第31話 モエ アンペリアルの女

 5千円と引き換えに≪ウィリデ≫というカフェの名前を聞き出したので、謙太はその店に向かった。

 カフェと言っても純喫茶ではなく、アルコールも飲める店のようだ。むしろ場所柄を考えると、そのほうがメインなのだろう。

 木曜の夜8時頃なので、一足早く週末を楽しむ男女で店はかなり混み合っていた。


「ご予約のお客様でしょうか」

 謙太が店内を見回しながらうろついていると、店員が歩み寄ってきて聞いた。


「あ…ええと、友達とこの店で待ち合わせしてたんですけど、時間を1時間、間違えた上に仕事が忙しくてメールとか全然チェックできてなくて…。

 この人なんですけど、もう、帰っちゃいましたかね」


 KENを捜索していることはなるべく伏せておかなければならないので、適当に作った話を聞かせながら謙太はスマホを見せた。

 佐川から預かった写真はスターオーラが出過ぎているので、≪ブリリアント・ノイズ≫の昔のSNSから取った画像を見せた。

 余り派手な服装だと普通のサラリーマンである自分の友人には見えないだろうと考え、なるべく大人しそうな感じの写真を選んである。


「30分以上、放置しちゃったんで腹を立てたんだか、電話もメールも無視されちゃって連絡つかなくて…」

 まるでワガママな彼女の話でもしているようだと思いながら、謙太は言った。


 そういえば、大学2年の時に短期間だけ付き合った女性は、こちらからの連絡が少しでも遅れると盛大に拗ね、宥めるのに苦労したので疲れてしまって、正味3か月も続かなかったなと、謙太は思い起こした。


 謙太の交際相手の中では一番容姿が整っていたので、初めは「こんな美人がどうして俺なんかと付き合ってくれるんだ?」と不思議だったが、すぐに納得した。

 その上、次々と交際相手を変えるせいで彼女にはかなり不名誉で性的なあだ名がついていて、それを知っている男は基本的に彼女には近づかないのだと、別れてから知った。


 そんな、甘酸っぱいというより苦々しい思い出に思わず眉根を寄せた謙太に、店員は微妙な表情を向けた。


(何か怪しまれたかな。

 こんな時間にこんな場所で男2人が待ち合わせって、確かに怪しいかもしれないけど…)


「似た感じの方はいらっしゃいましたけど、たぶん、お客様のお友達ではないと思います」


「…え? 来てた…んですか?」


 ≪ミシェル≫の女性従業員の情報は謝礼目当ての嘘で、念の為、一応確認しに来ただけのつもりでいた謙太は、店員の言葉に驚愕した。

 店員は軽く頷き、付け加える。


「7時前後に女性のお客様と一緒にいらっしゃって、30分ほどですぐ出ていかれました」

「その女性ってまさか、わりと年配でかなり裕福そうな人では…?」


 謙太が聞くと、店員の表情は「微妙」からはっきり「胡散うさん臭そう」に変わった。


(まさか本当にKENが生きていて、マダムと一緒にこの辺で遊び歩いているのか?

 プロダクションにも他のメンバーにも迷惑かけて、星野さんをあんなに心配させておきながら、そんな…)


 心臓の鼓動が速く強くなるのを、謙太は感じた。


 とても平静を保っていられなくなった謙太の表情に、店員はますます不審そうに相手を見ている。

 冷静になれ、そしてどんな手を使ってでも聞き出せるだけの話を聞き出せと、謙太は自らに言い聞かせた。

 そして店員に目配せして身振りで店の隅の方に誘導し、≪ミシェル≫の女性従業員への謝礼とは別に隠しておいた一万円札を小さく折りたたんで、こっそり店員の手に握らせる。


「…ふたりがどんな様子だったか、もう少し詳しく教えて頂けませんか?」


 店員は握らされた一万円札にちらりと目をやり、困惑の表情を浮かべた。


「名前とか連絡先とか、個人情報を知りたいわけではないんです。ただ、その時の様子をもう少しだけ…」

「そう言われましても、その男性はお客様のお友達ではないんですよね?」

「彼がそうかもしれないんです。

 一緒にいたのが金持ちそうな年配のマダムなら、まず間違いなく」


 謙太は言ったが、店員は不審感を募らせるばかりのようで、口を噤んでしまった。


 やむを得ず、奥の手を出す。


「お願いします…!

 実は、彼は僕の恋人なんです。

 一緒に住む約束をして部屋の契約までしてたのに、どこかの金持ちマダムに誘惑されて連絡が取れなくなってしまったんで、必死に探してるんです…」


 周囲に聞かれないよう小声で、それでも懸命さが伝わるように謙太は言った。

 店員の目つきは、不審者を見る目から、異質なものを見る目に変わる。


 作戦を誤ったかと謙太が後悔した時、視線を逸らして店員は口を開いた。


「……だったら諦めたほうがいいと思いますよ。

 その女性は60歳くらいだったけど服装やら装飾品やらそうとう金がかかってたし、若い男性の手を握ってイチャイチャしてましたからね。

 男のほうも、嫌がるどころか嬉しそうな顔して、間近に見つめ合ったりして」


「そんな……」

 

 謙太の声と表情が絶望に打ちひしがれていたのは、演技ではなかった。

 朱里にとって、最悪の事態になってしまった――その事実が、謙太を打ちのめしたのだ。


「……あの、その女性客は予約はしてなかったんでしょうか」

 それでも、得られるだけの情報を得ようとして謙太は聞いた。


「30分しかいなかったんだから、してなかったんでしょうね。してたとしても、名前を教えるわけには…」

「次にふたりのどちらかが来店したら、連絡していただけませんか?」


 自分の個人携帯の番号だけを書いたメモを財布から取り出して、謙太は言った。

 木下探偵事務所の名前を出せない調査の時用に、何枚か用意してある。

 店員はそのメモにちらりと目をやったが、すぐに視線を逸らした。


「…お気の毒だとは思いますが、トラブルになると、うちも困るので」

「いえ、決してご迷惑はおかけしませんので…」


 なるべく穏やかな口調で言って自分が冷静であることを示そうとしたが、これ以上、食い下がればかえって「大きな火種を抱えている」と看做みなされるだけだけだと、謙太は思った。

 それにKENが行方不明であることは秘密にしなければならないので、ここで目立つわけにもいかない。

 それで、一縷いちるの望みを託してメモは作業台の上に残し、踵を返した。


「モエ アンペリアル」


「…はい?」

 店を出ていきかけた謙太の背中に、店員は言った。


「その女性客、モエ アンペリアルのボトルを開けさせておきながら、グラスに1杯ずつ飲んだだけで出ていきました。

 うちではグラスでも提供しているのに、わざわざフルボトルを開けさせておいて、2杯だけで…」


 話を聞くために謙太は店員に向き直ったが、店員は視線を逸らしたままだ。


「…あの、モエ アンペリアルというのは…?」

「モエ・エ・シャンドンのモエ アンペリアルですよ」

「モエ・エ・シャンドンて、確かシャンパンの名前ですよね? ドンペリと同じ会社で作ってる…」


 店員は頷き、逸らしていた視線を謙太に戻した。

「値段は4倍以上、違いますけどね」


 客から呼ばれ、店員は謙太のメモを作業台の上に置いたまま、そちらのテーブルに歩いていった。

 店員が受け取ってくれる可能性がないと分かったのに、こんな所に自分の個人携帯番号を残すわけにはいかないので、謙太はメモをしまい、店を後にした。


 謙太は六本木からまっすぐ家に帰ったが、佐川に報告はしなかった。


 朱里にどう伝えれば良いのか思い悩み、夜がけても眠れなかった。

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