第37話 売れるモノ

「失礼しました」


 トイレから戻ると、謙太はそう言って謝った。

 朱里は心配そうに、謙太を見ている。


「大丈夫ですか? どこか、具合でも……」

「いえ、本当に大丈夫ですから、ご心配なく。それよりもう12時ですね。昼食、どうなさいますか?」


 謙太が笑って言った後も朱里は心配そうな眼差しを向けていたが、その言葉にスマホで時刻を確認した。


「この店でもランチメニューはあるようですが……。この近くで、星野さんのお勧めの店とかありますか?」


 一旦、気持ちを切り替えたくて、別の店に行くことを謙太は暗に提案した。

 だが朱里は、戸惑うように視線を移ろわせる。


(実は、ここにはKENが失踪してからしか来たことがないのか……?)


 朱里が名ばかりの婚約者でKENからはもう不要な存在と看做みなされているのなら、この近所の店に詳しくはないのだろうと謙太は思った。

 余計なことを言ってしまったと後悔したが、ここはむしろ朱里とKENの真の関係に気づいていないフリをするのが、「優しさ」かもしれないと思い直す。


「……KENが引っ越したばかりなので、この辺はあまりよく知らないんです」

「そうでしたね。じゃあ、このままここでランチにしますか」


 朱里は頷き、広げたルーズリーフをバインダーに戻す。

 カフェだからか食事メニューの数は少なく、サラダプレート、オムライス、ホットサンドの3種類で、どれもミニデザート付きで女性向きな感じだ。

 そして、値段は謙太が普段コンビニで買っている昼食の3倍はする。


(まあ、場所が場所だし、コーヒーの値段からしても、ランチはこのくらいして当然なんだろうな……)


 少しでも腹にたまりそうなものを、と謙太はオムライスを選び、朱里はサラダプレートを注文した。

 朱里がルーズリーフをバインダーに戻してしまったので、料理が来るまでの間、雑談で時間を潰そうと謙太は思った。

 どうにかして一旦、気持ちを切り替えないと、KENに対する憤りでまた胃がおかしくなりそうだ。



「『His Last Case』ですけど、星野さんはご覧になってどう思われましたか?」


 崇拝するシャーロック・ホームズの映画を再び話題に上らせた謙太に、朱里は微笑した。


「本物のホームズは全く登場しないので、新里さんには物足りないかもしれませんね」

「全く登場しないんですか?

 最後のワトスンとレストレードの会話のところで、回想シーンが入るのかと思っていましたが」


 朱里は首を横に振った。


「実はインターネット上の映画はもう見られなくなってしまっているので再確認はできなかったんですが、見た当時、自分の感想をまとめたメモは残っているので、それを読み返してました」


「KENさんからの感想メールも残してあるんですか?」


 謙太が聞いた時、一瞬、朱里の瞳が虚ろになったように見えた。


 以前にも朱里と話していて同じような経験をした気がするが、いつのことか覚えていない。

 朱里とは水曜に初めて会って、直接会って話すのは今日で3回目なのだから昨日か一昨日のどちらかなのは確かなのだが、何の話題が出たタイミングでその虚ろさを見た気になったのか、それが思い出せない。


「……その頃、使っていたスマホはうっかり壊してしまって、データを復旧できない状態で……」

「それは残念でしたね。バックアップは取ってなかったんですか?」

「バックアップの取り方とか、そういうことにあまり詳しくなくて……」


 何となく聞き覚えのあるやり取りだと、謙太は思った。


 以前、確かある依頼人が同じことを言っていた。

 その依頼人が嘘をついていて、自分の不倫を隠して無実の夫に濡れ衣を着せようとしていたというのが、その時の顛末てんまつだ。


「本当に……どうしてバックアップくらい、取っておかなかったんでしょうね。

 KENからのメールは、もう2度と受け取れないかもしれないのに……」


 俯き、悲し気に眉を曇らせた朱里の姿に、謙太はまた余計なことを言ってしまったと、後悔した。


 だが、同時に違和感も覚えていた。


 俯いた朱里の瞳は落ち着かなげに移ろっていて、悲しんでいると言うより、嘘をごまかそうとしているように思える。

 目が泳いでいるだけでなく、表情もどことなく後ろめたそうに見えるのだ。


 料理が運ばれてきたので、謙太の思考は中断された。

 頭と心を切り替えようと、謙太は調査と全く関係のない当たり障りのない話をして、暫くは食べることに集中した。


***


「バカなこと、言うなよ……」


 溜め息をついて、駿はTAKUの言葉を否定した。

 落ち着いて話す為に、他人に会話を聞かれる心配のないカラオケボックスに移動している。


「そんなことしたら、親に迷惑がかかるだろうが」

「何でだよ」


 TAKUは突っかかった。


「去年、プロダクションと契約した時、オレたちは19歳だったけど、法律が変わった後だから成人として自分たちだけで契約してる。親に保証人になってもらったワケじゃない」

「そりゃ、親に違約金の支払い義務はないだろ。でもだからって、おれたちがバックレたら真っ先に親に連絡が行くのは確かだ」

「そんなの、無視すりゃいいじゃん。義務はないんだから、親が訴えられたりもしねぇ」


 TAKUの言葉に、駿は再び深く溜め息をついた。


「お前んとこの親は、息子宛てに請求書が送りつけられても、平然としてられるのか? 契約違反とか債務不履行とか、そんな言葉がいろいろ並んでたら、普通ビビる」

「だからあらかじめ電話して、何が来ても無視してくれって言っとけばいい」

「電話なんかしたら、何があったか説明しなきゃなんねーだろうが」

「KENが突然失踪してバンドが続けられなくなったって、それだけ言えばいいだろ」


 TAKUの言葉に、駿は口を噤んだ。

 隣の部屋の音楽が、壁越しに小さく聞こえる。


「全部、KENひとりにおっかぶせて、おれたちは知らん顔すんのか?」

「悪いのはKENだって言ってたのは、お前だろうが……!」


 声を荒げたTAKUに、駿は眉を顰めた。


「……怒鳴るなよ。隣に聞かれたらどうする?」


 TAKUは何か言いたげに口を開けたが、そのまま何も言わずに黙った。

 駿も口を噤み、聞こえるのは隣から漏れ聞こえる曲だけだ。

 どうやら子供向けアニメの主題歌らしい。隣の客は、幼い子供たちを連れた主婦なのだろう。


「バンドが続けられなくなったって言ったら、絶対、帰ってこいって言われる」


 それまで黙っていた翔が、ぼそりと呟いた。


「お前は帰ったほうがいい。親父さんの店か、兄貴の工場で使ってもらえるんじゃないか?」

「そう言うお前はどうすんだよ。帰ってこいって言われるのは、3人とも同じだし、≪ブリリアント・ノイズ≫がダメになった以上、こっちにいたって生活費がかさむだけだ」


 翔に対する駿の言葉に割り込むように、TAKUは言った。無意識に耳たぶに手をやりながら、続ける。


「実家に戻って家賃がかからなくなれば、ローンだって4年もかけずに返せる」

「何だよ。結局、違約金は払うのか?」

「違約金には50万、足りてねぇし、鳥取に帰んのだって金はかかるだろ」


 駿とTAKUの会話を聞いていた翔が、再び口を開く。


「どうせ実家に帰って、親の世話になんなら、足りない50万も親から借りて、違約金は、ちゃんと払ったほうが良くね?

 鳥取まで、違約金の取り立てに来るかどうかは、分かんねぇけど、少なくとも、電話はかかってくるし、督促状みたいなのも、送られてくるだろ。

 そんなんで、親に心配や迷惑かけんのは…………」


 駿とTAKUは口を噤んだ。

 駿は天井を仰ぎ、TAKUは床に視線を落とす。



「…………何でこんなことになっちまったんだ? オレたち」


 やがて、ぽつりとTAKUが言った。


「KENのせいだろ。あいつがおかしなことに手を出さなけりゃ……」


 駿は言ったが、その後すぐに溜め息をついて、首を横に振った。


「おれたちの誰も、あいつを止めなかった。止められなかった。だったらせめて関わらずにいれば良かったのに、それもできなかった。

 あいつは売れだしてから調子に乗ってたけど、おれたちだって大して変わんねえ。ちょっと売れたからって舞い上がって、あんな…………」


 駿が口を噤むと、部屋は沈黙に包まれた。

 いつの間にか、隣の客たちは帰ったようだ。


「……やっぱりムリだ、オレ……。

 実家に帰って、親や姉ちゃんたちに、色々聞かれたら、隠し通す自信が、ない……」

「なに言い出すんだ、翔。自分が今、何を言ったか分かってんのか?」


 翔の言葉に、駿の顔色が変わった。

 TAKUも驚愕の表情で、翔を見つめる。


「誰も、親に喋るなんて、言ってない。

 そうじゃなくて、やっぱり親に迷惑はかけらんねぇし、実家に戻んのも無理。どうやってでも、あと50万かき集めて、違約金をきっちり払うしかない」


 翔の言葉に、駿もTAKUもすぐには何も言わなかった。


 TAKUは左耳の、4つのピアスがついていた辺りを再び無意識に指でなぞった。

 ピアスを付け始めたのは上京してからで、もともとはライブのときだけつけていた。


 最初に開けたのは左耳1か所で、徐々に数が増えて耳だけでは足りなくなり、鼻や唇にも付けるようになった。

 バイトのときは外し、ライブのときには付ける、の繰り返しだったが、≪ブリリアント・ノイズ≫の人気が上昇してバイトを辞めると、ずっと付けっぱなしになっていた。


 その日は消費者金融会社に借入を申し込み行くから外したのだが、もう二度とピアスを付けることはないだろうと、外しながら漠然と感じていた。


「…………実家に戻るのがキツイのは、正直オレも同じだ。

 金の面では楽になるだろうけど、親だけじゃなくて、田舎に残った連中にどのツラ下げて会えばいいんだ……って考えたら、やっぱり実家に帰るとかムリだし、実家に督促状が送られるんなら、そっちもムリだ」


 暫くの沈黙の後、ピアス跡をいじっていた左手を膝の上に置いて、TAKUは言った。


「バックレるのが無理だって、分かってくれて良かった」


 駿の言葉に、TAKUはかえってムッとしたようだ。

 睨みつけるように相手を見て、口を開く。


「バックレも闇金もムリなんだから、お前が50万、出してくれれば済む話じゃねーのか?

 誰もくれなんて言ってねぇ。必ず返すからちょっとの間、貸してくれりゃいいんだ。

 それに50万つったって、3分の1はお前の支払い分だろ」


「おれが楽して50万、貯めたとでも思ってんのか? おれだってもっとマシなアパートに住みたいし、欲しいものだってある。

 まずはお前らが散財した分不相応なギターとベースを売って金作れよ」


「何だよ、その言い方……!」


 とげのある言葉の応酬に、TAKUはカッとなって駿の襟首をつかんだ。

 その手を駿が乱暴に振り払い、TAKUは益々いきり立つ。


「…………売れば、いいんじゃねーの」


 駿とTAKU、ふたりともソファから立ち上がって殴り合いが始まろうとしたその時、ぼそりと翔が呟いた。


「売れるモノがあんだから、それを、売ればいい」

「はァ? オレのベースは滅多に出会えないヴィンテージで、いま売っちまったらそれこそ次、いつ出会えるか――」


 途中で、TAKUは口を噤んだ。

 そして、駿の襟元を掴んでいた手を放し、唖然とした表情で翔を見る。

 駿は、深刻な表情で翔を見ていた。


「『売れるモノ』って…………。お前、マジで言ってんのか? この10日間のおれたちの苦労は何の為だったか、分かってんのか?」


 やがて、低く押し殺すような声で駿は言った。

 翔は、立ったままの駿を見上げる。


 そして言った。


「他に、何か手はあんの?」

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