大凡の始末

 カサの試練は終わっていない。

 最後の仕事が残っている。

 それは、巫女に真実の地で起きたすべてを語る事。

 皆に導かれ、ラシェに支えられて、カサは広場に出る。

 皆がぞろぞろとカサにつづく。手を貸そうとする戦士たちを、

「誰もカサには触らないで!」

 ラシェが大声を張りあげ、自分一人でカサを連れてゆくと言いはる。

 みな苦笑しながら、仕方なしにその様子を見守る。

 広場ではすでに、巫女たちが待ち構えていた。

 真ん中に、マンテウ、その両脇に、巫女と見習いたち。

「大巫女様……!」

 驚きの声が上がる。

 マンテウが立っている。

 両手を巫女に支えられてはいるものの、自分の足でしかと立っているのである。誰もが座っているマンテウしか知らない。

 移動する時は、座板ごと運ばれていたほど高齢の老婆なのである。

 マンテウが彼らに歳経て震える手をかざす。

 カサはラシェに支えられ、その面前に立つ。

「……ガタウ、は……」

 カサが、目を閉じ首を振る。

 アア……。

 悲嘆のため息が漏れる。

 最高の戦士が一人、この砂漠から姿を消した。

 これを嘆かずにおれようか。

「戦士ガタウは片目の巨大な獣と戦って、死にました。だけど負けた訳ではありません。戦士ガタウは、その獣を斃して死んだんです」

 ウウム……。

 うなり声。驚嘆混じりのため息だ。

 カサが、胸に牙を吊り下げた革紐を首から抜き、マンテウに渡す。

「……これは……」

「戦士ガタウの、牙です」

 マンテウが受け取り、牙の一つ一つを吟味する。

 その数全部で十。

 うち三本が、ガタウ最初の試練で手に入れたもので、残りは今回の遠征で斃した物だ。

 今度の真実の地への遠征で、ガタウは前回の倍以上の獣を狩った事になる。その中でもっとも大きな片目の牙を、マンテウが愛しそうに撫でる。

 その牙に、この老いた巫女は何を見ているのであろう。

「……あの男、は……」

 そこから言葉が不明瞭になり、

「……すべてから、解放された、のだな……」

 カサは力強くうなずき、

「はい。戦士ガタウの死に顔は、とても安らかでした」

 またため息が漏れる。

 不意にこみ上げた涙を、ソワクが顔をつかんで隠す。

 こみあげた慟哭に、体がブルリと奮える。

 永きにわたり、ガタウを心の師と仰いで生きてきたこの若き大戦士長は、ガタウの歩んできた人生の厳しさにくり返し思いをはせ、そして心を痛めていたのである。

――戦士ガタウよ……。

 だが熱い涙は内面に押しとどめる。

 顔を覆った手を下ろすと、そこにはいつもの飄々としたソワクだ。

 涙は人に見せる物ではない。

 心で泣いても、顔は笑う。

 ガタウとは大きく異っているが、それがソワクの信ずる指導者の在り様だ。

「……そちら、を……」

 マンテウが、カサが下げているもう一本の革紐を指す。

 カサは、ラシェの助けを借りてそれをマンテウに渡す。

「おお……!」

 今や最も高齢となった戦士ラハムが、ひときわ大きな感嘆の声を上げる。

 カサの革紐には、二十近い牙がくくりつけられていたのだ。

 そのどれもが、熟練の戦士ですら見た事がないほどに大きい。

「そして、これを」

 ソワクが斑の頭部を持ってきていて、それを掲げて見せる。

 巫女たちが悲鳴を上げて身を引いたが、マンテウは身を乗り出し、ガタウの狩った一番大きな牙よりも、更に大きな牙に触れ、

「……長い、戦いであった、ようだな……」

 カサはうなずく。

 試練に旅立って、もう二ヶ月。その半分近い日数を、この獣と闘いに費やした。

「"マダラ"は、恐ろしく強い獣でした」

 カサが獣の頭部をまじまじと見る。

 不思議と恐怖も嫌悪感もない。

 今はただ、戦い抜いた疲労と虚脱、お互いの持てる力をぶつけ合い、魂の交流をかわした者のみが持ちえる親近感だけが、カサの掌に残っている。

「ここから、四日の場所まで、この獣は僕を追ってきたんです」

 戦士たちが息を呑む。

 カサが斃さねば、この獣が邑を襲っていたのかも知れぬのだ。

 考えただけで、生きた心地もないだろう。

「マンテウ、この獣の魂を、追い祓ってやってくれないか」

 ソワクが大巫女に頼む。

 獣は、死んですぐ牙をはずさないと、魂が牙にこもり、その牙は獣を斃した戦士につきまとい、やがてその身に禍をもたらす。

 だがマンテウは首を振る。

 もはや遅し、の意味である。

 ソワクが歯噛みする。

 カサはそれで良いと思っている。

 斑は、そして餓狂いはカサの内面に棲む獣性そのものなのだ。

 あの闘いの中、斑の中に己と同じ荒ぶる本能を見出したとき、カサはこの獣と離れられぬ繋がりを知った。

――あいつは今も、僕の中に生きている。生きてあの長い牙をむき、僕を内側から喰らおうとしている。

 そう感じている。

 今、カサとこの獣は表裏一体、一つの生命になったのである。

 この獣を忘れぬ限り、カサは獣という生き物の恐ろしさを、いつまでも忘れる事はない。

 カサにとって斑こそ狩り場の化身であり、己の獣性の象徴なのだ。

「……手を……」

 マンテウの求めるまま、カサは手を差し出す。

 皺だらけの手が、傷だらけの手を包み、マンテウが吟味するように目を閉じる。

「……おおお……」

 マンテウの老いし骨がわななく。

 巫女が寄りその体を支えるが、マンテウの手はカサを離そうとしない。

「……ラシェ、アロよ、こちらに、手を重ねよ……」

 二人はしばし困惑し、そしてマンテウの言葉に従う。

「……心に、歌を奏でて、みよ……」

 ラシェは竈の唄を、アロは精霊の唄を心に浮かべた。

「あ……」

 脳裏に広大なる啓示が流れ込み、広がる。

「……これこそが、砂漠、いや……」

 感激に打ち震え、

「……世界の、真実なのだ、戦士カサ……」

 老婆は涙を流している。

 幾世代もの過去に、マンテウは、まったく同じ誉れに預かる事ができた。

 その戦士は見返りに何も受け取らず、そしてついに砂漠に消えた。

 だが彼の遺した一粒種、同じ魂の輝きを放つこの戦士が彼の魂を救い、そしてまたこの年老いた巫女に、果てしなき世界の叡智を示してくれたのである。

――おお精霊よ……。

 感謝の念に涙がとめどなく流れる。

 これでもう思い残す事は何一つ無い。自分はいつ死んでも良い。

 巫女の感動が収まった頃合いを見て、カサは、

「大巫女。僕の願いを告げてもよろしいでしょうか」

 仰天する。今のカサは、どう見ても死にかけの重傷人である。

「急がずともいいだろう、カサ。それよりも、今はゆっくり休め」

 ソワクが傷ついた身体を案じるが、

「今告げたいんだ。ここで。皆の前で」

 カサの決意は固い。

 巫女はうなずき、

「……言うが、良い……」

 カサがマンテウと並んで皆を向く。

 誰もが、大体予想をつけている。

 出てくるはずの言葉を待って、ヨッカやトカレ、エルやその他の邑人は、皆まぶしげにカサを見る。

 唯一ラシェだけが、照れくさそうに笑っている。

 そして、カサが己が望みを宣言する。


「僕は、新たな邑を作ろうと思う」

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