった。
が、自分に都合よく解釈して記憶を塗りつぶすのは、思ったよりうまく作用したのだ。
――KENがあの日、私を覚えていないフリをしたのは、周りにいた他のファンに気を遣っただけ。
――KENは私が勧めた古い映画を熱心に見てくれて、感想のやり取りをして楽しかった。
――私の存在を他のメンバーやプロダクションに秘密にしているのは、大事なメジャーデビューを控えているから。
――心の優しいKENは、お母さんが突然自分を置いて出ていってしまったせいで傷ついている。
少し女性に対して奔放な面があるように見えるけど、それはお母さんの失踪が原因の女性不信のせいであって、真実の愛があれば癒してあげられる…………。
≪ブリリアント・ノイズ≫のファンだという思い込みを続けるうちに、≪ブリリアント・ノイズ≫の音楽が本当に好きになった。
だから何の予告もなくライブが中止になり、SNSへの書き込みも止まったあの日、本当に心配で全く眠れなかった。
昔読んだ少女漫画でヒロインの恋人が交通事故に遭い、最愛の人の身に何が起きたのか知るまでの間、彼女は悶々として眠れぬ夜を過ごした。
その姿に、心配で眠れない自分を重ねるのは容易だった。
恋人は帰らぬ人となって、ヒロインは悲劇のヒロインとなった。
恋人の死というのは、悪くない結末だ。
彼が死んでしまえば、自分が彼から愛されているという欺瞞が、暴かれてしまう恐れもなくなるのだから。
(あの人との出会いは、全くの想定外だった)
正確に言えば、プロダクションがKENの身に起きた異変について調べるだろうところまでは想定どおりだったし、だからこそノース・エンタープライズの入っているビルで2日も張り込んだのだ。
想定外だったのは、KENの熱心なファンとだけ名乗るつもりだったのに、婚約者だと口走ってしまったこと。
そしてもっと意外だったのは、KENの婚約者だという自分の言葉が、否定されなかったことだ。
姉の美羽と比べものにならないのは勿論、一般的な基準で言っても自分の容姿がかなり地味でKENの婚約者として全く釣り合わないことは、自分の中の冷静な部分がはっきり認識していた。
だから婚約者などという言葉が口をついて出た瞬間、「失敗した」と思った。
これまでどうにか持ちこたえていた幸せな空想が、この場で粉々に打ち砕かれてしまうのだ……と。
(それなのにあの人は私の言葉を否定せず、冷笑することも、嘲りの言葉をこれ聞きよがしに呟いたりもしなかった…………)
無論、仕事だから仕方なく信憑性の低い怪しい話にも耳を傾けてくれているだけだと、そう判断する位の冷静さはある。
だが、3日連続で会って話を聞いてもらううちに、常に誠実な態度と穏やかな笑顔で接し、こちらの気持ちに配慮しようとしてくれる謙太と過ごす時間が、とても貴重なものになっていた。
また会って話を聞いてもらいたくて、知恵を絞ってKENの失踪原因を探る様々な仮説を立てた。
欺瞞に気づかれまいとして、記憶を「幸せな空想」で塗り替えて自分自身に信じ込ませようとした。
悲劇のヒロインになりきり過ぎて、カフェで泣き出してしまいすらした。
だが、気持ちが落ち着くまで20分も化粧室に籠ってしまったのは、思い込みが過ぎたせいではなかった。
いくら自分を騙そうとしても、心の底から信じていたわけではない。
いつから、そしてどこまでそうやって自らを欺いていたのかは定かでないが、それが自分の心を護るための方便で、誰にも迷惑をかけない範囲でのみ許されるまやかしだと分かっていた。
(それなのに、誠実で優しいあの人を巻き込んで騙してしまっている…………)
そんな自分が許せなくてすぐにでも真実を打ち明けるべきだと考える一方、その結果、向けられるであろう侮蔑や憤りに耐えられそうにないという恐れで、足の
今日は本当なら全てを打ち明けて謝罪する予定だったのに、睡眠不足が続いて疲労で
そして、睡眠不足が続いているのは、夜勤のせいばかりではなかった。
現実を直視できないのに空想を信じることまで難しくなってしまったのか、中学2年の頃の辛い夢をよく見るようになっていたのだ。
***
「≪インフィニティ・サン≫って、朝陽という意味があるんですか?」
中座し、15分ほどして席に戻った朱里に、謙太はそう聞いた。
ただのトイレにしては長いので、また昨日のように個室に籠って泣いていたのだろうと思ったが、下手な慰めの言葉は
朱里を待つ間にインフィニティの意味を調べたが無限大としか出てこず、朝陽との繋がりが分からない。
「あ……実は昨日の日勤と夜勤の引継ぎの時、≪インフィニティ・サン≫のファンの同僚から聞いた話なんですけど、≪インフィニティ・サン≫は、もともと≪ライジング・サン≫という名前だったそうです」
今度こそ本当のことを告白して謝ろうと決意して席に戻ったのに、いつもの誠実そうで穏やかな笑顔を謙太に向けられて打ち明けることができなくなり、朱里はそう答えた。
引継ぎの時にその話を聞いたことがきっかけとなって、朝陽というキーワードがKENの残した5曲のどれかに含まれていれば、涼とKENの
だが、どの曲にも朝陽や太陽に類する言葉は出てこない。
それで、以前からそういう手法があると知っていたバックマスキングを試してみることにしたのだ。
ジョン・レノンが実際に使ったことのある手法ならKENが知っていても不思議ではないし、ダイイング・メッセージとして潜ませたなら単に逆再生しただけで聞き取れなくとも「わざとそうしたのだ」と言い訳できる。
そしてそうやってKENの作った曲の逆再生版を作りながら、こんなことは今すぐ止めて謙太に謝罪すべきだとも考えていた。
「高校時代は≪ライジング・サン≫の名で活動していたけど、上京して最初のライブに出ようとした時、≪ライジング・サン≫は日本4大野外ライブのひとつと同じ名だから変えたほうがいいって先輩に助言されたので、≪インフィニティ・サン≫に改名したそうなんです」
「鳥取時代から付き合いのあったKENさんなら、そのことは知っていそうですね」
謙太の言葉に、朱里は頷いた。
そして、もう今日は打ち明けるのは無理だ、機会を逸してしまったと、内心で悔やむ。
「実は昨日、その同僚から聞いた話はそれだけではなくて、彼女の友人が偶然、涼のアルバイト先を見つけたそうで、その店の名前と場所も教えてもらいました」
「それってもしかして、涼さんに直接、話を聞きに行く……ってことですか?」
朱里の言葉に、謙太は言った。
朱里はそこまで考えて言ったわけではなかったのだが、この流れなら当然、そうなるだろう。
いきなり態度を変えて不審がられたくないので、頷いて肯定した。
「お気持ちは分かりますが、KENさんの失踪は極秘情報です。そのことを説明せずに涼さんから話を聞くのは、難しいのではないかと……」
どうにかして涼に会いに行くのは断念させようと、謙太は言った。
朱里は
涼に話を聞きに行く流れにはならなさそうだと見てとって、やはり謙太に全てを告白しようと考えたのだが、どう切り出すかで迷っていた。
作り話を並べて謙太の時間を無駄にしてしまったのだから、激怒され罵倒されても当然だ。
(それでも…………できればこの人のそんな姿は見たくない…………)
だがこのまま自分が真実を告げることもなく連絡を絶ったら、KENの後追い自殺をしたのではないかと謙太を心配させてしまいそうだと、朱里は悩む。
「…………失踪が極秘と言っても、ライブが先週末から中止になっていること、SNSにメンバー側からの書き込みが全くないことは、ファンならみんな知っているはずです」
内心の思いとは裏腹に、朱里は言った。
夜勤明けで帰宅した後もずっと、バックマスキング手法を使用してKENの「ダイイング・メッセージ」を作ることに専念していた。
そしてどうにかそれらしい物ができ上がった時にすぐ謙太に電話したので、昨夜は全く眠っていない。
謙太からは待ち合わせ時間に午後を指定されたのでシャワーだけは浴びたが、妙に目が冴えてしまって短時間の仮眠を取ることもできなかった。
連日の睡眠不足で疲弊し脆くなった心は、どうにか細い糸でつながっているような不安定な状態で、ちょっとしたきっかけで地に落ちて砕けてしまいそうだ。
やはり、今日打ち明けるのは無理だと、朱里は思った。
「ですから私がKENの一ファンの立場で、涼に話を聞きに行きます」
「そう……ですか。分かりました。では、私もご一緒します」
か弱げな朱里を1人で涼の許に行かせるのは忍びないと思い、謙太は言った。
涼がどんな人物なのかは分からないが、KENとの間のトラブルについて聞き
聞き方を誤れば、怒らせてしまう可能性もある。
「いえ……新里さんにご迷惑はおかけしたくありませんし、あくまでファンの勝手な行動ということにしないとプロダクションからの指示に背くことになってしまいますから」
「でしたら私も探偵事務所の調査員ではなく、一ファンとして話を聞きに行きます。それならば、星野さんと同じ立場ですから」
笑顔を浮かべて、謙太は言った。
朱里が真実を告白しようとして告げられずにいるように、謙太もそのタイミングを探していたのだ。
***
「え、リョウ君?」
涼のアルバイト先は、個人経営の居酒屋だった。
ランチタイムが午前11時から午後4時まで、4時からは居酒屋タイムとなっており、幸いにして店はずっと開けたままだ。
「今日も出勤のはずだったけど、暫く前から無断欠勤だよ。電話しても留守電になってて全然繋がらないし……。
全くどうなってんの? いまどきの若い子はほんとに……」
店主は佐川と同じような愚痴を漏らし、胡散臭そうな目で謙太たち2人を見た。
「あんた達、リョウ君とどういう関係? 友達って感じじゃないけど」
「実はその……涼さんの後輩のKENの友人なんですが、KENと連絡が取れなくなってしまったので、涼さんが何かご存じじゃないかと思ってお話を伺いに来たのですが」
「リョウ君の後輩の友達なら、リョウ君より年下だろ? こっちのお姉さんはともかく、お兄さんはそうは見えないね」
話の設定の甘さを突かれ、謙太は口ごもった。
朱里にKENの真実をいつ、どういう風に打ち明けるか、そのことで頭がいっぱいで、涼に会ってからの説明は考えていたものの、涼に会う前段階での嘘はそこまで練っていなかったのだ。
「こう見えて、彼、2浪してるんです」
謙太がどう取り繕うか悩んでいるうちに、おっとりと微笑んで朱里は言った。
「2浪って大学を? でもリョウ君、高卒でしょ」
「……中3の時に大病を患いまして。高校に入るのが2年、遅れてしまいました」
我ながら苦しい言い訳だと思いながら、営業スマイルを浮かべて謙太は言った。
それでもKENより4歳年上なのだから計算が合わないが、その程度なら何とかごまかせるだろう。
「まさか、サラ金の取り立てとかじゃないよね?」
土曜なのにスーツ姿の謙太を胡散臭そうに見て、店主は言った。
「リョウ君と連絡が取れなくなってからと、その前もあったかな。
見るからにガラの悪い連中がリョウ君を訪ねてきて……。こっちは客商売やってんだから、あんなのにうろつかれたんじゃ迷惑千万だよ」
「ガラの悪い連中……?」
おうむ返しに謙太は言った。
思わず、朱里と顔を見合わせる。
「とにかく、リョウ君にはもう辞めてもらうことにしたから。うちとはもう関係ないんで」
半ば追い出されるようにして店を出た後、謙太と朱里は再び顔を見合わせた。
「……私、KENと涼の間には曲の盗作とは別に、何らかのトラブルがあったのではないかと考えていました。
どんなトラブルかは分かりませんが、涼はかなり怒ってKENを脅迫するかどうかしてKENは身の危険を感じ、自分に何かあった場合に備えて『Song Of My End』にダイイング・メッセージを潜ませたのではないか……と。
もしそうであるなら、他ならぬ涼の作った曲を使ってダイイング・メッセージを隠したのも納得できます」
KENと涼の怒鳴り合いを隣人が聞いたのは先週の月曜。KENが『Song Of My End』を発表したのはその前日の日曜だ。
隣人は帰宅時間が不規則で余りマンションにはいないらしいので、隣人が怒鳴り合いを聞いたのは月曜が初めてでも、それ以前からトラブルは発生していたのかもしれない。
いずれにしろ、そのこととKENの失踪は無関係だ。
もっと言えば、KENはプロダクションやファンとの連絡を絶っただけで、失踪などしていない――。
そう、内心で謙太は思ったが、どうにか顔には出さずに済ます。
「でもさっきの話だと、トラブルの渦中にあったのは涼さんのほうのようですね」
これ以上、KENの行方を探すことを朱里が諦めてくれればいいがと願いながら、謙太は言った。
「涼のトラブルにKENが巻き込まれたか、逆にKENの問題に涼が巻き込まれた、という可能性もあるのではないでしょうか」
深刻な表情で、朱里は言った。
謙太はこれ以上、話を合わせないほうがいいと考え、黙っていた。
朱里はその謙太の顔を暫く黙って見つめていたが、やがて悲し気に微笑んだ。
「…………全てただの可能性でしかないですね。これじゃただの妄想です」
「そんなことは……」
ないと否定しかけて、謙太は口を噤んだ。
今日も朱里は目の下に青いクマができていて、とても憔悴しているように見える。
なるべく早いうちに真相を伝えてあげるべきだろうが、今日はそれに相応しい日ではなさそうだと、謙太は判断した。
「あの、土日もお仕事なんですか?」
謙太の質問に、朱里は首を横に振った。
「今日明日はお休みで、月曜から日勤に戻る予定になっています」
「でしたらKENさんの捜索は私に任せて、ゆっくりお休みになって下さい」
月曜以降にまた連絡しますと、謙太はそれだけ言った。
朱里は小さく頷き、それから深々と一礼した。
全く予想もしていなかった電話が佐川からかかってきたのは、翌日曜のことだった。
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