第30話 交渉

(やっぱり、顧客対応マニュアルのどこにもそんなの、載ってないな…)


 ノートPCのハードディスクに入れてある顧客対応マニュアルのPDFを改めて読み返し、謙太は内心で溜め息をついた。


(相手が話したがっていない内容を聞き出す方法とか、非協力的な相手の心を開かせて話させるやり方は載ってるけど、情報料の値段交渉なんて……)


 こうして改めて考えると自分はつくづくマニュアル人間なのだと思い、謙太は気持ちが落ち込むのを感じた。


(探偵業2年目で、たまにだけど単独調査を任されるようにもなって、少しは仕事に慣れてきたかと思ってたけど…。

 俺のやってることって、マニュアルどおりに喋って、マニュアルどおりに誠実そうな顔して、マニュアルどおりに名刺渡して資料説明して、マニュアルどおに日報を書く――それが全てじゃないか)


 マニュアルがあれば誰にでもできることを、マニュアルどおりにやってるだけ――。


(そう考えると、俺の人生ってつまらないな……。

 私立探偵って言っても子供のころ映画やドラマで憧れた存在とはかけ離れてるし、そもそも望んで私立探偵になったわけじゃなくて、数えきれないほどの『お祈りメール』の末に辿り着いた末路ってだけだし……)


――お前は、子供のころから探偵になるって言ってたもんな。


 不意に、兄の言葉が謙太の脳裏に蘇った。


 どうにかギリギリで就職浪人にならずに済み、零細企業とはいえ正社員での就職が決まったことを伝えた時、電話の向こうで蒼司は優しく言ったのだ。


――それであの…父さんと母さんにはこれから話すんだけど、探偵事務所なんて胡散うさん臭いって言われそうで…。

 現役警察官として、何かアドバイスがあれば聞きたいんだけど。

――そうだな。探偵業法に基づいて警察に届け出を提出し、公安委員会から探偵業届出証明を交付されていることは必須条件だな。

――あ…分かった。すぐに確認してみる。


 就職が決まってからの確認だったが、両親には面接時に確認したと嘘をついた。

 あまりに「お祈りメール」を受け取り続けたので、木下探偵事務所に面接を受けに行った時にも採用されるとは思っておらず、事前調査も何もしなかったのだ。

 公共職業安定所ハローワークの求人票に出ていたのだから、そこまで怪しいところではないだろうくらいの認識でしかなかった。

 公共職業安定所ハローワークの求人でブラック企業に入社してしまい、精神を病んで入院したゼミ仲間がいると風の噂に聞いたのは、その半年後のことだった。


(そこまで仲の良いヤツじゃなかったから噂が本当かどうか分からないけど、うちは給料は安いものの有給だってちゃんと取れるし、案件によっては深夜・早朝勤務や土日出勤もあるけど法律どおりに残業代も出るし、パワハラ上司もいない――どころか昼の事務所はほぼ無人だけど、しっかりしたマニュアルがあるから仕事で困ることはほとんどないし…)


 そこまで考えて、謙太は自分が贅沢な悩みで勝手に落ち込んでいるのだと気づいた。


 映画と現実は違うとはいえ、考えようによっては子供のころからの憧れの職業に就けたのだ。

 今回の調査では「マニュアルどおり」では対処できない事態にぶつかって、何をすればいいのか途方に暮れて自己嫌悪に陥ってしまったが、マニュアルで対処できないなら、自分の頭で考えて行動すればいいだけだ――。


 そう思い直し、謙太は金額交渉の作戦を立て始めた。


***


「こんな裏口で立ち話ぃ?」


 KENを見かけたという触れ込みの女性従業員は、不満そうに口を尖らせた。

 金のかかっていそうなドレスにスタイルの良い身体を包み、美人の部類に入る顔立ちではあるものの、高級クラブのキャストにしては少々、品位に欠けるようだと謙太は思った。


 どの程度の情報料を要求してくるか予測を立てるためインターネットで≪ミシェル≫の求人情報を調べたが、平均日給は3万円ほどだ。

 六本木の高級クラブのほとんどは≪ミシェル≫と同じく午後8時から翌1時の営業で、彼女たちの勤務時間も5時間と決まっているので、時給ではなく日給で計算されるのが一般的なのだ。


(佐川さんは上限5万って言ってたけど、日給3万なら3万を上限で交渉しても良さそうだ。

 ちょっと情報を話すだけで日給分が稼げるなら、文句はあるまい)


――だけどそれはあくまで上限であって、謝礼欲しさのガセネタだったらビタ一文、出す気はないから。


 佐川の念を押す言葉が、謙太の脳裏に蘇った。

 経費で認められないと、そのまま謙太の自腹になってしまう。彼女たちの倍の時間働いても半分も稼げない謙太にとって、3万の出費は余りに痛い。


「部外者を店内に入れるわけにはいかないから、仕方ないんだよ」

 宥めるような口調で、黒服は女性従業員に言った。


「でぇ、最低5万はカタイって聞いてるんだけどォ、本当?」


(はァ? この黒服、そんなこと言ったのかよ) 


 黒服を睨みたい気持ちを抑え、謙太は営業スマイルをどうにか保った。


「それは情報の精度と信憑性、有用性に依存します」

「つまり、あたしの言葉が信用できないって言いたいの?」


 語尾を伸ばした媚びるような態度をいきなり引っ込め、きつい口調と表情で女性従業員は言った。

    

 謙太は動じず、営業スマイルを浮かべ続ける。

 今夜は、KENに関する情報提供について交渉したとき参考にした映画の主人公のイメージを貫こうと、心に決めていた。


 とはいっても、その主人公の探偵は五十絡みの渋い中年男性なので、20代前半の自分がそのま

ま真似ても滑稽なだけだと、謙太にも分かっていた。

 なので、顧客対応マニュアルで身に着けた「誠実そうな態度」と、なるべく爽やかそうに見える営業スマイルを保持したまま、自信に満ちた堂々とした態度を示すよう努めた。


「仮に信じていないなら、わざわざここまで足を運びませんよ」


 黒服が「開店前の準備が忙しい時にわざわざ時間を割くわけだから」と言っていたので、謙太も「わざわざ」足を運んだのだと、さりげなく主張した。

 お互い、この件の為に時間を費やしているのだと明らかにすることで、対等の立場に立つことを目論んだのだ。


「それで、あなたがKENさんらしき男性を見かけたのは、具体的にどこのカフェですか?」

「その前にまず、謝礼でしょ。

 品物の取引と違って喋ってしまったらそれで終わりなんだから、先にもらうもの貰わないと」


 その言い分は妥当だと思ったので、謙太は財布から五千円札を1枚、取り出した。吹っ掛けられる可能性を考慮して、わざと少ない金額を示したのだ。

 謙太の予想どおり、女性従業員はたちまち不機嫌になった。


「ふざけてんの? 桁が違うでしょ、桁が」


(怒るとキレイな顔が台無しだぜ?)


 映画の探偵の台詞を脳裏に浮かべ、そう口にしたつもりで相手を見つめる。


(もっとも、気の強い女は嫌いじゃない)


 そこまで脳内イメージを浮かべた時、さすがにイメージ元の人選を誤ったかと謙太は思ったが、今更後悔しても遅い。

 六本木に向かう電車の中で「このイメージで行こう」と決めた時には忘れていた映画の細部が今になって思い出され、正直、気恥ずかしい。


 だがやり始めてしまった以上、止めるのも路線変更も不可能だ。「失敗したら5万、自腹だ」と自らに言い聞かせ、やり遂げる決意を固める。


「無論、これが全額というわけではありませんよ。先ほども申し上げたとおり、情報の精度と信憑性、有用性に応じて謝礼も変わります」


 映画の主人公の堂々とした態度はならいつつ、言葉遣いの丁寧ていねいさは崩さない。

 女性従業員は、謙太の財布の中身を覗き込むような視線を向けた。

 最初から5万、入っていると知られたら交渉にならないので、財布には五千円札2枚しか入れていない。

 女性従業員の顔が、侮蔑に歪む。


「そんなはした金で情報を聞き出そうなんて、六本木舐めてんの?

 バカバカしい。話すの止めた」


「昨夜」

 踵を返し、通用口からビル内に戻ろうとした女性従業員の背中に、謙太は言った。


「…はァ?」

「私がKENさんの写真を示して情報提供を依頼したのは、昨夜のことでした。

 昨日の今日でKENさんの目撃者がいきなり現れるなんて、少々都合が良すぎると思いませんか?」


 謙太の言葉に、女性従業員は再び不機嫌になった。


「やっぱりあたしを信じてないんでしょ。もういい。アンタなんかじゃなくて、ちゃんとあたしの言葉を信じて、あたしの話に――」

「高い値段をつけれくれる人に、情報を売る…ですか?」


 相手の言葉を遮って、謙太は言った。


「これまで私以外に、KENさんを探してお店に話を聞きに来た人はいましたか?」

「それは……」


 女性従業員は困惑し、黒服に視線を向けた。

 黒服はやや考えてから、渋々といった調子で首を横に振る。


「KENさんを目撃し、その情報を提供してくれる方はあなたの他にも現れるかもしれません。場所も、六本木とは限りませんし」


 ですが、と、「誠実そう」ではあるが堂々とした態度と爽やかな笑顔を保ったまま、謙太は続けた。


「あなたの曖昧な情報に謝礼を出そうとする者が、今後、私以外に現れるでしょうか」

「酷い…! 本当に見たんだってば。ついさっきの話だから、間違いないし」

「その時、撮影はなさいましたか?

 たとえ小さくとも相手がKENさんだと識別できる写真があって、撮影日付が本日だと確認できれば、相応の謝礼はお渡しできますが」


 謙太の言葉に、女性従業員は口ごもって俯いた。


(これはもう、完全に謝礼目当ての嘘だな。

 たとえ嘘でないにしろ証拠のひとつもないんじゃ、佐川さんに経費として認めてもらえない)


「…だって見かけたのはお店に来る前だし、お店に来てからその男の子を探してる人がいるって聞かされたんだし、知らなかったのに写真とか撮るワケないし…」

「レイちゃん、もう時間がないよ。これ以上、やってると開店時間に間に合わない」


 宥めるように女性従業員に言ってから、黒服は謙太の手の中の五千円札に視線を戻した。


「もう、それでいいから渡してやってよ。

 六本木の高級クラブのキャストと会話できたんだから、その程度のチップははずんでもいいだろ」


(涙を拭けよ。美女に泣き顔は似合わない)


 映画の主人公の台詞を脳内で呟きながら、謙太は五千円札を相手に渡した。

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