肉薄
五日目の夜に、邑跡にたどりついた。
気が急いているせいであろう、カサの歩みは速く、予定よりも半日早く目的地に到着できた。
荷を降ろし、井戸に取り付き大急ぎで喉を潤して、空の革袋に水を貯める。
ヨッカが持たせてくれた酒の袋にも水を入れ、火を熾して食事を取り、そのまま横になる。
夜空。
星に満ちた闇の中央で、月が欠けつつある。
――邑を出て、どれほどの時間が経ったのだろう。
狩り場の最奥、真実の地。
そこで過ごした時間はあまりに濃密で、その期間が一月にも満たぬとは、いまだに信じられない。
ガタウと共に戦い、そしてガタウが斃れ、背筋の凍る経験を幾つも積んだ。
あの獣、斑との長い戦いはその最たるものだ。
カサは目蓋を閉じる。
星月の微かな光線はさえぎられ、カサは安らかな眠りに落ちてゆく。
――……。
誰かが、カサを呼んでいる。
槍を振りあげ、カサに何かを伝えようとしている。
その声が小さすぎて、聞き取れない。
カサはもどかしくなり、そちらに近づいて耳をそばだてる。
まだ何も聞こえない。
カサはもっとその声の傍に近づき、
「カサ!」
名前を呼ばれて、跳ね起きる。
そしてカサは、恐ろしいものを目にした。
星空をさえぎり、カサを押しつぶそうと、巨躯をもたげてくる、獣。
月を頭に冠し、ギラつく大きな眼がカサを見下ろしている。
全身傷だらけで、折れた槍が、腰に刺さったままになっている。
荒い息が漏れる口元では、怒りと食欲に、粘りの強い唾液が糸を引いている。
そして、眼。
炯々と輝く瞳が、恐ろしいほどの熱を伴ってカサを焼く。
斑だ。
カサを追ってきたのだ。
真実の地を出て、狩り場を越え、ここまでカサを追ってきたのだ。
怒りに猛り、食欲に狂った、立てば十八トルーキ(約六メートル)を超える獣が、カサを引き裂き、その血肉を食らうべく、動かぬ後ろ肢を引きずり、狩り場から遥か離れたこの地まで、気の遠くなるような追跡をつづけてきたのである。
カサは恐怖する。
――こいつは、狂っている。
眼が狂っている。
その牙も、爪も、毛も、皮も、総身に狂気が充満している。
狂った獣がカサにのしかかり、その牙をむき出しにし、噛み砕かんと迫る。
恐怖にまみれた一瞬の対応としては、カサの判断は的確であった。
後ろに下がらず、獣の脇の下を転がり抜けたのである。
そして、一気に走り出す。
食料も水も、何も持たず。
首にかけた革紐と牙が重い。
手には折れた槍があるが、槍先のないこんな物では奴に傷一つつけることすら難しい。
戦えば、勝ち目どころかカサには抵抗する手段すらないのである。
眼に刺すような痛み、視界が赤く染まる。
かわした際に爪がかすめたのであろう、カサの額が割られている。
皮膚は鋭く深く裂け、微かに骨が露出する。
――……眼が……!
頭部の出血は、量が多くなる。
血はとめどなく流れ出し、目に入る。
手で押さえるが、そんなもので出血は止まらない。
カサは闇夜を必死で走る。
「ゴワアッアアアアアアアアアアアアアッアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッアアアアアアアッアアアアッアアアアアアッアッアアッ!!!!」
怒り狂った獣が、生じた身内の憎悪を搾り出すがごとく咆哮する。
――逃げられまいぞ!
奴が、脅迫してくる。
――どこまで逃げようと、必ず貴様を追い詰めその腹を喰い破ってやる。貴様に安穏な夜などもはやないと思え!
そうカサに告げている。
耳にこびりついた咆哮を拭い去るように、心を喰らい始めた恐怖におびえ、カサはただ走る。
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