入れ替わった花嫁は元団長騎士様の溺愛に溺れまくる

九日三誌

プロローグ

「リア……リア! ……っ……しっかりして!!」


 痩せて骨張った友人の手をぎゅっと握り締め、ベッドの傍らに両の膝をつけたナタリーは、身を乗り出すように彼女の側で必死にその名を呼んでいた。既に呼吸は虫の息だ。顔は青白く頬も落ち、ピンク色だった唇も色を失い乾いてしまっている。苦しそうに口で呼吸を繰り返すその表情は、本来の彼女からは想像も出来ない程苦悶に歪んだものだった。


 彼女、カナリアが不治の病と診断されたのは八歳の時だ。明るく快活で可憐な少女は誰からも愛される天使のようだった。そんなカナリアの体を蝕む病魔は年々彼女の体力を削り取り、ここ最近は部屋を出る事はおろかベッドから起き上がることも難しくなっていた。


 まだ十六歳だというのに……

 もうすぐ結婚式を挙げるはずだったのに……神様あんまりです……


 苦しそうに口呼吸を繰り返す美しく不憫な友人に、ナタリーのアメジスト色の瞳からはついに大粒の涙が零れ落ちた。

 ナタリーの向かい側でカナリアの脈を診ていた老齢の主治医がそっとその腕を掛布へと戻す。その場を立つと、入り口に控えカナリアとナタリーの様子を痛ましく見つめていた執事の青年へ歩み寄る。


「……旦那様に連絡を。すぐにお呼びしておくれ」


 その言葉にナタリーはついにベッドへ崩れ、苦悶に顔を俯けた青年は無言のまま部屋を出た。


「リア!! 駄目……貴女はこれからもっともっと幸せになるの!! これからなのよ!!」


 悲しみに抗うように震えた声が、啜り泣く周囲の音をかき消そうと響く。そんな彼女の悲痛の叫びが聞こえたのか、瞳を固く閉ざし弱い呼吸を繰り返すカナリアの目尻から細く涙が伝い落ちた。




 側で自分の手を握り、懸命に声を掛け続けてくれる友人の声を聞きながら、カナリアは既にいう事を聞かなくなった自身の行く末を憂いていた。何度も自分の名を呼ぶその声に、もう応える事すら出来ない。声はちゃんと届いているのに、返事を返す事も指一本動かす事も出来ない。その事が酷く歯痒かった。


 ごめんね、ナタリー……

 私は……もう……ここまでみたい……

 せっかくアズの奥さんになれると思ったのになぁ……

 ようやく……願いが叶うと思ったのに……


 ベッドの傍らに腰掛け、こちらへ穏やかな微笑みを向けてくれる優しい彼の姿が浮かんだ。ずっと追い掛け続けて、やっと手の届いた愛しい人。もう少しだけ、ほんのちょっとだけでもいいから一緒に居たかった。どんな些細な時間でもいいから共有したかった。もっと我儘を言ってしまえば良かった。小さな後悔が湧き起こっては消えていく。


 彼が……心配だわ……

 誰よりも優しい彼が……私のせいで……病んでしまったら……それだけは耐えられないの……

 お願いです……神様……彼を……

 最後に……私の望みを……叶えてください……


 カナリアの意識が闇へと沈んでいく。水に沈みゆく小石のように、ゆっくりゆっくり落ちていく感覚。自分の体なのに全くいう事をきかない手足を、全く働かない頭を恨めしく思いながら、これが死かと瞼を閉じようとした時だ。

 突如眼前に小さな光の粒が現れた。

 落ち掛けた瞼を見開き、ゆらゆらと揺れる光を見た。それが何なのかは分からない。ただ、掴まなければと、そう思った。

 鉛のように重たい腕を必死で持ち上げる。懸命に右腕を、指を伸ばし、その光の粒を手のひらに握り込んだ。






「かな! 忘れ物!!」


 遅れそうだと、大急ぎで玄関を飛び出した皐月かなの背中に、たけるの声が掛かった。慌てて振り返った先、彼の右手にはかなの為に作られた弁当の包みがぶら下がっている。


「あぁ!! ごめーん!!」


 今まさにアパートの階段を駆け降りようとしていたかなは、健の手にある弁当の包みを見るなり、しまったとばかりに引き返してくる。

 去年結婚したばかりの新婚で共働きの二人は、家事を分担制にしている。と言っても、基本的には出来る方がやれる事をやる方式だ。どちらも独身の期間がそれなりにあり、家事全般はこなす事が出来た。その中でもかなは料理が好きで得意だったし、健は片付けや掃除が好きだった。普段は自然とそれらをやっていたのだが、今朝は健が遅番だった事もあり、かなの分の弁当を作ってくれていたのだ。

 

「ありがとう! お昼の楽しみ無くなるところだった」


 わざわざ玄関の外まで出てきてくれた健から弁当を受け取り嬉しそうに笑うと、彼の空いた手が向かい合ったかなの左肩に乗せられる。どうしたの? と思う間も無く、彼が素早く掠めるようなキスをしてくる。


「もういっこ、忘れ物」


 そう言ってニヤリと笑うその顔を見た途端に頬が上気した。


「ちょっ……もう……」


 外だというのに、健のイタズラに思わずキョロキョロと回りを見回す。キスが嫌という訳では無い。そういった戯れは嬉しいし、幸せだなとも思うが、わざわざ人前で……とは思わないだけだ。幸い目に見える範囲に人影は無かった。


「急がないと! 時間!!」


 恥ずかしいのにと抗議しようとしたところで健が腕時計を見ながら告げてくる。


「そうだった!!」


 はぐらかされた気もしないでもないが、今はそれどころでは無い。このバスを逃せば完全に遅刻だ。有難い事にバス停はアパートの敷地を出て直ぐだ。通りの向こうにも見えないからいつものように少し遅れて来るのかもしれない。


「行ってきます!!」


 慌てて階段を駆け降りて行く。弁当を仕舞おうと目線を階段から右肩に引っ掛けた鞄へと移した。


「かな、気を付けて——」


 後ろからの声を聞きながら、その場を踏み締める筈の右足が空を切った事に、一瞬遅れて気が付いた。両手は塞がり手すりを掴む間も無く体が階段へ打ちつけられた。痛みと衝撃に声を発せず息も吸えぬまま、かなの体は成す術なく転がり落ちていった。


「かな!!」


 何が起ったのかわからないまま、目に映った空を見た。

 視界の遠くに焦った様子で駆けて来る健が見えたが、その姿がどんどん霞んでゆく。大好きなその手が届く前にかなの意識は闇へと吸いこまれるかのように引き摺り込まれていった。





 だ……れ……?

 ……声が……聞こえる……



「旦那様!! リアが! リアが!!」


「顔色が……脈が戻ってきた……こんな……奇跡だ……!」


「リア! ……カナリア! 頼む……目を開けてくれ……」



 ぼんやりと聞こえていた誰かの声が徐々に大きくはっきり聞こえてくる。 

 真っ暗な水の中に沈んでいたような気配から、急にふっと浮き上がっていくような浮遊感に変わった。ゆっくりゆっくり浮いていく体に、薄い膜のような何かが纏わり付いたような……その膜が溶けて肌と一体化してしまったような……何か不思議な感覚だった。


 瞼にギュッと力を込める。いう事を聞かなかったそれがうっすら開いていくのがわかる。頭が上手く働かないせいなのか、眩しいせいなのか、ピントは合わなかったが目の前に数人いるのがわかった。


「カナリア!! ……良かった……」


 聞き慣れない男性の声がしたかと思うと、頬を温かいものが包み込む。口を動かそうと試みたが動いたのかどうかすら分からなかった。


 ダメだ……体が重い……


 輪郭がはっきりする前に視界が閉じた。聞こえていた声が再び遠くなっていく。


 健……ごめんね……もう少しだけ、待ってて……


 聞き慣れない声や単語が一体何を意味するのか、そんな事を考える間も無く、かなの意識は再び闇へと沈んでいった。


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