帰還
ラシェが今日も夕陽に祈っている。
その後ろに連なる人の数は更に増え、今や二百を超えんとしている。
彼らは、ラシェに祈っている。
砂漠にひざまづく、奇跡の娘。
いつしかそのような偶像が、ラシェに重ねられている。
ラシェは彼らを無視する。
自分の存在は、奇跡でもなければ霊的でもない。
ただ愛する男を待つだけの、どこにでもいるつまらない娘だ。
夕陽に祈る。
ただひたむきに、カサの帰還を信じて。
大巫女、マンテウに言っていない事がある。
あの祭りの頂点で、ラシェはもう一つ、啓示を受けていた。
それは、目蓋の裏にまでに焼きつくような鮮明さ。
夕陽を背に、太陽から歩いてきたようにカサが帰ってくるという、ラシェのもっとも待ち望む光景。
言葉に乗せれば遠ざかりそうで、誰にも言えなかった。
もしかしてアロも見たかもしれないが、マンテウには語らなかった。
――カサは、必ず帰ってくる。
ラシェがそう強く信じつづける事ができたのは、啓示がずっと心に残っていたからだ。
そして今日も、ラシェは祈る。
夕陽に向かって。
邑は、いつしか夏を終えていた。
本来ならばもう冬営地への移動を始めなくてはいけないのだが、ほとんどの邑人がまだ夏営地を離れようとはしなかった。
ここで、カサの帰りを待つために。
――早く冬営地に移らねば、ヒルデウールが来てしまうぞ。
焦れて急かす者も多かったが、それでも邑人も商人も夏営地に留まりつづけている。
彼らはカサの生還を信じているのか。
もしもそのように問われたならば、否、と答えるだろう。
現実ほとんどの邑人が、カサとガタウの生存を、絶望視していた。
それでも、彼らがここで待ちつづけたのは、ラシェの存在があったからだ。
奇跡の娘。
だが、祭りを二月、冬営地への移動を始めるはずの日から一月も過ぎ、そろそろ衆人の我慢も、限界にきている。
――幾ら信じても、結局は死んでしまったのだ。
消極的な諦観が、邑人たちの間ににじわじわと浸透している。
幾ら待てど邑に戦士が帰らぬ事が、悲観を日ごと裏付けている。
今日もまた夕空の下には、空虚な地平線が広がる。
夕陽と大地、ラシェが祈る先には、ただそれだけしかない。
風が吹く。
その時ラシェが立ち上がる。
驚きの顔。
だがその視線の先を幾ら探せど、誰も何も見つけられない。
後ろで祈っていた一同の困惑をよそに、ラシェの口から一人の戦士の名がこぼれる。
「……………カサ……………」
何名かがその名を聞き取れたが、地平線にはやはり何も見つけられない。
皆が不思議そうに顔を見合わせる。
「カサ……」
ラシェが、よろめくように前に足を運び、
「……カサ!」
そして、走り出す。
「カサ!」
サルコリの娘、奇跡の子の背が遠ざかってゆく。
だが幾ら見わたせど、誰も何も見つけられない。
見ていた人間の中でも皮肉っぽい者などは、あのサルコリ娘は、恋人の姿を待ちすぎて、おかしくなったんじゃないのか、そんな耳打ちをしている。
だが群衆もやがてラシェに引きずられるように、その後を追う。
見つけた。
ラシェは確かに、見つけたのである。
あの太陽の中に、遠い夕陽の中に、カサがいる。
ラシェは眼が良い。
カサと待ち合わせをしていても、いつも先に相手を見つけるのはラシェであった。
そのラシェの眼にだけ、カサの姿は映ったのだ。
カサを見つける事なら、この砂漠にラシェよりも得意な者はいない。
それだけ、ラシェの魂は、カサを求めている。
一つの魂の、分けられた片割れのように。
「…………カサ!」
息が切れ、手足が重くなってもまだラシェは走る。
「……カサ……カサ!」
走るラシェの後ろに、何百という人々がつづく。
その足音が、大きな騒音となって夕陽の大地に響く。
「カサ―――――――!」
その時、邑人たちの眼にも、その姿が飛び込んでくる。
無数の死肉鷲をひき連れた、何か重い物をぶら下げた、片腕の男。
使っている腕は、左。
――カサだ!
足の速い何人かがラシェを追い抜いてゆく。一時も早く、この砂漠に現れた新たな英雄にまみえる為に。
彼らはラシェを次々に追い越し、後方に置き去りにする。
カサの帰還は、カサの姿が確認されぬうちから邑を駆け巡っていた。
モークオーフ、戦士階級は言うまでもなく、ザンゼ、グラガウノ、ソワニ、カラギ、デーレイ、そして邑に逗留する商隊、ありとあらゆる人間が、カサの姿を求めて殺到する。
サルコリにまでその報は届き、総勢千名を超える人間が一気に集う。
彼らの勢いに、群れていた死肉鷲がパッと四散する。
そして、誰もが凍りつく。
両足を引きずり、歩いてきたのは紛れもなくカサ。
気弱げに笑う、子供に懐かれた優しい戦士。
日々修練を怠る事なく、誰もがその努力に敬意を払わずにはいられない真面目な男。
そこにいたのは、そんな生易しいモノではなかった。
満身創痍。
全身のありとあらゆる場所に、ありとあらゆる種類の傷を作り、ズタズタに破れたトジュのみをまとって、額にその切れ端を巻いている。
風を孕んだあの銀の髪は色素を失い、砂まみれで乱れ、白く変色してしまっている。
首には、無数の巨大な牙が吊り下げられている。
そして嗤いながら世界のすべてを脅迫する、青い瞳。
それは明らかにカサだった。
そいつはどう見ても、皆の知るカサではなかった。
ハアハアと息を漏らしながら血と肉片がこびりついた口で嗤い、黒ずんだ孔の様な眼で強い殺意をみなぎらせている。
近づけば、喰らい殺す。
何も言わぬ眼が、周囲にそう告げている。
狂人の相だ。
誰も、それ以上カサに近づけない。
「カサ……なのか……!」
走る男たちをすっ飛ばし、一番にその元に駆け寄ったソワクでさえ近づけなかった。
不用意に寄らば、ソワクであっても殺されていたであろう。
名だたるベネスの戦士階級の、新たなる長ソワクでさえ近づけないのだから、他の者たちはもっと近づけない。
だが彼らがもっとも恐れているのは、カサが左手に下げた、その物体であろう。
カサが手に握るのは、獣の牙、
誰も見た事のないほど長い、獣の牙。
そう、長きに渡る死闘を繰り広げた、斑の牙である。
だが、その牙に、まだ何かがぶら下がっている。
大きな、
それはとても大きな、
苦しげに眼を剥いた、
獣の頭部。
半ばで折れた槍が、左の眼窩から後頭部までを貫き、脳の中枢を完全に破壊している。
それを見た女が息を呑み、悲鳴も上げず卒倒する。
世にも恐ろしげな獣の面相。首から下は歪に、まるで食い千切られたように途切れている。
ぶえ。
カサが口から何かをこぼす。
それは毛と絡まり合った、皮と肉。
「喰った……のか、この獣を」
断面が粗いのは、カサがその干からびた首の肉を喰らい、血をすすって腹を満たしたからだ。
喰い千切られたような断面、ではない。
喰った痕、である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます