焦耗

 エルは焦れていた。

 カサが帰ってこない。

 通常、真実の地に向かう試練は、早くて一月あれば終わるとされているのに、一月半を越えても、カサは帰ってこない。

――もうガタウとカサは、死んでしまったのではないか……?

 これもまた噂である。

 あのガタウが同行してすらこれだけ帰還が遅れているのだ。

 楽観は日ごと失望へと色変わりしている。

 ラシェは、相変わらずあきらめる色を見せるでもなく、懸命に夕陽に祈りつづけている。

 もうごまかす事はできまい。

 エルは、ラシェを好きになってしまっている。

 いくら叩かれようと折れぬ心が、そして、一途にカサを思いつづける姿が、エルを捕らえて離さないのである。

 エルは、ラシェのように生きたかった。

 それ故、ラシェが傷つく所を見たくないのである。

 だが、ラシェはカサを信じて祈りつづける。

 今日もまた、夕陽に向かい、祈りつづけている。

 昨日、エルは我慢できず、鬱憤をラシェにぶつけてしまった。

 夜、ラシェの天幕を訪ねて、何となくその話になったのだ。

 帰るかどうかも判らぬカサを想いつづけるラシェを、見ていられなかった。

 ラシェは常々、カサが死ねば自分も死ぬと公言していた。

 その言葉を聞くたびに、エルの苛立ちは募るのである。

「そんな事言わないでよ! もしも本当にカサが帰ってこなかったらどうするのよ!」

 この言い方に、ラシェがカチンときた。

「もしも本当にだなんて、帰ってこなければ、私は本当に死ぬつもりよ」

「そんな事ばかり言って、せっかく邑の人たちもラシェの事を認めてきているのに!」

 エルは、選ぶ言葉を間違えた。

 ラシェは本心では死ぬつもりなどないのだと、言外に語ってしまった。

 そしてそれは、エルの本音でもあった。

――何だかんだ言っても、その時になれば、恋人の事ぐらいで死ぬ者などいない。

 エルならそう考える。

 ラシェは違う。

 ラシェにとっては、カサのいない砂漠など、息をする価値もない世界である。

 カサこそラシェの生きる意味そのものなのだ。

 一度カサに別れを告げた時、ラシェの生活は、あまりにつらいものに変わった。

 幼いカリムがいなければ、ラシェは母が亡くなった後に緩慢な死を選んだだろう。

 あの時ラシェは、生きる意味を見失ったのだ。

――今のこの命は、カサに貰ったものなのだ。

 はぐれ戦士たちから乱暴に扱われた事件を発端とした、あの一連の騒動でカサに救われて以来、ラシェはずっとそう思って生きてきた。

 だからカサが死ねば、自然じねんラシェも死ぬべきなのだ。

「カサは、死なないわ!」

 そういう啓示を、ラシェは祭りの時に受けている。

 だからラシェは、カサが生きて帰る事を疑ってはいないし、もしそれが叶わないのであれば迷わず死を選び、そして精霊の世界でカサと結ばれたいと考えるのである。

 その心情はエルにとって理解の及ばない領域にある。

「そんな事、判らないじゃない! カサがいくら優秀だからといって、帰って来れるなんてどうして言えるのよ! たくさんの戦士が、真実の地で命を落としてきたのよ!」

 ラシェが言葉につまる。

――どうしてエルは、こんなにひどい事が言えるのだろう。

 エルもカサが好きだと言ったではないか。

 なのに、なぜ平気な顔でカサが死ぬかもしれないだなんて言えるのだろう。

「……エルは、カサの事を信じていないの? カサを好きだと言っていたのに、信じられないの?」

 ラシェは目にいっぱいの涙をためている。

 エルは、カッとなる。

「ラシェが死ぬだなんて、そんな事簡単に言うからじゃない! もしラシェが死んだら、カリムはどうなるの? その事を考えて、まだ死ぬだなんて言えるの?」

 正論だが、それは言い逃れだ。

 ここでカリムを話題に持ち出すのは、負けを認めたに等しい。

「……カリムは」

 ラシェは暗い顔になる。

 もしもラシェに心残りがあるとすれば、それはカリムの事だけである。

 だが、それも含めてラシェは決めてしまっている。

「カリムはもう十歳なのだから、何でもできるわ。繕い物もできるし、かまどを作って煮炊きもできるし、天幕のたたみ方だって知ってるもの」

 その無責任な物言いに、エルはまた腹を立てる。

「天幕がたためても、一人で冬営地まで移動できる訳ないじゃない!」

 エルの言うとおりなのである。

 だから自分の無責任さも、ラシェは自覚している。

 ラシェは最近、カリムに言い聞かせている。

――カリム、今私たちがこうしていられるのは、カサのおかげ。カサがいなければ、私は死んでいた。

 二人きり、夜の天幕内で。

――もしカサが帰ってこなければ、私もカサのもとに行く、カリム、あなたは一人で生きていかなければならない。

 カリムは神妙にうなずいた。

 そしてこの時も姉たちの会話を、天幕の端で手遊びしながら聞いていたカリムは、神妙に答える。

「ぼく、できる」

 カリムは、こちらを見ない。

「一人でも、何でもできる」

 カリムはラシェに似て、一本気だ。

 もうすでにつらい人生を覚悟しているのであろう、その表情は断固としている。

「無理よ!」

 エルは激する。

 こんなエルを見るのは、ラシェも初めてだ。

「だってカリム! あなたはまだ子供なのよ?! 自分の事ができるなんてのは、大人になってからでないと!」

「私たちは、サルコリだから」

 返すのは、ラシェだ。

「サルコリでは、ベネスの子たちのように、よわい十七になるのを待ってはくれないわ。動ける者は、みな働かなければならない。この歳で一人になることも、珍しくはないの」

 エルが何か言おうとし、無言で立ち上がり、そして怒ったまま天幕を出てゆく。

 せっかくラシェの身を案じて言ってあげたのに、ラシェは少しも耳を貸そうとしない。

――あんな強情な娘、勝手に死ねばいい。

 腹立ちまぎれにそんな事まで考える。

 怒りの原因に、エルも気づいている。

 エルは、ラシェほどカサを好きではない。

 それを思い知らされて、エルは頭にきたのだ。

 唇を噛みしめて歩くうちに、涙がにじむ。手の甲で目元をぬぐうと、もう止まらなくなる。

 前方をにらんで涙を流しながら大股に歩くエルを、鍋をかき混ぜているカラギの女が怪訝そうにみている。


 天幕に取り残されたラシェは、落ち込んでいる。

 エルにあのような事を言われたのも悲しかったが、最後の最後に、自分はサルコリだ、などという了見の狭い言葉を発してしまった事を悔やんでいる。

――サルコリだとかベネスだとか、一番気にしているのは私だ。

 サルコリだと自分を蔑む者を莫迦にしていたラシェだが、これでは自分も、サルコリに冷たい仕打ちをする者と変わらないではないか。

 これでよくカリムに、ベネスとサルコリは代わらないなどと、言えたものだ。

 自分に腹が立ち、涙が出そうになる。

 だが、ラシェは泣かない。

 もう泣かないと、決めたのだ。

 カリムが、目に涙をためて、手遊びをつづけている。

 ラシェは抱きしめてやろうかと思ったが我慢する。

 カリムは強くならなければならない。

 いつまでも子供ではない。


 そして今日も、ラシェは夕陽に祈る。

 カサの帰りを信じつつ。

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