第一章 入れ替わった花嫁

「……んん……」


 うっすらと瞼が開いた。ゆっくりと浮上してくる意識を待って重い頭を僅かに動かす。いう事を聞かない手足が相変わらず鉛のようで、何だか自分のものでは無いみたいだ。深く息を吐き出し、カメラのレンズが徐々に絞られていくように視界が正常を取り戻すのを、天井を見ながらぼんやりと待つ。


「ここ……何処だろう……?」


 確か急いで仕事へ向かおうとして自宅アパートの階段から落ちた筈だ。頭を強くぶつけたと思ったが、記憶は飛んではいないようだった。

 薄れいく意識の隅で健が駆け寄って来るのが見えた。

 もう何やってるんだろう。新婚早々階段踏み外して意識飛ばすとか信じられない。そそっかしくて恥ずかしい。

 多分救急車で運ばれただろうからここは病院だと思うのだけれど。うちの近くの病院といえば、あの大きな総合病院だろうか。こんな事になってしまって、後で事務所に連絡しなくては。浮かれ過ぎてとちったとか、言われてるんだろうなぁ……。

 気が重いななどと思いながら再び長く息を吐き出し、なかなかいう事を聞かない身体を無理やり動かすと、やっとの思いで上半身を起こした。

 それにしても全身を強打した筈なのに、痛みがちっとも感じられない。鎮痛剤でも効いているのだろうか。そのくせこの異常なまでの倦怠感は何なのか。頭を打ちつけた後遺症なのだろうか。大きな怪我や病気をした事が無いかなには自分の状態がいまいち分からなかった。

 だとしても、何だか違和感を覚えてならない。視界がはっきりすると、その違和感はますます強くなった。


「びょう、いん……?」


 まず自分が寝ていたベッドの異様な大きさに戸惑った。大人でもあと二、三人は余裕で転がれそうだ。いくら個室しか空いていなかったのだとしても、こんなに大きなベッドを私のような軽傷者に使うだろうか。

 改めて見上げた天井も様子がおかしい。照明として吊り下げられている灯り取りがまさかのシャンデリアだ。ぐるりと室内を見渡してみる。恐らく昼間だろうが、厚いカーテンが覆っているのか中は薄暗い。病室の窓にしては異常な大きさのカーテンも、個室にしては広すぎる室内も、なんなら部屋中に置かれたアンティークで高そうな家具類も、全てにおいてかなの普通とはかけ離れすぎている。

 変な胸騒ぎがして掛布を取り払った。体感的にはバサッととっぱらったつもりだったのだが、意思に反していう事を聞かない腕で捲れたのはほんの僅かだ。結局もぞもぞと這い出し、ようやくベッドの淵に座ると、驚く程柔らかくふかふかな肌触りの絨毯へ素足をつけた。

 床で寝れそうだななどとあらぬ方向へ思考を飛ばしながら、踏ん張りの聞かない足をゆっくりと動かす。窓までが遠い……。というかこの身体がどうにもおかしい。異常に重いし足腰にも力が全然入らない。

 一体何なの?

 自分の不注意で招いた事態とはいえ、常とは程遠い状況にストレスを感じながら、膝に付いた手に視線を落として驚いた。


「何この手! ……ガリガリじゃない! !? ……足も……どういう事……?」


 足首まで隠れるネグリジェの裾を捲って覗く足も、視線の先の腕も、まるで別人のように細かった。痩せているでは説明のつかない、病的な異常な細さ。手の甲なんて筋が浮いてしまっている。得体の知れない事態に、ゾワりと全身に悪寒が走る。とにかく何でもいいから情報が欲しくて窓へと急いだ。

 総合病院ならここから見えるのは環状線か東警察署のはず……

 大きな窓の長くて分厚いカーテンを掴み勢いよく開いた。


「……ここは……どこ……?」

 

 窓の外、眼下に広がるのは綺麗に手入れのされた広い公園……いや、庭だ。あちらこちらに色とりどりの花が咲き、ご丁寧に植物で出来たアーチもある。一角には温室のような建物、中央には噴水、鮮やかな草花と低木に囲まれたガゼボに、いくつかのベンチ。それらを二分するように中央にはこの建物に向かって通路が延び、奥には立派な門まで見える。『庭』と認識出来たのは、いつぞやのテレビで何処かの富豪の豪邸を特集した番組を見たからだ。自分には縁のない世界だなぁと他人事のように流し見ていた液晶画面の中の世界が、今、目の前に広がっている。

 暑くもないのに汗が垂れていく。

 ゆっくり後ろを振り返った。開いたカーテンの分だけ差し込む明かりが映すのは、同じく特集で見た豪邸の室内みたいだ。広い部屋、大きなベッド、高級絨毯にアンティーク調で統一された美しい家具類。初めて気がついたが、壁には高そうな絵画も飾られ、それらを見れば持ち主の美的センスの高さが窺えた。見下ろす身体に纏うのはツヤツヤのツルツルで肌触りの良い薄地の真っ白なワンピース。絶対に高いヤツだ。

 よろけてしまいそうになる足へ何とか力を込め踏ん張った。心臓がドクドクと内側から胸を叩いてくる。背中を流れる変な汗のせいか、体がブルリと震えた。


「何……どういう事……? ……たけ、る……」


 目の前に広がる現状がとても理解し難くて、心細さと恐怖と不安がかなの心を支配していく。両手を胸の前でギュッと握り、無意識に一番側にいて欲しい名が零れ落ちた。


 一瞬キラリと何かが光り、かなは其方へと意識を向けた。

 ベッドを挟んで反対側、豪奢な造りの大きな扉の側に真っ白な布が掛けられた家具が置かれている。可愛らしい机のような造りに揃いの椅子。それらからドレッサーのようだと推察する。鏡の部分には布が掛けられ、少しだけズレたそこへ日の光が当たって反射したのだろう。

 ゴクリと自分の喉が鳴るのを聞いた。相変わらず重たい腕と、いう事を聞かない足をゆっくり動かしながら、意を決して其方へ近づいた。

 台の前に立ち、鏡を覆う布へと僅かに震える手を伸ばす。端を掴み一瞬の躊躇いの後、それを引っ張った。肌触りの良い滑らかな生地がするするとその場から滑り落ちていく。長い間使われていないだろう鏡は、それでも綺麗に磨かれ曇り一つない。布が落ち切ると同時に現れた目の前の顔は、胸までの長い黒髪をさらりと流し、青白い顔でこちらを不安そうに見ているまさしく私、皐月かなだった。


 いや……違う……!


 安堵の息を吐いたのも束の間、よくよく見ると瞳の色が違っている。かなの瞳は濃い茶だが、鏡のかなの瞳は黒の中にグレーが混じっている。それに顔色が悪く頬も痩けてはいるが、何だか若返っている気がする。普段から童顔だとは言われるが、それにしてもだ。鏡にへばりつく勢いで身を乗り出す。最近気になり出した目尻の小皺が無いし、右目の斜め下にうっすら見え隠れしていたシミも無い! 目の周りが少し落ち窪み、見るからに病人顔だが、肌はキメが細かいし、小鼻の毛穴も目立っていない! 胸も……心なしか大きい気がする。健康的な身体になれば、もっと張りが出る筈だ。

 なんて浮かれている場合では無い!

 目の前に映っているのは私のようで私じゃない。ここに立っているのは紛れもなく『かな』なのに、鏡に映るのは別人なのだ。


 これは夢だろうか。


 あまりにも非現実的すぎて、起こっている事が理解出来なかった。夢かも。そう考えた方が遙かに現実的だった。眠りから覚めてのこの状況だけれども、起きるところから始まる夢だってあるはずだ。そもそも階段から落ちたところから夢だったのかも知れない。もう少ししたらいつもの目覚ましが鳴って、起きたら隣に健がいて、おはようって言いながらいつもの慌ただしい朝が始まるのかも。

 だからきっと全部違う。階段を踏み外して全身に激痛が走った事も、鉛のように重たいこの身体も、布団や高級絨毯やツルツルのネグリジェの嘘みたいな肌触りも……夢だと片付けるにはリアルすぎるこれら全てが……きっと……。


「早く目を覚まして……夢だって——」


 言ってと、言い終える前に控えめなノックがなされた。広く静かな空間にその音がやけに響き、かなの肩がビクリと跳ねる。返事をする間も無く扉が静かに開かれていく。驚き過ぎて身動きの取れないまま、バクバクと痛い程暴れる心臓の音を頭の中で聞きながら、かなは開いた扉を凝視した。

 静かに入って来たのは黒のワンピースに真っ白なエプロンという出立ちの、ザ・メイドな姿をした一人の少女だった。明るい茶の髪がサラリと揺れ、片方の手には金属製のトレイがあり、乗せられた木桶の中身がチャプンと小さく揺れた。伏目がちに入室すると、音を立てないように気を使ってくれているのだろう。ゆっくりとした動作で扉を引いていく。声を掛けるべきかどうかを思案しているうちに、気配を感じたのか俯いていた少女の顔が此方へ向けられた。


「……、っ!!?」


 視線が交わったと同時に少女が固まる。直後、アメジスト色の瞳がみるみる開かれ、まるで信じられないものを見てしまったと言わんばかりの表情のまま再び静止してしまった。

 そのまま時間が流れていく。数秒だっただろうが、何故か酷く長く感じた。


「……あの」


 ぴくりとも動かず、表情も変えず、ただ此方を凝視する少女に不安を覚えた。僅かに右腕を上げ、彼女へ向かってほんの少し足を踏み出す。その動作がスイッチだったかのように、少女の手からトレイが落ちた。硬い床と金属製のトレイがぶつかり、閉まり切っていない部屋の外にも大きな音が響いた。乗っていた木桶も中身をぶちまけながら転がっていく。入っていた水が少女の足と硬い床を濡らし、カナの立っている高級絨毯にも染みていった。

 手にしていたものを全てぶちまけ、自身も水で濡れたにも関わらず、メイドの少女はその場を動かない。今目にしているものがただただ信じられないといった表情のまま、視線をカナと交えたまま、そこだけ時が止まったかのように微動だにしなかった。

 少女の不可解な動作が、カナの不安をより一層煽ってくる。

 そのままお互いに言葉を発する事が出来ないまま、重苦しい時間がだけが流れていく。立ちつくす間にもじわじわと範囲を広げていく水の染みが、まるでカナを支配する不安を表すかのようだった。

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