第16話 母の気持ち

――いじめとか、ダッセ。


 少年がそう言った時、彼は義憤に駆られたわけでもなければ、正義感に突き動かされたわけでもなかった。


 ただ、思ったことを口にした――彼に取っては、その程度でしかなかった。


 だがその瞬間に、少年のその言葉は少女の日々を、以前とは異なったものに変えた。


***


「ただいま」


 ≪ミシェル≫に向かう前に事務所には直帰すると連絡しておいたので、謙太はそのまま家に帰った。


「お帰り。遅かったわね」

「ちょっと仕事で六本木まで行ってたから」

「そう。ご飯、できてるから」


 テレビ画面から視線をそらさず、智子は言った。

 ダイニングテーブルの上にはラップをかけた生姜焼きの皿。それに、ご飯茶碗とみそ汁椀が伏せて置いてある。

 それぞれ2人分だ。


「父さん、今日も10時まで仕事?」

「だって、店の営業時間が朝9時から夜10時までだし」

「それは知ってるけど…。そこまでお客さん来ないなら、営業時間短縮したって…」


 謙太の父・博は小さな酒屋を経営している。


 祖父の店を受け継いだのだが、最初から酒屋を継ぐ気は、博にはなかった。

 だが会社勤めで色々あって、結局は「家業」を継いだのだ。


 元々、小さな店で大した儲けもなかった上、近所にコンビニができ、2つ隣の駅に大手の酒量販店ができて、さらに経営は苦しくなった。

 それで、それまで店を手伝っていた智子は家計を支える為、スーパーの総菜調理のパートに出ることになったのだ。


「私も前、お父さんにそう言ったんだけど。もう年なんだから、あんまり無理しないで…って。

 でも、夜は飲食店の臨時の配達注文とかで結構、売り上げがあるし、朝は朝でお客さんが来ないうちにやっとかなきゃいけない仕事もあるし…って」


(俺が毎月いくらか家に金を入れたからって、大した助けにはならないってことか…。

 そもそも大学の学費を出してもらってるから、それを考えたら…)


 謙太は手取りの半分以上を家に入れているが、一人暮らしをすれば家賃と食費でもっとかかるだろう。

 智子は料理が得意でやりくり上手だと博が誉めていたことがあったが、料理がほとんどできない謙太が一人暮らしなどすれば、エンゲル係数は無駄に上がるに違いない。


 着替えのために2階の自室に上がるのが面倒なので、謙太は上着を脱いで空いている椅子の背にかけた。

 みそ汁の鍋を火にかけ、生姜焼きの皿を電子レンジに入れる。温めが終わるのを待つ間に、炊飯ジャーからご飯をよそった。



 食べ終わって食器を流しに運んだ頃には智子の見ていたドラマが終わり、CMが流れている。


「母さん。もし仮にさ…父さんと離婚することになったとして――」

「はあ? なに言い出すの、この子は。お父さんと離婚なんてするわけないでしょ」


 振り向き、きつい口調で智子は謙太の言葉を遮った。


「いや…あくまで仮。って言うか、うちの話じゃなくて単なる一般論として、子供のいる母親の気持ちを聞いてみたいっていうか…」


 智子の剣幕に、謙太は慌ててそう言った。

 それでも、智子は不審げな顔で謙太を見ている。

 謙太は質問したことを後悔したが、ここで止めたら却って怪しまれるだろう。


「詳しいことは話せないんだけど、今やってる仕事関係でちょっと参考意見を聞きたくて…」


 謙太の言葉に、智子はようやく表情を和らげた。


「一般論っていうか母さんの個人的な意見でいいんだけど、小学3年くらいの子供がいる夫婦が離婚するとして、母親が子供を連れずに家を出るって普通かな…?」


 智子はやや思案してから口を開く。


「殆どのケースでは、母親が親権を取って子供を連れてくでしょうね。ましてや小3ならなおさらだわ」

「だよね…。だったら母親がそうしないのは、どんな理由が考えられる?」

「経済的な理由で父親と一緒のほうが子供の幸せになると考えたか、そうでなければ…」


 一旦、言葉を切り、それから智子は続けた。


「夫とは別の男の人と恋仲になったのが離婚理由なら、その人が子連れ再婚を望んでいないとか。その人が反対してなくても、義父による子供の虐待なんて事件もあるし」

「それってどっちも、子供の為を思ってだよね?

 だったら、何らかの方法で子供と連絡とったりするんじゃないのかな。

 家を出ていった母親がその後、音信不通になって、元夫だけでなく子供にも居場所を知らせないとしたら…」


 智子は、心配そうに眉を曇らせた。


「今やってる仕事って、いなくなったお母さん探しとかそういうの?」

「いや…一応、探偵にも守秘義務があるから、仕事の内容までは話せないんだけど…」


 智子は頷いて理解を示した。

 そして、再び考えを巡らせてから、言う。


「10歳にもならない子供と離れ離れになったら、私だったら心配で毎日でも連絡とりたいって思う。

 でも、事情は人それぞれだし、音信不通になったからって、そのお母さんが子供のことを心配していないとは限らないし、子供に会いたと思ってないなんて、決めつけられないでしょ」 


 謙太は、黙って頷いた。

 時刻は9時になり、テレビでは歌謡番組が始まる。


「じゃあ、例えば10年以上前に家を出ていった母親がいたとして、今、二十歳くらいになった子供が成功してテレビに出たとしたら?」

「そりゃ、親としては嬉しいわよ。

 ずっと音信不通なら今更…って気後れして連絡取れないかもしれないけど、それでも喜ばないはずがない」


――ただ、見てもらえたら、聴いてもらえたら、それだけでいい…。


 翔から聞いたKENの言葉を、謙太は思い起こした。


 TAKUや駿からいくらKENの悪い話を聞かされても、その言葉を聞いた時の衝撃が忘れられない。


 KENの母親がどんな事情で幼い息子を置いて出ていったのか分からないが、自分がアーティストとして成功した姿を見せれば、きっと喜んでくれるとKENは信じているのだろう。

 それに智子の言うとおり、KENの母親は喜ぶに違いないと、謙太も思う。


(TAKUが言ってたとおり、離婚の話が同情を買う為の常套句じょうとうくだったとしても、KENがテレビに出れば、母親は息子の成功を喜ぶだろう。

 それなのにこんなタイミングで音楽を捨てるなんて、やっぱり考えられない…)


 上着とカバンを持って、謙太は2階の自室に上がった。

 子供の頃から使っている学習机の上に、カバンから出したノートパソコンを置く。


 椅子はさすがに古くなったので買い換えたが、学習机には何となく愛着があって、今でもそのまま使っている。


 部屋着に着替えてから椅子に座り、パソコンを開いた。

 そして、≪ミシェル≫の黒服とのやり取りと、そこに行く前に朱里から聞いた話を、日報にまとめ始めた。


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