第19話 試作品
その日から、消しゴムがなくなったりペンの数が足りなくなったり、ちょっとした物がなくなるようになった。
それはすぐにエスカレートし、ノートや教科書が破られ、机やカバンに生ゴミが入れられることもあった。
そしてそれはひどく巧妙で、ノートや教科書の外側が破られることはなく切れ端がそのまま挟まっていたので、周囲に気づかれることもなければ誰かに教科書を借りなければならない事態にもならなかった。
生ゴミは、その日の給食で出た果物の皮だったり牛乳のパックだったりして、少女が自分で入れたように見えなくもなかった。
――全然、似てないきょうだいってさ、遺伝子どうなってんだろうね。
――いきなり何? 劣性遺伝子とか優性遺伝子とか、そういうハナシ? 何とかの法則だっけ?
少年の言葉が少女の日々を変えた時から、少女を貶める言葉が公然と口にされることはなくなった。
――この前、親戚の家で仔犬が生まれたんだけど、それがメッチャ可愛いのとメッチャぶちゃいくなのでさ。ぶちゃいくな子はもう、オコゼかって顔してて。
――オコゼって魚じゃん。オコゼみたいな犬ってありえねーし、ウケる…。
あからさまな
それは余りに巧妙で、それだけ聞けばただのたわいない雑談にしか聞こえない。
――でもホラ、ブサかわとかいるじゃん? ブサいけど可愛いってヤツ。
――いるけど、それはぶちゃいくな中にも可愛さがあるって子の話であって、ブサイクな上に何の可愛げもなかったら、それはただのぶちゃいくでしょ。
――その言い方は可哀そうだよ。どんな顔してても、仔犬や子猫は可愛いじゃん。
――うん、まあそーだね。仔犬や子猫だったらね…。
少女の破られたノートの切れ端には、背びれ側に長いトゲのある酷くゴツゴツした印象の魚の絵が描かれていた。
きっとこれがオコゼという魚なのだろうと、少女は思った。
――何とかのミコトの話って知ってる?
――えっ、何? 何の話?
――神話か何かに出てくる神で、何とかサクヤヒメっていうすっごい美人の女神に一目ぼれしてプロポーズしたんだって。
――何とかが多すぎー。で?
――で、サクヤヒメの父親は喜んで、妹のイワヒメとかいう女神とセットで結婚させようとしたんだって。
――セットでって…。毒親じゃん。
――で、イワヒメはブスだったもんで、何とかのミコトは美人の姉だけもらって、ブス妹は突っ返したんだって。
――その男、クズすぎ…。ってかまず父親がクズ。
――それって古事記だかに出てくる話でしょ? 姉と妹、逆だよ。
傍らで聞いていた女子生徒のもうひとりの友人が指摘すると、女子生徒は周囲に気づかれない程度に、少女に嘲るような視線を投げた。
――そうだっけ? 何かお姉さんが美人で妹がブスって印象が強くさー。逆だったか…。
少女は黙って席を立ち、それ以来、休み時間はなるべく図書室に
それが、少女が自分を守るためにできる唯一のことだった。
***
前の日は六本木の≪ミシェル≫から直帰したので前日分の日報を作って提出したが、それが終わると「次に何したらいいんだ…?」と、謙太は悩んだ。
朱里からはKENのマンションの住人に話を聞き、何か分かったら知らせると言われている。
≪ミシェル≫の黒服も、次にKENが店に来たら電話してくれるはずだ。
だからと言って、2人からの連絡をただじっと座って待っているわけにはいかない。
(駿の言っていたことが本当でKENがどこかの金持ちマダムの所にいるなら、これ以上メンバーに話を聞いても無駄だろう。
でももし嘘をついているなら…?)
駿の話を聞いた後でも、どうしても第1の仮説は捨てられなかった。
いくらマダムに与えられた贅沢が魅力的でも、やっとつかんだチャンスをあっさり棒に振るとは、やはり謙太には考えられなかった。
何より、10年以上音信不通になっている母親に見て欲しいというKENの願いは、そう軽いものではないはずだ、とも思う。
(駿はかなり手強いからこれ以上、話を聞いてもボロを出しそうにないけど、翔かTAKUなら、あるいは…)
謙太は、まず翔に電話をかけた。
しつこくなりすぎない程度に食い下がれば、何か聞き出せるかもしれないと期待したのだ。
だが、翔は電話に出なかった。TAKUにもかけてみたが、同じだった。
留守電に、折り返し連絡が欲しいとメッセージを残す。
火曜に調査を開始し、まだ木曜だというのに早くも行き詰まってしまった。
昨日、岩崎に助言をもらったばかりなので、他の先輩に聞いて回るというのも気が引ける。
(そもそも所長はなんでこんな面倒な案件を俺に振ったんだろう。
失踪したこと自体が秘密だから、ビラ配りはダメ、近所への聞き込みもダメ、ファンへの接触もダメなんて、経験豊富な調査員ならともかく、俺みたいな新人同然の人間じゃ、どうしていいんだかさっぱりだ)
むしろ制約の多い案件だからなのか? と、謙太の心に暗い疑惑が湧く。
(ベテランでもどうしようもないような、誰がやってもダメそうな案件だからこそ、俺に振られたのか?
どっちみち結果が出せそうにないなら、俺みたいな下っ端にやらせとけば十分だって…)
「なに朝っぱらから溜め息なんてついてんだよ」
無意識のうちに溜め息を漏らした謙太に、隣の席の久保が言った。
思わずムッとした表情を浮かべた謙太に、久保はニヤリと笑う。
「例のボーカルの失踪事件。進展が思わしくないのか?」
あからさまな問いに、謙太は渋々頷いた。
「だから俺に任せときゃ、良かったんだよ。俺ならインディーズにも詳しいし」
「≪ブリリアント・ノイズ≫をご存じなんですか?」
「あ…いや、そのバンドは知らねえけど」
言って、久保は視線を逸らした。
木下所長に調査方法について聞かれた時にもしどろもどろになっていたし、確固とした方針があるわけではなさそうだ。
「…久保さんの不倫調査のほうは、順調なんですか?」
「あっと、いつまでも雑談してらんねえ。仕事しごと」
謙太の問いには答えず、久保はカバンを掴むと事務所を出ていった。
ドアが閉まると、謙太は再び溜め息をつき、調査のヒントを求めて≪ブリリアント・ノイズ≫のSNSをチェックすることにした。
調査を始めてすぐの時も確認していたが、朱里の言葉を思い出し、1か月前まで遡ってみることにしたのだ。
――今日は新曲が3曲も聴けて幸せ!
――アレはちょっとナシだな 曲はともかく歌詞がワケわからなすぎ…
――スゴイことってメジャーデビューかな
――メジャーデビューはいいけど、そのせいで方向性が変わったんなら歓迎できない
――オレはメジャーデビュー自体、ナシだな 小さなハコでステージとの一体感が味わえるのがインディーズの良さなのに
朱里の言っていたとおり、KENの作詞した
好意的なメッセージを寄せたのは、他ならぬ朱里ひとりだけだったのかもしれない。
その翌週のライブでもひとつの試作品が公表され、その時の反響も
――これが彼らの新しい方向性なら、もうファンやめるかも
――メジャーなんていかなくていい 今までのブリリアント・ノイズに戻って
2度の失敗に懲りたのか、更に翌週のライブで発表された試作品1曲は、以前の≪ブリリアント・ノイズ≫の作品に近い物だったようで、ファンの評判もおおむね良かった。
(この2週間でKENの作詞能力が別人のように向上した…とは考えにくいな)
謙太は、KENがひとりで作詞・作曲したことにするというプロデュース方針について話した時、佐川が言いにくそうな表情で視線を逸らしていたことを思い出した。
(もしかして、新しいプロデュース方針に沿ってKENが作詞・作曲を担当する予定だったけど、作曲はもちろん、作詞についてもKENの作ったものじゃあまりに不評だったので、名義だけKENで、実際には他の3人で作ることになったって話なのか…?)
謙太は更に、KENは楽器ができないので曲も作れないと駿が言っていたことも思い出した。
(だったら作曲についても、『残りのメンバーがかなりフォローして、それでようやく形になる』っていうのすら嘘で、作曲も編曲も完全に他の3人。KENはできた曲を歌うだけか)
そうであれば、他の3人の反発と不満が強かったのも納得できる。
一旦、KENが受け取った著作者印税を3人で分けるとしても、曲作りに携わっていないKENの名前だけ出るのでは、アーティストとしてのプライドが傷つくだろう。
最近のSNSを確認すると、先週の月曜を最後にメンバーによる書き込みは途絶えている。
先週土曜のライブが中止になったことを告知する事務所からの投稿があり、今週の水曜、つまり昨日には何事もなかったかのように書き込みが再開され、KENを名乗る者のメッセージも寄せられている。
が、それはおそらく他のメンバーがKENを装って書き込んだのだろう。
先週のライブが中止になりSNSの投稿も止まっていたので、何があったか尋ねるファンのメッセージが増えている。
だがそれに対するメンバーからの回答は見られず、ライブキャンセルに対する簡単な謝罪の投稿があるだけだ。
先週の月曜まではファンの書き込み対して――それが好意的であろうと
そして、それに呼応するように、ファンのメッセージに批判的な内容のものが増えている。
――ライブ、ドタキャンとかありえねーし こっちはわざわざ時間の都合つけて行ってやったのに
――最近、曲もなんかおかしくなってきてたし どうしちゃたの?
――メジャーデビューが決まったからって、以前からのファンを蔑ろにするのはどうかと思います
(ファンが怒るのは当然だよな。
それなのにちゃんとした説明も誠意ある謝罪も何もない。ファンを
KENがどこかの金持ちマダムの愛人になってバンドを捨てたっていうのもファンにはかなり言いにくい話だろうけど、それが理由なら最後にお別れライブでもやってきれいに解散することだってできたはずだ。
それすらできないとなれば、やはりKENはもう……)
この世にはいないのだろうと思った時、携帯が鳴った。
表示された名前を見て、謙太はやや憂鬱になった。
KENの生存はほぼ絶望的だろうと考えていた時に、その死を誰よりも悲しむに違いない相手と話すのは、気が重かったのだ。
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