魂胆

 二昼夜走った。

 いや、もはや走ったなどとは言えまい。

 無我に手足をふりまわし、引きずり、ただ必死に邑を目指しただけだ。

 奴の姿はとうに見えなくなっているが、追ってきているのは間違いない。

 額に細く裂いた布を巻いて出血を止めたが、それでも血を多く失い、カサは酷く消耗している。

――殺される……!

 涙が止まらない。

 恐ろしかった。

 狩り場を越えてまでカサに追いすがる、マダラの執念が、恐ろしくてたまらなかった。

――僕は、殺されてしまう!

 怯えはもはや、体の一部のように皮膚に貼りついて離れない。

 恐怖に追い立てられ、ひたすら逃げる。

 逃げればどうなるというものでもないが、逃げるしかない。

 そしてついに精も根も尽き果て、カサが倒れる。

 カラカラに渇いた喉から力ない咳がこぼれる。

 胸元から、青い木片が転がり落ちる。

 髪の綺麗な女が浮き彫りにされた、青の木片。

 カサはラシェを夢想する。暖かく、柔らかいラシェ。

 花の香りのする少女。

 ビュウッ!

 ツェラン、湿気を含んだ重い風が吹き、カサはとっさに身を縮める。

 風鳴りを獣の遠吠えと勘違いしたのである。

 カサは懸命に立ち上がろうとし、また倒れる。

 折れた槍が手から離れて、転がる。

 咳。

――もう、駄目だ……。

 純然たる絶望がカサの心を侵す。

 自分はもうここで死ぬ。

 生まれ育ったあの邑まであとたったの四日か五日の行程だというのに、そこにたどり着けば幸せが待っているというのに、カサはここで死んでしまうのだ。

 無残であった。

 あと少しという所で、手の平からこぼれ落ちた幸せ。

 疲労困憊の中、木片を指先でもてあそび、カサは何もかもあきらめる。

――ごめん、ラシェ……。

 心折れ、すべてを放りだし、絶望に身を任せたやるせない安堵感。

 あと少し、あと少しだというのに。

 あと、少しだというのに……。

 何かが、カサの内部で警戒の声を上げている。

 重要な何かが、カサの思考から抜け落ちている。

――あと少し……。

 判然としなかった念慮が、そこで急激に形を取った。


――……!


 邑は、もうほんの鼻先。

――僕は、それを案内してしまったのだ。

 なんという失態。

 このままカサが死んでも、それで終わりではなかった。

 斑は賢い。

 獣とは思えないほど知恵が回る。

 カサの逃げる先が、カサたちの集落である事に気づかない訳がない。

 自分の愚かさに、腹が立つ。

 奴が邑にたどり着けば、惨劇が始まるであろう。

 ヨッカ、ソワク、

――そして……ラシェ!

 彼らに死の危険が迫っている。その原因を作ったのはカサ自身だ。

 グ。

 カサが槍を握る。

 折れた槍だが、かまうものか。

 ガタウは、折れた槍で“片目”に止めを刺した。

 カサはガタウではない。

 あの獣を斃すなど、相打ち覚悟ですらできると思えない。

――だが、やらねばならぬ。

 カサは、覚悟を決める。

 生きるのはやめた。

 ここで命を捨ててやる。

――だが、斑。貴様も無事では済まさない。

 五体満足で邑にたどり着かせてなるものか。

 この命をくれてやっても奴を止められぬのなら、腕の一本、爪の一つでも殺いでやる。

 少しでも多くの手傷を奴に負わせ、苦しめてやる。

 カサの眼がギラリと輝く。

 革紐にくくった中から牙を一本抜き、短い槍を作る。

 力を抜き、槍を左手にぶら下げる。

 死を覚悟した、

 いや。

 いいや違う。

 カサは死を決意した。

 その顔は凄絶な力を帯び、見る者がいればガタウと見まごうであろう。

 空色だったカサの瞳にガタウと同じ闇が宿っている。

――奴を、ここで斃す。

 カサの意識が急速に変容してゆく。

 斑を迎え撃つために、己の奥深くに眠る獣性をひとつずつ開放させてゆく。

 幸せも悲しみも、人間的な記憶全てを、鬱屈した怒りで塗りつぶしてゆく。

 ヨッカや、セテとの暖かな幼少期。

 ガタウやソワクとの、戦士階級における、厳しくも心地よい一体感。

 そして、ラシェとの、密やかでくすぐるような甘い時間。

 己自身を人間に縛りつける最後のつながり。

 それらすべてを根源的な破壊衝動のすり鉢に放り込み、噛み砕き、黒々とした闇の内腑に飲みくだす。

――僕はここで死ぬだろう。

 己のすべてを賭してカサが死に場所を決める。

――あいつは大喜びで僕を喰らうだろう。

 奴の気配が迫る。

——そんな暴虐を、許すのか。

 生命を奪われたカサの骸を、涎まみれにして喰い千切る斑の様が、脳裏に克明に浮かぶ。

 意識の変容が加速し、真奥しんおうの貪欲なる獣性が目を醒ます。

――それを許すのか? あの腹立たしい獣が、まるで弱い獲物にそうするように僕を喰らう、それを許すのか? やつが僕ののど笛に喰らいつき、この腕を、足を引きちぎり、腹を喰いやぶり腸を引きずりだし弄んで喰らい、僕の血を啜って渇きを癒す、そんなことが許せるのか?

 暁光が、傷口のように東の空を切り裂く。

――ふざけるな。ふざけるなふざけるな。

 地平が、ふきだす血潮のように赤らんでゆく。

——喰われるぐらいなら喰ってやる。

 意識が急速に獣の衝動に呑まれてゆく。

――ああ、アア、大きくてうまそうな肉だなあ。

 その巨体の輪郭が、鮮血の朝陽に浮かび上がる。

――あいつをいたぶり殺して喰らうの、愉しみだなあ。

 口の中に涎が湧く。

 カサがジュルルと唾液をすすり、歯を剥いて嗤う。



 朝陽が昇る。

 光が赤い大地を水平に舐め、すべての輪郭を浮かび上がらせている。

 カサは独り立っている。

 欲望を剥き出しに嗤っている。

 その表情は読み取りづらいが、目はもはや人間の心を宿してはいない。

 砂丘の尾根から、後ろ肢を引きずって黒き獣が姿を現す。

 真っ黒で大きな塊が地平の向うから迫る。

 斑だ

 そして、一人と一頭は向かい合い、

 同時に――吼えた。

 二頭の獣の絶叫が、朝の空気を焦がす。

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