片目

 満月。

 獣が咆哮する。

 そのギラついた、たった一つの銀の虹彩が二人を捕らえる。

 いや、カサなどには、眼もくれない。

 その眼が射抜くのは、ガタウ。

 片目のその獣が、ガタウの存在を認めて絶叫する。


「ゴワアアアアアアアアアアアアアアア!!!!! アッアッア! ア! ア! アアアアアアアアアアアアアッ!!!!」


 獣が吼えた。

 大地さえ揺るがすその声量は、物理的な力となってカサたちの体を震わせる。

――なんて大きな獣だ……!

 カサが愕然とする。

 大きすぎた。

 直立すれば体高十七トルーキ(約五,六メートル)に達するであろう巨体。

 これは一般にコブイェックと呼ばれる四足獣、その成獣平均の1.5倍近い大きさであり、縦に大きければ、奥行きも幅もそれに比例して大きくなる。

 体重を割り出せば三倍近い、異常な大きさの個体だった。

 カサは戦慄する。

 こんなのは、人間の手に負える生き物ではない。

 この獣に立ち向かう力など、人間は持ち合わせていない。

 自分はここで死ぬのだ。

――ラシェ……!

 大切な人を想い浮かべ、必死に勇気を奮い起こすカサ。

 だが獣の圧倒的な姿の前に、その熱量はあまりにもはかない。

「生き永らえていたか……!」

 だが、おびえるカサの横で、ガタウは狂喜していた。

「……ついにまみえる事ができたな……!」

 恐怖と興奮、絶望と歓喜。

 そう、この個体と再びまみえる事こそ、この真実の地で、ガタウが何よりも求めた物なのである。

「遭いたかったぞ“片目”よ! 貴様をこの槍で斃す事が、この俺のただ一つの望みだったのだ!」

 片目とよばれた獣が顎を開く。

 人の手首から肘ほどまでもあろうかという、巨大な牙。ガタウの記憶にあるものよりも、その長さが増している。背も伸びたらしい。あの時も大きかったが、十五トルーキ(約五メートル)程度であった。

「ゴワアアアアアアアアアアアアアアアッアアアッアアアアア!!!! アッアアアアアッアアッアアアアアアアアア!!!!」

 巨大な肺からふりしぼられる、長く耳をつんざく咆哮。

「どうした! 喰らいたいか! お前の目玉を奪ったこの俺を!」

 ガタウが絶叫に応ずる。

 この男がこんなに興奮しているのを、カサは初めて見る。

「さあ来い! 食ってみろ! 俺のこの、残った腕をも食らって見せるが良い!」

 片目が残った右眼でガタウをにらむ。

 左目を奪われて以来、片目はずっとその姿を追い求めていた。

 そしてガタウも、ずっとこの獣を求めていたのである。

 己の左腕を喰らった、この獣を。



 獣は執拗であった。

 当時、ガタウは齢二十。

 面立ちにはまだ甘さが残り、邑で最高の戦士と呼ばれてはいたが、今ほど突出した槍を備えていた訳ではなかった。

――こいつをしのぎきれば、邑に帰れる……!

 その思いだけで、ガタウは己を保っていた。

 今では名も思い出せぬ、愛しき女の待つ邑へ。

 ふくよかなその胸に抱かれて安らかに眠る事だけが、ガタウの求めるものであった。

 だが砂漠の真実を手に入れ、あとは邑に帰るだけというガタウの前に、この獣が立ちはだかった。

 その巨体にガタウは絶望した。

 こんなものが、狩れる訳がない。

 この獣は、槍を取って獣を狩るという行為のなしえる限界を、はるかに超えた存在だ。

――逃げるしかない……!

 問題はその方法だった。

 二晩にわたって、ガタウはこの獣から逃げつづけていた。

 幾度となく振り切っても、獣はガタウの痕跡をたどってなお追跡してくる。

――どうする……。

 ガタウは考える。

 活路は見つからず、状況は閉塞していた。

 打開するには、何か決定的な展開を作らなければならない。

 でなければただ己の死を待つのみ。

 巨大な分だけ鈍重であっても、移動するだけならば獣の方が早いのである。

 迷ったのはわずか数瞬であった。

 ただ逃げるのは不可能。

 何としても一撃、それも痛烈な一撃を奴に加えねばならない。

 ガタウには、確信があった。

――狩り場に抜ければ、奴を撒く事ができる。

 大小の岩が並ぶ狩り場。

 そこに入ってしまえば、地の利は自分に働く。

 だがそこに至るのもまた至難の業。

 ガタウは悲鳴をあげる肉体を酷使し、疲弊に文字通り血を吐きながら前進した。

 ガタウは砂煙の向こう、接近しつつある奴の気配に感覚を集中する。

 獣が猛追し、ガタウに肉迫する。

 裂帛の気合いが、獣の咆哮と重なる。

 ガタウの突き出した槍先が頭蓋眼窩に到達した瞬間、獣の鋭い爪が薙ぐ。

 その戦いで獣の片目を奪ったものの、ガタウは腕を失った。

 千切れた自分の腕を右手にぶら下げ、ガタウは半死半生で邑に帰りついた。

 だが戻った邑に、ガタウを待つ者はいなかった。

 彼が帰り着くその前夜に、女は死んでいた。

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