第32話 良い人
東の空が白み始めた頃ようやく眠りについたので、翌日の謙太はかなり睡眠不足のはずだった。
それなのに、妙に目が冴えている。
佐川にどう報告するか、朱里から連絡があったら六本木で聞いた話をどう伝えるか悩みながら顔を洗っていると、不意にあることを思いついた。
歯磨きもそこそこにスマホを手に取り、さっそく思いついたことを試す。
(駄目だ…。送れない)
謙太が試したのは、≪ブリリアント・ノイズ≫公式SNSにDMを送ることだった。
(てっきりすべてのアカウントに解禁してると思ってた。それなら≪ミシェル≫でKENを見初めたどこかの金持ちがDMを送れるから。だけどDMは送れないし、それらしい書き込みはなかった。
だったら…マダムはどうやってKENに連絡を取ったんだ?
プロダクション経由なワケはないし、仮にプロダクション経由で何らかのアプローチがあったなら、佐川さんのほうで把握してるはずだ)
直接、ライブ会場に足を運んだのだろうか? と、謙太の頭に疑問が浮かぶ。
だが、岩崎が言っていたとおり、オペラハウスが似合いそうなマダムが、若者であふれるライブハウスで立ち見客に交じっていたとは考えにくいし、人気が出てからの≪ブリリアント・ノイズ≫は物販もプロダクションに雇われたスタッフに任せていたので、メンバーに個人的な話を持ち掛ける機会はなかったはずだ。
(そもそも考えてみれば、あれはKEN個人のじゃなくて≪ブリリアント・ノイズ≫の公式SNSなんだから、DMを送れてたとしてもKENが見るとは限らないし、先にプロダクションにチェックされるんじゃないか…?)
マダムが≪ミシェル≫でKENを見初めたとして、そしてキャストか黒服から彼が≪ブリリアント・ノイズ≫のボーカルだと知ることができたとしても、その後どうやってプロダクションに知られずに密かに連絡が取れたのか、まるで分からなくなった。
(だったらやっぱり、そんな話は傷害致死を隠すための駿の嘘なのか?
だったら昨夜、≪ウィリデ≫で聞いたKENとマダムらしいふたりの話はなんなんだ…?)
いつもならここで日報か個人メモを読み返すところなのだが、昨夜はショックが大きくて日報どころか個人メモすら取っていない。
(何やってんだ、俺…。
録音してないんだから、記憶が新しいうちにメモを取っとけって、顧客対応マニュアルにも書いてあるし、その重要性は自分でも十分理解してたはずなのに…)
「謙ちゃん、どうかしたの? 朝から洗面所で溜め息なんかついて、具合でも悪い?」
両手を洗面台に付き、うつむいて盛大な溜め息をついた謙太に、背後から智子が心配そうに声をかけた。
謙太が中学生になった時、「ちゃん」付けはやめてくれと強く言ったのでそれ以降は謙太と呼ばれるようになったが、風邪で寝込んだりして心配をかけると、今もこの呼び方になる。
「あ…ごめん。邪魔だった?」
「邪魔じゃないけど…。具合悪いんでなければ、冷めないうちにご飯、食べちゃって」
母の懸念を振り払おうと満面の笑みを浮かべた謙太に、智子はやや不審そうな表情を浮かべて言った。
考え事をしながら朝食をとると両親にいらぬ心配をかけそうなので、急いでかき込んで家を出た。
駅に着いてから、前夜の≪ミシェル≫の女性従業員と、≪ウィリデ≫のホールスタッフの話をじっくり思い出す。
――…だって見かけたのはお店に来る前だし、お店に来てからその男の子を探してる人がいるって聞かされたんだし、知らなかったのに写真とか撮るワケないし…。
改めて思い出してみても、≪ミシェル≫の女性従業員の話は
誰かがKENを探していると聞かされる前に見かけただけなのだから、そうそう正確に記憶しているはずがない。
(≪ウィリデ≫の店員が言っていた若い男と同一人物なら、60代の裕福そうな女性とイチャついてたんだから印象に残るだろう。
でもそれなら逆に、そのことを俺に話さなかったのは不自然だ)
60くらいのオバサマとイチャついてて印象に残ったから、絶対に間違いない――もし彼女がふたりを見かけていたなら、そのくらいのことは言っただろうし、証拠写真がなくとも≪ウィリデ≫の店員の話と合わせれば、かなり信憑性が上がっていた。
見ていれば話すはずのことをおくびにも出さなかったのだから、やはり彼女は謝礼欲しさに嘘をついただけで、誰も見かけていないのだと断定してよさそうだと、謙太は思った。
一方、≪ウィリデ≫の店員の話には具体性があり、咄嗟に思いついた作り話とは考え難い。
(確か…あの店員が言ったのは、『似た感じの方はいらっしゃいました』だ)
忘れてしまわないうちにと、謙太はスマホのメモに昨夜のやり取りを記録した。
(そもそも俺が店員に見せたのは、KENのちょっと古い写真だ。
最近の写真を見せられなかったのは今回の捜索の性質上、仕方ないんだけど、この半年ぐらいでぐっとあか抜けてかなり雰囲気が変わってるんだから、≪ウィリデ≫の店員が見たのはちょっと似てるだけの別人かもしれない……)
***
電車を乗り継いで事務所に着いた謙太は、まず前日の日報をまとめてメールに添付して木下所長に送り、それから佐川の携帯に電話をかけた。
だが会議中か何かなのか不在になっていたので、簡単に前夜の結果をまとめて留守電に入れた。
≪ミシェル≫の女性従業員の話は信憑性が低いが、裏取りのため行った≪ウィリデ≫の店員からは、KENに似た男性を見かけたという証言を得られた。ただし、本人かどうか、断定するには至らなかった…と。
朱里から連絡が入っても、昨夜のことはまだ話さないほうがいいだろうと、謙太は思った。
そして、自分やKENを尾行していたであろう朱里に対し、どうしてここまで同情してしまうのかと、やや不思議に思う。
(いかにも可哀そうな感じの人なので、つい可哀そうになった…ってことかな。
俺が探偵だってどうやって突き止めたかが分かれば、そこまで不気味がる必要はなくなるだろうし、何より彼女がいるおかげで調査がやりやすくなってるのは否めないし…)
調査がやりやすくなったとは言え、それほど進展したわけではないが、失踪の直前に涼との間に何らかのトラブルがあったと分かったのは、大きな収穫だと、謙太は思った。
とはいえ、それは謙太がKENはすでに殺されているという仮説を最有力候補として重視しているからであって、KENが生きていて自らの意志で姿を消したのであれば、その行方を捜す役に立つかどうかは微妙だ。
涼とのトラブルの話を報告した時、佐川の反応が今一つだったのは、そのせいかもしれない。
謙太はインターネットで≪ウィリデ≫を検索した。
メニューを確認すると、モエ・エ・シャンドンのモエ アンペリアルをグラスで注文すると2千円弱だが、フルボトルは1万3千円ほどする。
(グラスで頼んどけば2人で4千円もかからないのに、ボトルを開けさせたからその3倍以上、かかったのか)
大学時代のコンパは飲み放題付きで5千円が相場、就職後の事務所の飲み会でも同程度の予算の店しか経験したことのない謙太にとって、グラス2杯の酒に1万3千円をポンと出す客の感覚は、想像しにくかった。
グラスでも注文できるのに、わざわざボトルを開けさせた理由も分からない。自分だったら、同行者がそんな酒の飲み方をしたら、もったいないとしか思えない。
(≪ウィリデ≫で目撃された若い男は、嬉しそうだったとあの店員は言ってた。
4倍の金を出してドンペリを注文してくれたなら嬉しいかもしれないけど、グラス2杯しか飲まない酒にフルボトルの金額を出してくれたからって、嬉しいのか…?)
昨夜は、≪ウィリデ≫に来ていた若い男は、KENにほぼ間違いないと、謙太は思っていた。
だが今朝になってマダムがKENに連絡を取った方法が分からなくなり、モエ アンペリアルの女性と一緒にいた男は他人の空似に過ぎないとも考えた。
それでも庶民感覚では理解できない金の使い方をする金満家が実在して、六本木で若い男を
(何だか、何もかも一気に分からなくなった気分だな…。
≪ウィリデ≫に来ていた男はKENなのか、KENじゃないのか、駿の言葉が本当なら、マダムはどうやってKENに連絡を取ったのか。
KENが、音信不通の母親に見て欲しいと言っていた話すら、心からの言葉なのかメンバーを丸め込むための巧みな話術なのか、全く分からない…)
***
朱里は夜勤から戻ってシャワーを浴び、短い仮眠を取った。
月曜からずっとこんな調子なのでさすがに睡眠不足の蓄積を感じるが、ゆっくり眠る気にはなれない。
ずっとKENについて考えているせいか、このごろは眠るといつも一番つらかった中2の頃の夢を見る。
それが怖くて、眠りにつくこと自体が恐ろしい。
≪ブリリアント・ノイズ≫のKENとなった鈴木健太との再会には、運命を感じた。
整形費用として貯めていた金の殆どをライブとグッズにつぎ込んでしまったが、悔いはなかった。
両親が悲しむかもしれないと思うと、いわゆるプチ整形でもどうしても踏み切れなかったので、いずれにしろ手術は受けられそうになかったのだ。
その≪ブリリアント・ノイズ≫のライブが突然キャンセルとなり、SNSの更新も途絶えた。
KENの身に何が起きたのか調べるため、夜勤シフトに変えてもらって昼はノース・エンタープライズの事務所が入っているビルを見張った。
他の会社も入っている雑居ビルだが、1階のロビーまでは自由に出入りできるので、朝からロビーにじっと座って、ノース・エンタープライズの事務所受付がある5階でエレベータを乗り降りする人間を探したのだ。
月曜には一日中、座っていたのに、それらしき相手を見つけられなかった。
いちどに複数の人間が同じ階で乗り降りするので、対象を絞れなかったのだ。
火曜には観察にも慣れてコツを掴んだので、誰が5階で乗り降りしたのか、大体分かるようになった。
その後は、文字どおり目まぐるしく展開した。
5階でエレベータを乗り降りした芸能界関係者風ではない若い男の後をつけると、初めにギターの翔、次にベースのTAKUのアパートを訪れ、探偵事務所が入っているビルに帰っていったのだ。
見知らぬ相手――それも若い男――にあんな風に自分から声をかけるなんて、普段の朱里には考えられない話だ。
だがどうしてもKENの身に起こっていることを知り、行方をつきとめたいという想いの強さが、羞恥心や
幸いにしてその若い探偵は、KENの婚約者だと名乗った朱里を
「新里さん、良い人だな…」
小さく、朱里は呟いた。
そして心の声が口をついて出ていたことを、やや意外に思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます