今思えば、あれは夢だったのかと不思議に思う。実際、現実では到底有り得ない状況だったのだから、かなが見た夢だったのだろうが……。




 気が付いたら辺りは真っ暗だった。停電した時ですらもう少し明るいだろうという程の暗闇だ。地面に立っている感覚すら無く、自分が一体どうなってしまったのかという不安や恐怖が足元からむくむくと迫り上がってくるようだ。


「たける……」


 無理矢理絞り出すように名を呼ぶが、その声が闇へと吸い込まれていく。何処を見ても真っ暗、そんな中にたった一人。寒くも無いのに震える自身の身体をどうしようも出来ずにただただ自分で抱いた。


「……健……どこ?」


 いくら呼んでも返事は無く、物音ひとつ聞こえない。どうしたらいいかも分からず、恐怖と心細さに目頭がじわりと熱くなっていく。


 その時、ふと視界の端に何かが留まった。ハッと意識を向けると、白っぽい何かがぼんやりと浮かび上がっている。何かが分からない恐怖はあったが、すくむ足をそちらへ向けた。もしかしたら健が迎えに来てくれたのかもしれない。そう思ったら早る気持ちのせいか、いつの間にか駆け足になっていた。


 徐々に近づいてくる何かは、人影のようだった。本当に彼かもしれないと思って高揚したのも束の間、こちらを振り返った人の長い髪がふわりと揺れた事で、それが女性だと分かってしまった。


『それ以上来てはダメ』


 女の子の声だった。鈴を転がすような可愛らしい声に不穏さを感じ、かなはその場で足を止めた。信じられない思いで目の前の歳若い少女を見た。


「……あなた……誰……?」


 真っ白な衣装に身を包みその場に悲しそうに佇む少女が、かなと瓜二つだったのだ。豪奢な部屋の鏡台で見たあの顔だ。驚きと得体のしれない恐怖に悪寒が走り、無意識に右手で左の二の腕をさすっていた。


『ごめんなさい』


 ぼんやりと光を纏う儚げな少女は、長いまつ毛を伏せ両手を正面で組み、一際消え入りそうな声で謝罪した。


『……貴女には本当に申し訳ないと思っています』


「……何のこと……?」


 いきなりの謝罪に困惑したが、何故だか嫌な予感がした。


『誰かを犠牲にしてでも、彼を護りたかったの』


「犠牲って……なに? 彼って……?」


『誰かを犠牲に』だなんて不穏さしか感じないワードを、目の前の可愛らしい少女が口にしている事に違和感しかない。こちらへ寄越された悲しそうな瞳から、意味を理解していない訳では無いだろうに。


『私はもう、側にいられないから……』


「側にいられないって、どうして?」


 何一つ質問の答えをくれない少女にもう一歩近付こうとした時、彼女の身体が突如さらさらと崩壊し始めた。風に舞う砂のように、真っ暗な闇へ霧散していく。


『だから貴女に託します』


「待って! 何を!? 託すって何?」


 止まらない崩壊が彼女の姿を、声を、奪っていく。


『私の代わりに——』


「聞こえないよ!!」


 —— どうか……お願い……


「待って!! 行かないで!!」


 何も分からないまま少女が闇の中へ消えていく。必死に手を伸ばし掴み取ろうと試みた光の粒は、無情にもかなの手を掠める事は無い。砂と化してしまった彼女の身体が全て闇へと消えた時、かなの身体がふわりと上昇していく感覚を覚えた。抗う術もなく、引き寄せられる体から力を抜き身を任せる。その過程でかなは再び意識を手放した。






「……! ……ア! リア!!」


 直ぐ側で声が聞こえ、ゆっくりと目を開けた。こちらを覗き込む様に不安気な表情を見せていたのは例のイケメンだ。視線が合うとあからさまに安堵の笑みを浮かべている。身体を起こそうとすると、手を取り背中を支えてくれた。


「良かった……目覚めないかと心配した」


 悲痛な表情でこめかみにキスをされた。目覚めた直後に不意打ちをくらい、抵抗するのを忘れてしまった。頭が混乱していたというのもある。


 今見た夢のおかげでようやくこの訳の分からない現状が見えてきた。……とても信じられる様な内容では無かったが。

 おそらくこの身体は彼女の、彼らがカナリアと呼ぶ少女のものだ。さっき会った自分と瓜二つだった少女がきっとそうなのだろう。そして彼女が言っていた『護りたい彼』というのが多分このイケメンだ。かなの意識がどういう訳かカナリアの身体に入り込んでしまっていたのだ。

 彼らの言葉の節々から、カナリアは何らかの病気で身体が弱かったのだろう。そう考えれば、手や足が細すぎるのも、この酷い倦怠感も、彼が異常なくらい過保護なのも頷ける。普通はベッドから抜け出したくらいでお姫様抱っこなぞしない。


 でも待って……それなら……


 嫌な疑問が次々と湧き起こってくる。


 私の身体は……?


 先ほど感じた嫌な予感の正体はこれだったのか。ぞわりと悪寒が背筋を駆け抜けた。鳥肌が止まらない。


 ここが見慣れない場所だったから、多分カナリアさんが住んでいた場所なんだろうけど……。

 私は帰れるの……? 健は……健の所に、帰れるの……?

 身体はカナリアさんのままなのに、中身が違うだなんて……こんな事、誰が信じられる……?

 そもそもカナリアさんはどうなったのか……。

 私は……どうすればいい……?


 答えの出ない疑問が湧いては消え、湧いては消えを繰り返す。無意識のうちに自分で自分の肩を抱いていた。


 彼の手がカナの眉間に触れてくる。びくりと肩が揺れ、目の前でふわりと微笑む彼と視線が交わった。


「シワ、寄ってた。……大丈夫か? どこか痛む?」


 ゆるゆると首を振り、大丈夫だと伝える。この心配も甘さを含んだ眼差しも差し伸べられる手も、全てカナリアに向けられたものだ。自分にじゃない。その困惑と罪悪感に胸が痛んだ。目を合わせられずに俯いてしまう。


 どうしよう……

 どう伝えれば……どう切り出せばいい……?

 こんな非現実的な話しを、一体誰が信じる……?

 いっそこのまま知らないフリを……いや駄目だ。隠し通せる筈が無い。

 それに健が待ってる。私は帰らないといけないんだから!

 ……でも……


 このままではいられないとは思うのに、どうすればいいのか答えが全然分からない。

 起きてからずっと考え込んだまま難しい顔をしている彼女の肩に彼の手が触れた。恐々と顔を上げるカナリアへ目尻を下げる。


「具合が優れないのなら、横になっても構わないよ」


「……いえ、その……大丈夫です」


 怯えるように自分の肩を抱くカナリアが震えているように思われて、アズベルトは肩を抱こうと手を伸ばした。が、彼女に触れる前にその手を下ろしてしまう。拒絶された事を思い出したのだ。今は混乱しているから、あまり負担になるような事はしない方がいい。身体を休める事を優先させてやらなければ。そう考え、自分の胸に収めたい衝動をかろうじて堪えた。


 お互いにどう接するべきか思いあぐねていると、部屋の扉が控えめにノックされた。彼が応え入室を許可すると、ワゴンを押したメイドが入って来る。ワゴンにはいくつかのクロッシュが見えた事から、食器が乗っているのだろう。ゆっくりとこちらへやってくるワゴンの上で、時折ぶつかり合う音が小さく聞こえる。ベッド脇までワゴンを寄せると、メイドがドーム型の銀のカバーを取り去った。途端にふわりと湯気が舞い、続いて美味しそうな香りが漂って来る。

 深皿に用意されていたのは、スープのようだ。白っぽい色味にパセリのような緑の色味が良く映えている。一緒に入って来た若い執事の青年が簡易的なテーブルを用意し、そこに同じ皿が二つと、カットされたみずみずしい果物の乗った皿が用意された。


「食べられそうなら一緒に食事をと思ったんだが、どうかな?」


「いえっ、いただく訳には……」


 断ろうとした矢先、お腹がきゅるきゅると小さな音を立てた。慌てて両手をお腹へ押し当てたが、その音は彼にもバッチリ聞こえてしまっていたようだ。「元気になってきた証拠だね」と嬉しそうに微笑む彼に、羞恥のあまり頬を真っ赤に染めて俯いた。

 ベッドに座ったまま食事が取れるように用意され、大きなスプーンでスープを掬う。少し粘度のあるスープにはミルクの優しい風味と、芋を溶かしたような舌触りがあり、薄味ながらも甘さを感じるほっこりした味わいだった。

 手を止めようものなら、スプーンを奪われイケメンによる甲斐甲斐しい食事介助(要するにあーんというやつだ)が入りそうになったため、なるべく手を止めないように、しかしゆっくりとスープを味わった。内心ではゆっくり呑気に食事など取っている場合では無かったのだが、思いの外空腹だった事、後は目の前で同じようにゆっくりとしたペースでこちらを見ながら嬉しそうに食事をする彼に、何て説明しようか考える時間を稼ぐためでもあった。


 良い方法が浮かばないまま、食事の時間は終わってしまい、執事がワゴンを押して退出してしまった。少ししてメイドと一緒に老齢の翁が入室してきた。彼の反応から、この人がカナリアの身体を診ていた主治医のようだ。まさかバレたりしないだろうかと、内心ヒヤヒヤしながら診察が終わるのを待った。最後に飲まされた薬が信じられない位苦く、メイドが用意してくれた水をコップに二杯程飲み干した。


 主治医が退出し、メイドがベッドを整えてくれている。すっかり陽が落ち、星が瞬き始めた空を一瞥すると、大きな窓を覆うように分厚いカーテンを引いていく。それが終わると、ずっと側についてくれていた彼がベッド横に置かれた椅子から立ち上がった。


「じゃぁリア、私は戻るからゆっくりお休み」


 どうしよう……行ってしまう……


「カナリア様。ここにベルを置いていきますので、何かあればお呼びください」


 ……今日はもう休んで、明日伝える事に……

 いや! こうしている間にも、健が私の事を待っているかもしれない!!

 一刻も早く帰らなければ。


「待ってください!」


 扉へ足を向けていた二人がこちらを振り返る。


「「?」」


 二人の視線の先には、掛布を取り払いベッドの上に正座をし、膝の上に手を乗せ真っ直ぐに背筋を伸ばしてこちらを見つめるカナリアの姿があった。今までに一度でもそんな座り方をしたところを見た事が無かった彼らは、そんなカナリアの姿に少なからず動揺していた。


「お話があります」


 深刻な表情を浮かべる彼女へ近付くと、彼はベッドの淵に腰掛け目線をカナリアに合わせた。メイドも彼の後に続き、カナリアの正面に姿勢正しく立っている。


「どうした? 一人が不安なら、カナリアが眠るまで側にいようか?」


 心配そうに覗き込んでくる彼にゆるゆると首を振る。何度も躊躇った後、居ずまいを正すと真っ直ぐに彼を見つめた。



「信じてもらえないかもしれませんが、私は……カナリアさんではありません」








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