第42話 語られざる事件

「…この、『母 冷たくなった』とは、離婚後のお母さんの態度を表しているのでしょうか?

 音信不通となって、何の連絡もくれないことを『冷たくなった』と言っているのか、或いは離婚が成立する少し前からよそよそしく――」


 途中で謙太はある考えに思い至り、愕然として口を噤んだ。

 ルーズリーフから目を上げて朱里を見ると、朱里は謙太が何に気づいたのか分かっているかのように、悲痛な表情で頷いた。


「冷たくなったって、まさか…」

「そのまさかを、私は危惧しています。KENのお母さんが既に亡くなっていること、そして……」


 朱里の声は微かに震え、両目が潤んでいる。


「お母さんの死の原因はKENにあった。もっとはっきり言えば、KENの過失のせいでお母さんは亡くなったのではないか…と」


「ちょっと待ってください。両親の離婚はKENさんが小学3年の時の話ですよね?

 もしお母さんが失踪ではなく亡くなっていたのだったら、しかもその原因がKENさんにあるなら、それをKENさんが認識していないはずは……」


 朱里は泣き出すのをこらえようとするかの様に、大きく息を吸って、吐いた。

 それに連れて、華奢な両肩が上下する。


「…普通に亡くなったのなら、亡くなったと認識していたでしょう。

 でもそれが到底受け入れられないような、とてもショッキングな状況のもとで起きたことなら、忘れてしまった可能性はあります。

 心理学では防衛機制のひとつの、抑圧という呼び名で説明されています」


「抑圧については、大学でちょっとだけ習ったことがあります。心理学部ではないので詳しくはないですが、児童心理学をほんの少しだけ…」

「でしたら、私なんかより新里さんのほうがずっとお詳しいでしょうね」


 そう言って、朱里は弱々しい微笑を浮かべた。


(『習ったことがある』だなんて見栄、張り過ぎだ…。

 何となく面白そうだったんで勝手に何度か講義に潜り込んだだけで、『心理学の本を読んだことがあります』レベルなのに…)


 謙太は言ったことを後悔したが、言ってしまったのだから、今更取り消すことはできない。

 そして、やはり今日の自分は変だと、改めて思った。


(見栄を張って心理学の知識があるみたいな言い方をしたり、見栄を張って高いカフェ代を奢ろうと考えたり。

 これじゃまるで……)


 その先を考えることを、謙太は自らに禁じた。

 今は、そんな浮ついたことに気持ちを向けている場合ではないのだ。


「…何度も途中で口を挟んで申し訳ありませんでした。どうぞそのまま説明の続きをお願いします」


 謙太が言うと、朱里は軽く頷いて、気持ちを鎮めるためか、注文してあったお茶を飲んだ。

 ローズヒップピーチティーとかいう名の赤いアイスティーだ。

 ローズヒップが何なのか謙太には分からないが、フルーツティーのたぐいなのだろうと思った。


 謙太は前の店でコーヒーを飽きるほど飲んだのでこの店ではアイスチャイを注文したが、ふたりともお茶には手を付けずに話していたので、氷が溶けて味が薄くなってしまっている。


「小学3年生くらいの男の子って、個人差もあるけどやんちゃな所があるじゃないですか。友達とふざけて押し合いをしてみたり。

 それで押された子がバランスを崩して転んでしまって、運悪く机の角に頭をぶつけて騒ぎになったってことが、私の小学校の時に実際にあったんです」


 アイスティーを飲んで気持ちが落ち着いたのか、瞳は潤んだままだが穏やかな口調で、朱里は語り出した。


「その男の子は痛みで泣き出して、それにつられたように周りの女子が驚いて泣き出して、大変なことをしてしまったと焦ったのか、押した子も大泣きして…。

 担任の先生が駆けつけて保健室に転んだ子を連れていった後も、暫く騒ぎは収まりませんでした」


 机の角は丸くなっていたのでコブにはなったものの傷はできなかったが、頭部なので学校側は大事を取ってその子を病院に連れてゆき、そのことで残った生徒たちはますます不安を募らせた。

 翌日、コブができた子はケロリとして登校し、その子の親が押した子を責めることもなかったので、事件は瞬く間に収束した。但し、教室での押し合いは危険だとして全校的に禁止となった。


 それは、朱里が小学2年の時の出来事だった。

 すぐに騒ぎが収まって、押された子も押した子も何事もなかったかのように仲良く遊び仲間であり続けたので、朱里にとっては殆ど記憶に埋もれてしまうような遠い出来事でしかなかった。


「でも、『母 冷たくなった』という書き換えに辿り着いて、急にその時のことを思い出したんです。

 あの時は大事にならずに済みましたが、軽い力で押しただけでも、いくつかの悪運が重なるだけで大きな事故につながってしまう可能性はあるんだと…」


 朱里は目を伏せ、どうにか感情を抑えようとするかのように両手を組み合わせた。

 その姿は、祈っているようにも見えた。


「…例えばお母さんが2階のベランダとか、あるいはもっと不安定な場所で何かをしていたときに、子供だったKENさんがふざけてちょっと押してしまったか、急に身体に触るかして驚かせてしまい、バランスを崩して…ということですか?」


(2階から落ちただけでも下が地面ではなく固いコンクリートだったら? あるいは土の上でも落ちたときの角度が悪くて、首の骨を折ってしまえば……)


 考えられないことではないと、謙太は思った。


 もともと、KENの母親が家を出たきり音信不通になってしまったのは不思議だと思っていたのだ。

 離婚するならなぜKENを連れていかなかったのか、置いていくにしろ、せめて電話をかけるくらい、できなかったのだろうか…と。


 死んでしまっていたのならば、KENを連れていくことも、電話をかけることもできなかった。

 幼いKENは自分が愛する母親をあやめてしまったのだという事実に耐えられず、その記憶を抑圧した。


 そして来るはずのない連絡を待ちわび、テレビに出ることでせめて自分が成功した姿を見てもらおうとした。

 テレビに出た姿を見れば、何らかの連絡がもらえるかもしれないと、儚い期待をいだいたのかもしれない……。


 そう考えればKENの母親の失踪と、その後の音信不通の理由は説明がつくと、謙太は思った。


「新里さんはご存じでしょうから説明するまでもありませんが、抑圧した記憶というのは消えてしまったわけではないので、何らかのふとしたきっかけで蘇ってしまいます。

 何かが引き金となって、KENは11年前の事件を思い出してしまったのでは……」


「あの…お母さんが『失踪』した後、お父さんとKENさんの関係はどうだったんでしょうか」


 説明としては筋が通っているが、判断の根拠が歌詞の書き換えだけでは余りに弱い。何か補強材料はないのかと考え、謙太は聞いた。


「お父さんからは無視されるようになったと、KENは言っていました。

 話しかけてもこない、目も合わせない。たまに自分から話しかけると、化け物か幽霊でも見るような目で見られた…って」


 背筋がゾクリとするのを、謙太は感じた。

 帰宅したときに妻が死んでいて、それが8歳の息子のせいだと知ったら? 

 自分だったら、警察に通報などできそうにないと、謙太は思った。そんな通報をするくらいなら、事件を隠蔽する道を選ぶのではないだろうか。


(8歳なら刑罰の対象にはならないけど、だからって何事もなく済むわけじゃない。

 何より警察に通報して事故だと認めてもらえればいいけど、自分が妻殺しの嫌疑をかけられる可能性だってある。

 いや、事故なら事故でその事故がどうして起きたんだって話になるから、結局、息子が母親を死なせてしまったんだと、明らかになってしまう…)


 殺人の疑いが濃厚ではなく偶発的な事故の可能性が高いなら、そしてその事故に8歳の子供が関係しているのなら、警察はマスコミに公表しないだろうと謙太は考えた。

 が、KENの母親が突然、死んだことは近所の人や母親の友人知人にすぐに知られてしまうのだから、何らかの噂は広まるだろう。


(根も葉もない無責任な噂を立てられて妻殺しのそしりを受けるかもしれないし、事実を明らかにすれば8歳の息子を傷つけることになる。

 それならやっぱり、妻の死を隠蔽して離婚して出ていってしまったことにしようと、俺でも考えそうだ…)


 謙太の脳裏には、妻の遺体をどこかの山中に埋めて隠す父親の姿が浮かんだ。


 心身ともに疲労困憊した父親が翌朝見たのは、母親の死のことなど全く覚えていない息子の姿だ。「お母さんは?」と、無邪気に尋ねたかもしれない。


 防衛機制の抑圧のことを知らなければ、息子が全く理解の及ばない、化け物か何かのように感じられたことだろう。


(この仮説には確たる根拠も証拠も何もない。KENの失踪に関する俺の仮説だって確証はないけど、それでも複数の人間の証言に基づいている。

 それに比べたら星野さんのこの仮説には、主観や想像が入りすぎだとは思うけど…)


 だがそれでも、父親がわが子を無視し、化け物か幽霊でも見るような態度に変わってしまったなら、そこには何らかの大きな理由があるはずだ。


(…とはいっても、それは星野さんがKENから聞いたと言っているだけで、事実なのか空想なのかは分からない。

 ただ小3の時の両親の離婚自体は、翔たち3人から聞いた話と一致するのだから、父親の態度に関する話もそれなりに信憑性はある……のか?)


 朱里の言葉をどこまで信じるべきか、謙太は判断に迷った。

 感情的には信じたい気持ちがあるのだが、KENとやり取りしたメールは残っていないと言うし隠し事をしているような素振りを見せてもいる。

 信じ切るのは難しい。


「こちらのパターンの書き換えをした根拠について、説明してもよろしいでしょうか?」

 謙太の内心の不信感を見て取ったかのように、朱里は言った。


 反射的に営業スマイルを浮かべ、謙太は頷いた。

 朱里は細い指で両目の涙をぬぐうと、新しくバインダーから取り出したルーズリーフをテーブルに並べる。


「最初の置き換えパターンでは、合言葉となった『ラジエーター』『点火プラグ』を置き換え対象にしましたが、こちらでは合言葉が意味する『戦艦』『海軍暗号』をキーワードにして映画のセリフとの関連性を分析してみました。

 映画の『オイルポンプ』を歌詞で『オイルランプ』に変えている点は先ほどご説明したとおりロマンチックさの演出要素だと考えていますので、置き換え対象には入れていません」


 だったら、そもそも符牒ではない「トカイワイン」が両方のパターンで書き換えられているのは何故なんだと謙太は思ったが、言葉にも態度にも表さなかった。


「まず『戦艦』ですが、戦艦という言葉そのものは映画のセリフには出てきませんでしたが、『イギリス船籍の小型帆船ソフィ・アンダーソン号の失踪に関する事件で』とレストレードが語

り始め、それに対してワトスンが『あの事件は依頼人の母親が』『二等航海士の年老いた母親が』と、ふたりの母親たちのことを話題にしています」


(それは『語られざる事件』じゃないか…!)

 思わず、謙太はテーブルの下で拳を握りしめた。


 「語られざる事件」とはコナン・ドイルの原作中で言及されてはいるものの、事件そのものがドイルによって作品化されなかった事件のことで、数十から百件以上、あるとされている。

 後世の作家によってパスティーシュが書かれた作品もいくつかあり、その事件がどんな内容であったかは世のシャーロッキアン達の興味の的となっている。

 そして謙太も、そのひとりだ。


「次に『海軍暗号』ですが、レストレードの『あの海軍の暗号が絡んだ事件では』というセリフに対し、ワトスンが『グライス・パターソン一家の特異な冒険のことですね、ウファ島の』と返します。

 そしてレストレードが『あれは家族の絆が試された事件でした』…と」


(それも『語られざる事件』だ。映画で、ワトスンとレストレードはもっと詳しく話さなかったのか…?)

 内心のじりじりする気持ちを抑え、謙太は先を促すように頷いた。


「最後の『トカイワイン』ですが、ワトスンが『これも良いワインだが、ホームズと飲んだモンラッシェが懐かしい…』としみじみ呟いて、レストレードが『先生にとって、ホームズさんと過ごした冒険の日々は、まさしく幸せの記憶なんでしょうな』と、これも感慨深そうに呟くんです。

 それが、映画のラストでした」


「…その映画を見られないのが、つくづく残念だ…」

 溜め息をつき、謙太は独りちた。


 それから、心の声が外に出てしまったことに気づいてやや慌てて朱里を見た。

 朱里はKENが遺書を残して自殺するつもりではないかと心底、案じているというのに、自分は憧れの探偵の映画の話に浸ってしまったのだから。


 だが朱里は気を悪くした様子もなく、ただ不安げな、そして落ち着かなげな表情で目を伏せている。


(ああ……そういうこと…か)


 不意に、ある考えが謙太の脳裏に浮かんだ。


 それは、謙太を悩ませてきた朱里に関する疑問や疑惑を、解き明かす鍵だった。

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