第34話 逃亡

「新里さんもその映画、『最後の事件』をご覧になったんですか?」


 相手の問いに、謙太はすぐには答えられなかった。

 朱里に対して覚えた違和感と、その夜、見たであろう夢の正体がいきなり判明して、やや驚いていたのだ。


 謙太が答えないので朱里は幾分、不安そうな表情で相手を見つめている。

 朱里の不安を打ち消そうと、すぐに「誠実そうな」営業スマイルを浮かべ、謙太は言った。


「いえ、残念ながら…。50年代制作の古い映画な上、日本未公開なので探してもどこにも見つからなかったんです。

 ただ、日本のとあるシャーロッキアンのブログで、あらすじと感想を読んだだけで」


 そのブログを読んだ時から、その映画はずっと見てみたいと思っていたのだと、謙太は続けた。


「星野さんはそんな見つけにくい映画を、どこで探したんですか?」


 謙太に問われ、朱里はやや困惑気な表情になり、視線を逸らした。


「実は、インターネットに上がっているのをたまたま見つけたんです。公式なものではないので、つまりその……違法アップロードと言いますか……」 

「でも、著作権の保護期間て確か70年ですよね? 50年代制作の映画なら…」


 朱里は、首を横に振った。


「50年代初頭の制作ならよかったんですが、その映画は1957年制作なので、もう少し待たないと…」

「それはともかく、日本未公開なら日本語字幕はついてないんですよね? 英語でご覧になったんですか?」

「残念ながら私もKENもそんな英語力はないので、翻訳アプリに頼りました」


 KENもという言葉を聞いて、謙太は現実に引き戻された。


 今、話題にしているのはシャーロック・ホームズの映画ではなく、KENの作った曲の歌詞を読み解くカギがある映画なのだ。



「こちらが、『Song Of My End』の歌詞全文ですね?」


 ルーズリーフを手に取って、謙太は聞いた。

 朱里は頷く。


「ライブで流れた時にスマホで録音した曲を私が自分で書き起こしたものなので、細かい点は間違っている可能性はありますが」


 朱里の説明に、謙太は頷いた。

 が、婚約者の発言としてはおかしな点があるのに気づく。


(1か月前のライブで3曲の試作品が発表された時のことは、『CDになるまで待ちきれなくて、ついスマホでってしまった』って言ったよな。

 その時はまだしも、その翌週と翌々週のライブでも同じようにスマホで勝手に録音したとなると…)


 朱里が本当にKENの婚約者であるなら、さすがにそれは不自然だと、謙太は思った。

 次に新曲を発表するときは、試作品でもいいからあらかじめ教えてほしい、その音源かせめて歌詞を送って欲しいと、頼めばいいからだ。


(そもそも1か月前のライブで3曲発表した時に、婚約者に何も言わないってこと自体が不自然だ。

 サプライズのつもりで事前に言わなかった、なら分かるけど、いくら試作品でも新曲なら何らかのデモ音源とかあるだろうし、歌詞ならなおさらテキストの形でどこかにあるはずだ。

 だから彼女が欲しいと頼めば、当然渡していただろう)


 その点を考えても朱里がKENの婚約者だという話は嘘で、行き過ぎた追っかけをしてしまうファンの妄想に過ぎないのだと改めて謙太は思ったが、そこには敢えて触れなかった。

 最初から朱里がKENの婚約者だとは信じていないし、制約の多い調査を少しでも進める助けになればという気持ちでわらすがっただけなのだ。


 そしてそうではあっても、朱里が心底KENの身を案じているのは間違いないと、その点だけは信じている。

 今はただ余計なことは口にせず、朱里から少しでも情報を引き出すことに努めるだけだ。


(だけど、『His Last Case』って、本当にKENが好きな映画なのか?

 さすがにそこも妄想だったら、歌詞と映画の台詞に関連があろうとなかろうと、何の意味もないことになってしまう…)


「その映画、『His Last Case』はKENさんと一緒にご覧になったんですか?」


 なるべくさりげない口調で、謙太は聞いた。

 さりげなさを装ったのは、朱里がKENとの関係について妄想を語っているのだと自分が考えていることに気づかせない為だ。


 だがそれでも、朱里はやや身構える素振りを見せた。


「あ…はい。ただ…それぞれ自分の部屋ででしたけど、時間は合わせました」


(という妄想…か。

 隣に座っているわけではないけれど、同じ時間に同じ映画を見ているのだから、体験を共有している。

 つまり、一緒に見ているのと同じ…)


「何を確認したいかと申しますと、日本語字幕はついていないので、翻訳アプリを使ったんですよね?

 仮に翻訳結果が異なっていたとしたら、KENさんが参考にしたセリフと星野さんが聞かれた和訳が異なってしまった可能性もあるかと思いまして」


 謙太の説明に、朱里はほっとしたかのように微笑を浮かべた。


「その点は問題ないと思います。映画を見終わった後、特に印象に残ったシーンとか台詞とか、感想を送りあったんです」

「送る…? つまりメールか何かで、テキストをってことですか?」


 思わず、謙太は聞き返した。

 別々の空間にいるとしても同じ日、同じ時刻に同じ映画を見たのだから、普通に電話で会話すればいいだろうと思ったからだ。


 朱里は一瞬、困惑気な表情を見せたが、すぐにまた微笑を浮かべて頷いた。


「KENも私も、映画を見た後はじっくり浸りたいタイプなんです。

 それにふたりとも割と細かい点について語るのが好きですし、特に古い映画ですと、作品中に登場する車が現代では貴重なクラシック・カーだということもあるので、それについて調べるのも楽しいですし…。

 それで、文化的背景まで考慮して一つひとつの台詞の意味を丁寧に読み解いていくと、いちど見ただけじゃ分からなかった新しい発見があったり、深いメッセージが隠されているのだと気づいたり…」


 だから感想を送るまで2、3日かかるし、相手の感想から新しい視点が見えてきて再度、映画を見直すこともあるので、全ての感想を送り終わるのに10日くらいかかってしまうのだと、朱里は説明した。


「それは…すごいですね。そこまでじっくり鑑賞してもらえたら、作った側も本望でしょう」


 そう謙太は言ったが、文化的背景まで考慮してじっくり映画を鑑賞する姿は、彼の中のKENのイメージとは全く合わなかった。


 これまで駿たちから聞いた話では、見てくれが良くて女性関係が派手、話のうまさでライブを盛り上げる一方、その話術の巧みさをナンパに利用するだけでなく、仲間である他のメンバーも丸め込んでしまう。

 人気急上昇後は他のメンバーを見下すようになり、意味不明な歌詞の曲を作ってファンの顰蹙ひんしゅくを買った。

 挙句の果てに、仲間もファンも裏切って金満女性の愛人になったか、自分でまともな曲を作れないので、恩ある先輩バンドの未発表曲を盗んで自ら悲劇を招いた……。


 一言でいえば、クズだ。


(星野さんは、本当にそんな男を愛しているのだろうか……?)


 それとも、これまで謙太が聞かされてきたKENの姿は、傷害致死を隠蔽いんぺいするためのでっち上げで、SNSでファンとの交流を大切にし、音楽だけでなく古い映画鑑賞にも熱意をいだく趣味の広さもあり、幼い頃に生き別れて音信不通となっている母に成功した姿を見て欲しいと願う、どこかに子供の頃の純真さを残した青年なのか……。



「今更、こういう質問をするのは遅きに失した感があるのですが」


 そう、前置きして、謙太は朱里に聞いた。


「KENさんは、そもそもどういう方なんですか? 性格とか、そういった意味で」


 謙太の問いに、朱里は酷く悲し気な表情を浮かべた。

 それから、静かにほほ笑む。


「KENは…鈴木健太君は、中学の時、私をいじめから救ってくれたんです」


***


「どうだった?」


 駿の問いに、翔は暗い顔で首を横に振った。


「やっぱり、50万しか借りられなかった」

「年収の3分の1まで借りられるなら、80万までいけるはずだって話は?」

「言ったけど、他の店と同じだった。

 3分の1はあくまで上限で、3分の1までの貸し出しを、保証してるわけじゃないって」


 3人は暗い顔を見合わせ、力なく足元に視線を落とした。


「…じゃあ、最近、売れ始めてライブ収入がかなり増えたって話も駄目だったか」


 駿の言葉に、翔は頷いた。


「源泉徴収票も、納税証明書も何も無いんじゃ、収入があることを、証明できないって…」


 北原が言っていたとおり、≪ブリリアント・ノイズ≫は個人事業者としてノース・エンタープライズと委託契約を交わしているだけなので、プロダクション経由で受け取る収入であっても源泉徴収はされていない。


 売れ始めたのはここ半年以内の話なので、まだ確定申告も所得税の納税もしていない。

 当然、納税証明書も無い。

 それどころか、今回の件が持ち上がって納税証明書という言葉を知るまでは、申告や納税の必要があることすら知らなかった。

 ライブの売り上げから必要経費やプロダクションの手数料が差し引かれた残りが≪ブリリアント・ノイズ≫に支払われていたので、それがそっくり自分たちのものになると思っていたのだ。


 消費者金融会社に借入を申し込むにあたって必要となる収入を証明する書類はアルバイト先の源泉徴収票しかなく、税込み年収は250万程度だ。

 3人は消費者金融会社ごとに借りやすさの差があるかもしれないと考え、それぞれ別の会社に申し込んだのだが、結果はどこも同じだった。


 事前にインターネットで調査して駄目だとは分かっているが、A社で50万借りた後、B社にも借り入れを申し込む、ということも試してみたが、最初の会社で借り入れた時点で信用情報が登録され共有されているので、最初の借り入れについて隠そうとしても無駄だった。

 むしろその手を使うと、2社目で即座に「問題あり」と見なされてしまうので、かえって状況は悪化する。


「80万どころか50万だって、借りるのはいいとしてもどうやって返すんだ? バイトなんてどこでやったって、時給千円ちょっととかそんなもんだぞ?」


 不機嫌そうに、TAKUは言った。

 鼻や唇にあったピアスは、耳にあったものも含めて全て外してある。借り入れの申し込み時に、少しでも印象を良くする為だ。


「1日8時間を10時間、週5日を6日に増やせば、何とかなるだろ」


 駿はスマホを取り出し、計算した。

 その結果を2人に見せながら続ける。


「時給千円で計算しても1日10時間で週6日働けば、年312万。高卒で二十歳ってことを考えたら、むしろ高収入の部類だぞ?

 それに月々の返済額なんて、高々1万5千だろ。その程度なら――」


「オレはもともと週6日、翔はもともと1日10時間働いてたんだ。8時間で週5だったのはお前だけだ。

 それに今までだってバイトのある日はヘトヘトで、休みの日にバンドができるのだけを楽しみにどうにか頑張ってたのに、それをもっと時間を増やせだと?

 それにもう、オレたちにはバンドなんかねえじゃねぇか…!」


 思わず声を荒げたTAKUを、通行人がちらりと見やる。

 駿は2人の袖を掴んで、路地裏に引っ張っていった。


「落ち着けよ。人目についたらマズイだろ。

 それに、お前たちのほうがたくさんバイトしてたのは、お前たちのほうが新しいアパートに住んで、その分、家賃が高いからだ」


 TAKUを宥めようとして穏やかな口調で駿は言ったが、家賃を持ち出したことで却ってTAKUを煽る結果となった。


「お前んとこみたいなボロアパートに住めってか? それにオレや翔のとこだって、そこまで新しいワケじゃ――」

「だから、騒ぐなって。ネットでちょっと調べたけど、シェアハウスだったら今より新しくてきれいなとこでも、今より安いのがある」

「たとえ家賃が安くなったとしても、引っ越しにも金はかかんだろーが」

「…シェアハウスとか、オレ無理…」


 駿の言葉に、TAKUも翔も不平を漏らした。

 駿は溜め息をつく。


「バイトの時間を増やすとか、安いとこに引っ越すとかは例えばの話だ。おれが言いたかったのは、工夫すればどうにかなる、そこまで無理な話じゃないってことだ」

「…残りの50万はどうすんだよ。それにあと16万ずつ借りたとしたら、月に2万くらい返さなきゃなんねぇ。

 そんなのが4年も続くのは、キツイ」


 まっすぐに駿の目を見つめたまま、TAKUは言った。

 傍らで、翔は同意のしるしに頷く。


 駿の表情が険しくなった。


「おれの貯金、50万を全部はたけって言う気じゃないだろうな?」

「だったらどうすんだよ。

 まともなサラ金はこれ以上、貸してくれそうにないし、まさか闇金か? 仮に闇金から借りたとして、金利は普通のサラ金より高くなりそうだし、取り立ても厳しいらしい。

 そんなのに手ぇ出すくらいだったら、いっそ……」


 そこまで言って、TAKUは口を噤んだ。

 駿と翔、2人の顔を代わるがわるに見、それから口を開く。


「バックレたほうがよくね?」


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