真実

「………ここは………?」

 カサはしばしの間、呆然と立ち尽くす。

 風が消え、巻き上げられる砂煙も消え、視界が開けた。

 なのにカサの目の前に広がるのは、広い地平線ではなかった。

 壁。

 いや、岩だ。

 巨大な一枚岩が、そこにそそり立っている。

 岩肌は夕陽に照らされて、赤く光を放っている。

 それは息を呑むほど、荘厳な光景であった。

――これが…………!

 カサは不意に理解する。

――これこそが、砂漠の真実…………!

 巨石の足元にたどり着く。

 計り知れないほど大きい。

 高さは見当もつかず、両端を見れば地平線までつづきそうに長い。

 あの、狩り場でいつも見ていた岩山に、カサはついにたどり着いたのだ。

 視野すべてをうばう岩塊。

 足元、白い砂地との境界には緑が多い。

 掌ほどの幅の浅い川が流れ、近づけば岩が見えないほど植物が密生している。

 これだけ植物が生い茂っているというのに、動物の気配がないのはなぜなのだろう。

 動物だけではない、虫すら見あたらない。

 カサは手元の広葉樹に生る、緑の実を一つむしり、口に入れる。

 青い、そして苦い。

 顔をしかめてそれを無理に飲み干し、手の平ですくって、何度も水を飲む。

 顔を上げて、生い茂る木々の向こうに、不思議なものを見つけた。

 岩肌にこっぽり空いた、大きなあな

 地の底までつづきそうな、ゆるい傾斜の深い横穴。

 カサは吸い込まれるようにそこに入ってゆく。

 寒い。

 中の気温は、不自然に低い。湿気が多く、カサのたてる微かな物音が反響する。

 通路のように長い洞穴を、カサは迷う事なく奥へ奥へと進む。何者かに呼ばれているように、その足取りには迷いがない。

 進むごとに岩肌は狭く、低くなり、垂れ下がる鍾乳石や石柱が増え、カサの歩みを阻害する。

 足元は粘土。

 これが不透水層となって地質に水分を保っているのであろう。

 外からの光が途切れ、つかの間視界が失われる。

 だがしばらく経つと闇に慣れた眼が、ぼんやりと光る岩肌を拾い出す。

 発光性の苔類や地衣類が壁を照らしている。

 縦横にある光源に照らされ、立体感のない洞窟をさらに進む。

 岩壁はさらに狭まり、やがてカサは這いずらねばならなくなる。

――!

 足元が崩れてカサは大きく落下し、軟らかい地面に叩きつけられる。

 カサを受け止めたのは、肌理の細かな白砂。

 手をつくと、手首までがずぶりと沈む。カ

 サは慎重に身を起こし、

「ああ………!」

 そして、そこに見る。

 巨大な空洞。

 巨大な水源。

 地底湖という言葉を、もちろんカサは知らない。

 だが目の前にある光景がどういったものであるのかは、すぐに理解できた。

 これは砂漠の、いや、世界の中心なのだ。

 世界はここより始まり、ここに終わるのだ。

 天井や壁には一面、発光植物が光を放ち、先ほどよりも明るく、幻想的な空間を形づくっている。

 気がつくと、カサは水の中に歩みを進めている。

 ザブリと足首が水に飲まれ、すぐに膝までが沈む。

 何と澄んだ水であろう。

 汲んでしばらく置いておかねば泥濁の沈殿しない、邑の井戸水とは大違いである。

 水はどこまでも透明で、水底の砂は果てしなく白い。

 左手で水をすくい、

 そして、カサは一口、その清水を喉に流す。

 極限にまで達していた疲労が、カサをじわりと飲み込む。

 カサの体がゆっくりと前にのめり、水面が優しく全身を受け止める。

 傷だらけの体が、深い水底へと、静かに沈んでゆく。

 たゆたう意識が、次第に溶けてゆく。



  闇


  光


  青


 ……青?

 感覚も感情も、記憶すらない世界に、カサはいる。

 己の存在を意識すると、拡散していた光が収束し、カサの体と記憶を形づくる。

 違和感。

 とうの昔に失ったはずの物がある。

――右腕が、ある。

 喜びもなければ恐怖もない、この時カサはただ、周囲を観測するだけの装置である。

 目の前で、何かが回っている。

 夜のような暗闇の中、回る球体。

 色鮮やかで不規則な模様が、全面に描かれている。

 いや、模様ではなく、絵であろうか。

 多いのは、青。

 空のように真っ青な、青。

 次に、まばらに散る白。生成りの生地のような、純白の白。

 それから、茶と緑。赤色砂岩のような赤茶色と、雨後の新芽のように鮮やかな、緑。

 その時球体の向こうから、もう一回り小さな球体が顔を出す。

 黄味がかった、白。

 表面に、軽石のような無数の窪みがある。

 何かが閃く。

 首をめぐらせると、そこに強い光源を見つける。眩しくて直視できないほど強い光だ。

 直感が、理解に変わる。

――あの眩しいのが太陽で、そして表面が荒れた白いのが月………。

 そう、そして

――この青い球体が、僕らの大地なのだ。

 だが、それでは何かがおかしい。カサの見慣れたものがない。

――砂漠は? 僕らの砂漠は、どこなんだ?

 ゆっくりと回る球体の側面に近づき、それを見つける。

 そこは今まさに夜になりつつあった。

 水に浮いた、ひと抱えほどの大地の、ほんの一握りの砂地。

 そこが、カサたちの住む砂漠であった。

 人が懸命に生き、そして死んでゆく砂漠。

 世界の全てだと思っていた、赤い大地。

 それが、これほどにもちっぽけな場所だったとは。

 カサが、カサたちの住む砂漠を包み込むように、愛しげに手を当てる。

 この中に、カサに知るすべてがある。

――僕たちは何と儚い存在なのだろう。

 仙人掌も、人間も、獣も、そしてヒルデウールでさえも。

 世界をも揺るがせたあの峻烈なる嵐が、たったこれだけの場所でしか吹かぬちっぽけな風だとは。

――僕たちは、何と小さく、懸命な生き物なのだろう。

 そして、

――この世界は、何と大きな装置なのだろう。

 カサの心に、何かが広がってゆく。

 すべてを俯瞰した人間だけが持ちえる、とても広大な視野と、それにともなう価値観の変質。

 心を震わせる感慨に、全存在を浸す。

 カサという器が、力強く重みのある何かに満たされる。

 カサの肉体がとろけて曖昧になり、意識が放散する。


  青


  光


  闇


「……ぅ……」

 自分が漏らしたうなり声で、意識が戻る。

 カサは、突っ伏して倒れていた。

 手をついて、身を起こす。

 右腕はない。

 左手には、しっかりと槍を持っている。

 首をめぐらせると、大きな岩山がそこにある。

 あの洞穴は、どこにも見当たらない。

――夢……。

 でない事、カサには解っている。

 あれは、夢ではない。

 あの啓示こそが、砂漠の、いや世界の真実なのだ。

 カサは立ち上がる。

 一体どれほど気を失っていたのであろう、全身の傷は回復が始まり、皮膚の裂け目から再生をしるす薄朱色の肉芽が見えている。

 全身にのしかかっていた疲労は、まるで吹き均された様に、掻き消えていた。

 最高の状態ではないが、疲労が疲労を生む循環からは、抜け出せた。

 カサが岩山に背を向ける。その先には、あの砂煙の世界。

――"マダラ"はまだ、そこにいる。

 あの獣は、カサをつけ狙っている。

 奴はこの程度であきらめたりはしない。

 その命果てるまで、カサを追いつづけるであろう。

 今カサは、食料もなければ水も持ち合わせていない。

 カサの最大の導き手はこの世を去り、残ったのはこの槍一本のみ。

――いや、まだ僕にはラシェがいる。

 愛しいラシェ。

 彼女のために、僕は生きねばならぬ。

 カサが決意と共に足を踏み出す。


 そこがどれほど過酷な世界なのかなんて、嫌と言うほど知っている。

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