人心

 凄絶であった。

 カサが生きてここにたどりつくには、ここまで人間性を捨てねばならなかったのだ。

 その胡乱な目が、邑人たちを一瞥する。

——うまそうだなあ。柔らかくて、温かくて、瑞々しくて、ああ、今すぐ噛みちぎりたいなあ。

 邑人たちに食欲をむけ、唾液を垂らす。

 その心にはもはや理性の光は片鱗すらない。

 ただ渇きを癒すだけの、獰猛な本能だけがカサを突き動かしている。

 ヨッカは、変わり果てたカサの姿に慄然とする。

――これが本当に、あのカサなのか……?

 巨大な獣の頭部を左手に、足を引きずり、新鮮な肉が沢山並んでる光景に嗤いを浮かべ、涎を垂らしながら落ち窪んだ目で、誰から喰らおうかと邑人たちを一人一人検分している。

 ヨッカの体が震える。

 恐怖。

 ヨッカばかりではない、今たどりついたエルも、それ以外の皆も、カサを前にすくみ上がっている。誰も動けないのは、動けば食い殺されるから。普通の邑人だけではない、戦士階級の者たちですらこのカサを前にして、指一本動かせない。大戦士長のソワクまでもが、眼前の獣に呑まれてしまっている。

 誰もカサに近寄らないのではない。

 誰もカサに近寄れないのだ。

 いや、今一人後れてきた少女が、人ごみをかき分け、カサの前に進み出る。

「カサ……」

 この荒んだカサの姿を前にして、その顔は、喜びに満ち溢れている。

「カサ……!」

 少女がカサに近寄る。その歩みは迷いなく、あまりに無防備で、誰もそれを止める事ができない。いや、止めるという行動すらカサの放つ殺気に圧し潰される。

 カサが、肉食獣の目でラシェを見る。

――喰らい殺されるぞ!

 制止の声すらあげられない。誰もがラシェの死を、目の前の惨劇を覚悟する。

 遠巻きに見ていたエルが、脳裏のおぞましい光景に涙し、悲鳴を上げそうになる。

「……や、め……」

――やめて! やめて! ラシェ!

 全身をゾッと恐怖が駆けぬける。

 ラシェは躊躇うことなく両手でカサの顔を優しく包み、

「――お帰りなさい」

にっこり微笑みかける。

 誰も直後の惨景を疑わなかった。

 だがカサの顔に、かすかな表情が生まれる。

 嗅覚という原初の感覚を刺激され、砕いてるつぼにくべた記憶が、脳髄でふたたび形を取る。

「アッ——……アッ………、ラァ……」

 ラシェのまとう花の香りに、その瞳が確かな焦点を結ぶ。

 その涼しげな目元、笛のような声、こぼれる笑顔と涙。

「ラ、アア、アッ……シェ……」

 ずっと叫んでいたのであろう、カサの声は渇きに割れ、まるで獣の唸りである。

 だが、言葉を取り戻したカサの目に、理性の光が灯る。

「ラ、シェ……!」

 カサの手から獣の頭が滑り落ち、重い音とともに土煙をたてる。

 獣性の消えた顔に、優しい笑みが浮かび、ラシェと視線を交わす。

「……ラシェ……!」

 カサがズタズタに傷ついた腕を持ち上げ、ラシェを抱くよりも早く、ラシェがカサの首にかじりつく。

「カサ……!」

——ああ。

 不遇の恋人同士が、数々の苦難を乗り越え、今みなに認められて抱き合う。

 二人ともこの日をどれだけ待ちわびた事か。

 ラシェの花の匂いを胸いっぱいに吸い、カサは今生きている幸せを、心の底からかみ締める。

 ラシェもまた、恋人のの胸の中で、カサの存在を強く確かめる。

 カサからは強い獣臭がしたが、そんな事はまったく気にならない。

 愛おしい人が生きて己の腕の中にいる、これ以上何を望む事があろうか。

 感極まる二人に、周囲もようやく緊張を解く。

「カサが帰ったぞ!」

「戦士の帰還だ!」

「砂漠に新たな唄が! 新たな英雄が生まれたのだ!」

 口々に声を上げ、誰もがカサをラシェから奪い取ろうとするが、ラシェはもうカサを誰の手にも渡そうとしない。

 カサの体は、これよりその命果つるまで、ラシェただ一人のものなのだ。

 それを見てみなが笑い、カサも笑う。

 歓声が、カサを包んでいる。

 先ほどの沈黙を砂漠の彼方へと吹き飛ばさんとする、大歓声が。

 カサを囲む邑人が叫び、それを取り囲む商隊の者たちが祝福の声を上げる。

 こだまする歓声は、やがて波紋となりて砂漠の端々に届くであろう。

 それを届けるのも、エラゴステスら砂漠の商人たちの大きな役目なのである。

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