部屋を訪れ、目が合うなり石化してしまったメイドの少女を見つめた。明るい茶色の髪は肩で切り揃えられ、背はスラリと高い。肌は健康的な肌の色で、零れ落ちそうな瞳は宝石のようなアメジスト色だった。立ち姿が美しく、顔立ちも含めてモデルのようだ。


「あの……大丈夫、ですか……?」


 バクバクと鳴り続ける心臓を抑え、カナが恐る恐る声を掛ける。


「!! 申し訳ございません! 直ぐに片付けますので」


 その声に正気を取り戻したメイドが手早く散らばったものを拾い集めていく。それらを一箇所にまとめ、腰のポーチへ手を入れると、白い布を取り出し急いで床を拭き始めた。カナも足元に転がってきた木桶を拾うと、彼女へ近づき膝を折る。


「もう一枚あります?」


「……え?」


 床を拭く手元を指差しながら問えば、再び驚いた顔が向けられる。先ほどの信じ難いといったものとは少し違う、疑念のこもった眼差しだ。

 怪訝な顔をされたから、求めるものは伝わった筈だ。それに対しての何故? という眼差しだった。


「折角素敵な絨毯なのに、染みが出来てしまったら大変でしょう?」


「……そう、ですが……どうしてそれを……」


「?」


 相変わらず懐疑的な眼差しを向けられ、何かおかしな事を言っただろうかと、カナは首を傾げた。水でも染みは出来るものだ。こんなに上質な絨毯なら尚更そんな事態にはさせられない。早く雑巾をよこせとばかりに手を差し出す少女に、メイドのナタリーは動揺を隠せずにいた。

 好奇心から「やってみたい」という理由で一緒に掃除をした経験はあったが、あくまで最低限で短い時間だけだった。体の弱かった彼女には長時間の作業が難しかったからだ。絨毯に溢れた水でも染みになるなどと、この少女が知っている筈が無いのだ。他のメイドの誰かに聞いて知っていたということも勿論考えられるが、それにしてもこの違和感は何だろうか。

 そもそも、


「あの……起きてて大丈夫なの……?」


「え? ……ええ……平気、です、けど……?」


 メイドの少女に凝視されている。そろそろ顔の一部に穴があきそうだ。

 今のやり取りはどこかマズったのだろうか。大人しくなりかけた心臓がたちまち波打っている。お互いに胡乱な眼差しで見つめ合ったまま固まっていると、扉の外から声がしてまた誰かが入ってきた。


「ナタリー。大きな音がしたが平気——」


 こちらを見るなり瞳を見開いて固まっている。今日はよく人が固まる日だ。

 入ってきたのは背の高い美男子だった。


 うわぁ……超絶イケメン……


 モデルか俳優だと言われても遜色のない優男だ。顔面に対するパーツの大きさ、配置が黄金比で、優しさも精悍さも上品さまでもが滲み出ている。そよ風にもさらさらと揺れそうな美しいブロンドが肩に掛かっており、上質な絹糸のようにキラリと光を弾いている。乙女が一度は憧れる童話の世界の『王子』を体現しているような人だった。

 そんなイケメンの驚愕の表情を目の当たりにして一瞬現実を忘れたカナは、メイドの彼女も可愛らしいけれどイケメンの崩れた顔もイケメンだったんだなぁと、口が開いている事にも気付かず見つめてしまっていた。怒られた。


「カナリア!! 何してるんだ!!」


「え? ええ?」


 勢いよく距離を詰められると、近いなと思っているうちにお姫様抱っこされてしまったのだ。


「きゃっ!」


 驚いた拍子にしがみつく。抱き上げる腕は逞しく、触れた胸板は硬く厚い。こんな訳のわからない状況でなければテンション爆上がりだったのだが、今はただただパニックだ。

 そのままの体勢でベッドへ運ばれると、優しく降ろされて寝かされた。ご丁寧に掛布まで掛けてくれている。


「ちゃんと寝ていないと駄目じゃないか。悪化したらどうするんだ」


 低い声は優しく甘さを含んでいたが、有無を言わさぬ迫力があった。


「いえ、私は大丈夫で——」


「昨日まで生死を彷徨っていたんだぞ。起き上がったりして、また寝込む事になったらどうする! 大人しくしていなさい」


 生死を彷徨っていた? 一体どういうことだ。確かに階段から落ちて怪我くらいはしたかもしれないが、こうしてピンピンしている以上生死に関わるような大事にはなっていない筈だ。


「あの、どなたかと勘違いされて——」


 彼の大きな掌が頬へ触れてくる。こちらに注がれていたのは、初めて会うにはおかしすぎる程の甘さとイケメンすぎて直視するのも憚られる微笑みだ。そこに少しばかりの同情と哀れみが混じる。


「可哀想に。少し混乱しているようだね。……無理もない。一週間も意識が無かったんだ」


 一週間? 意識がなかった? 私が?

 ……どういう事?


 頬に触れた手が、彼の親指が掠めるように撫でてくる。壊れ物を扱うような、本当に大切なものに触れるかのような、そんな触れ方だった。揺れる瞳に心臓がさっきまでとは違う鼓動を打ち始める。嬉しそうなどことなく哀しそうな、そんな複雑な表情に何故だか目が離せなくなった。知らない人の筈なのに、まるでこの人にときめいているみたいに体の自由が効かない。自分の体なのに自分のものではないみたいだ。

 その表情と自身の違和感に気を取られ、彼の顔がすぐ側まで近づいていた事に気付くのが遅れた。鼻先が触れて我に返る。


「やっ——」


 咄嗟に顔を背け両手で彼の胸を押し返した。びっくりしたせいで、また心臓がバクバクと激しく鳴っている。突然の蛮行にキッと彼を睨みつけ、少し距離をあけて上半身を頑張って起こした。


「な、何するんですかいきなり!」


 彼の驚愕の表情に、こちらの方が驚いた。

 びっくりしたのはこっちだわ! いきなりキス!? いくらイケメンでも有り得ないでしょうが!


「セクハラで警察呼びますよ!?」


「セク……? けい、さつ……?」


 困惑の表情で理解出来ないといった素振りの彼にますます苛立ちが募る。


「そもそも貴方誰ですか? ここどこ?」


 彼の後ろで様子を静観していたメイドが、両手で口元を覆っている。ふるふると小さく首を振りながらふらりと一歩後ずさった。何でそんなとは思ったが、今はそんな事はどうでもいい。


「私はどうやってここに……——」


 そこまで言ってしまってから、彼が酷く怯えたような傷付いた顔をしているのを見た。その表情を見た途端、その後に続く言葉が出てこなくなってしまったのだ。今度は心臓が握られるみたいに胸が痛み苦しくなってくる。


 なに? ……なんなのよ……!


 息を吸いたいのにそれがうまく出来ない。胸の痛みはますます強くなり、呼吸が短く浅くなっていく。


「く、……るし……」


「リア!?」


 左胸を押さえながらふらりと体勢を崩したカナを、彼の腕が支えるとそのまま抱き寄せる。逞しい腕が背を支え、大きな手が肩を抱く。もう片方の手がカナの手をしっかりと握った。


「リア! 大丈夫だ。落ち着いて、ゆっくり息を吸い込んで」


 すぐ側で彼の落ち着いた声が聞こえる。その声に導かれるようにゆっくり呼吸を繰り返す。優しい声色にこの体が応えるように落ち着きを取り戻していくと、徐々に呼吸が楽になり、胸の痛みも治まっていった。

 

「ナタリー! すぐに先生を呼んでくれ」


「は、はい!!」


 ナタリーと呼ばれたメイドが走って部屋を出ていった。彼に身体を横たえられて柔らかなベッドへ身を沈める。うっすらと目を開け、こちらを覗き込む彼を見上げた。不安そうに表情を崩した彼が僅かに眉尻を下げ、大きな手がおでこを撫でてくる。もう片方は握られたままだ。


「今は身体を休めるんだ。いいね」


「……はい……」


 従うしかなかった。この身体に何が起こっているのか分からない以上無理は出来ない。こんなふうにまた倒れでもしたら、それこそ元も子もない。幸いにも彼は身体を案じてくれている。さっきのメイドの少女は彼の言う事を聞いているようだから、彼の指示でもない限りどうにかされそうな心配もなさそうだ。


 ……健……心配してるだろうな……


 そっと目を閉じた。不安と焦りでとてもじゃないが寝ている場合ではない。それなのに、そんな気持ちとは裏腹に身体は重く、今にもベッドと一体化してしまいそうだ。

 目を閉じた途端に意識が引っ張られていくのが分かった。段々と聞こえる音が遠くなっていく。

 そのうちナタリーが戻って来たようだ。もう一人、知らない声が聞こえるけど、彼が呼ばせた『先生』なる人物だろうか。すぐ側に人の気配を感じるが、閉じた瞼を開ける事が出来なかった。

 手はまだ握られたままだ。離すまいとしっかり握られていて、言葉は無くとも側にいると伝えてくれている。それが何故か護られているかのような安心感を与えてくれている。見ず知らずのイケメンの筈なのに、彼の手の温かさを心地良いと思っている自分がいるのだ。いや、知っているの方が正しいかもしれない。

 なんで……と思いながら考える間も無く、カナの意識は再びゆっくりと眠りへ落ちていった。


 


 

 ベッドで寝息を立てている少女の顔色が良くなった事に安堵しながら、アズベルトは握っていた手をそっと離すと掛布の中へ戻した。

 水桶の中身を交換して戻って来たナタリーが、僅かな音を立てながら扉を開けて入ってくる。手にしたものを近くの台へ置くと、ベッドの傍らに椅子を置いてカナリアを見つめるアズベルトの側に立つ。両手を前で組み美しい姿勢で立つナタリーにアズベルトの不安気な眼差しが向けられた。


「カナリアは大丈夫だろうか。相当混乱していたようだが……」


 ナタリーはベッドで眠る可憐な少女へ視線を向けた。今ここにいるカナリアは間違いなくカナリアだ。しかしナタリーは違和感を覚えずにはいられなかった。雑巾の件ももちろんそうだが、あのアズベルト大好きで彼一筋の彼女が、いくら混乱していたとはいえ彼を拒むだろうか。それが有り得ない事だと知っていたから余計にだ。が、ただでさえここ一週間まともに睡眠の取れていないアズベルトを更に不安にさせる事は出来ない。ナタリーは不自然にならないよう努力しながら微笑んだ。


「無理もありません。一週間も意識が戻らなかったのですから。きっと直ぐに元のように笑顔になってくれますわ」


「……そうだな」


「旦那様もお休みくださいませ。私がついておりますから、しっかり睡眠をとってください」


「しかし」


「心配なのはわかります。ですが、旦那様まで体調を崩されたら、カナリアがまた寝込んでしまうかもしれません」


「それは」


「何かあればお休み中であっても必ずお知らせいたします。ですのでどうか」


 ナタリーはカナリア専属のメイドで付き合いも長い。よく気がつき、些細な事もきちんと伝えてくれる優秀なメイドだ。何よりカナリアの一番の友人でもある。そんな彼女がついてくれているのなら心配はいらないだろう。

 それは分かってはいる。分かってはいるのだが、なんだろう。何かが引っ掛かるのだ。

 アズベルトは再びベッドで眠るカナリアへ視線を戻した。そこにいるのは紛れもなく一番大切で愛しい人だ。もうダメかもしれないと思っていた彼女が奇跡的に意識を取り戻した。本当に喜ばしい事だ。なのだが、この漠然とした不安は何故だろうか。


 いや、今考えるのはよそう。


 ナタリーへ微笑むと「分かった」と了承し、椅子から立ち上がる。

 扉を潜る前にもう一度「何かあったら直ぐに教えて欲しい」と伝え、名残惜しそうに部屋を後にした。


 主人を見送り、アズベルトがようやく休める事に安堵のため息を吐き出すと、ナタリーは彼が座っていた椅子へと腰掛けた。

 あんなに青白かったカナリアの顔色はすっかり血色が良くなっている。このまま体調が安定してくれる事を願うばかりだ。


「……神様」


 両手を握り合わせ、額につけて目を閉じた。

 彼女の命を助けてくれた事への感謝と、大切な二人が長く幸せな時を過ごせるようにと祈る。

 アズベルト同様、漠然とした不安をどうする事も出来ないまま、ナタリーはしばらくの間祈り続けたのだった。

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