業を焼く火

 陽が沈み、邑に夜が訪れる。

 サルコリの集落もとっぷり闇に沈む。

 そのサルコリの中に、まだ真新しい天幕が複数張られた一角がある。

 汚い天幕が並ぶ中、その一角は明らかに周囲から浮いている。そこに住むのは、戦士階級を追われた件の男たちだ。

 彼らの凋落は、見目にも明らかである。戦士のみに許された赤いトジュやショオは取り上げられ、粗末な生成りのトジュのみを身にまとっている。

 後遺症にも悩まされている。

 ウハサンは、カサに蹴り上げられた際に睾丸を片方潰され、骨盤を砕かれて歩行が困難になった。

 キジリはいまだに血を吐き、デリは潰された鼻と頬骨が陥没したままの固着し、組織を潰されて嗅覚を喪失した。

 ナサレィはウハサンよりもひどく、脊椎に損傷を受け、首から下全身に痺れと震えが残った。

 誰よりもひどいのはラヴォフだ。

 顎の骨は砕かれたまま、いびつに癒着し、門歯と犬歯全てと、臼歯の多くが抜け落ちて口が閉まらなくなり、涎を垂らしつづけている。

 口蓋を破った門歯が脳を浅く傷つけ、髄液が漏れ、絶え間ない頭痛と時々襲う悪寒に悩まされつづけている。

 舌と口が自由に動かせないので声は言葉にならず、手足も痺れて一人では立ち上がる事もできず、ラヴォフの天幕は自身の体液と汚物で、異臭を放っている。

 仲間たちの誰も、ラヴォフに手を貸そうとしない。

 見捨てられた彼らの中で、ラヴォフは仲間にさえ見捨てられていた。

 彼らの怪我や後遺症の多くは恒常的なものであり、この先回復する見込みはないであろう。

 唯一日常生活を困らぬ程度の後遺症で済んだトナゴであるが、こちらも誰も相手にしない。

 もともと皆から疎まれてきた男である。

 サルコリに放逐されたとて、哀れに思う者もいない。

 彼らと交わるサルコリは、一人としていなかった。

 サルコリはベネスから放りだされた者を警戒するが、この元戦士たちは、働かぬくせに気位だけ高く、他のサルコリを蔑むので、サルコリたちは早くも彼らを疎んでいた。



 新月。

 星だけの夜。

 彼らの天幕の並ぶ一角に近づく影がある。

 人影が二つ。

 男女である。

 二人が真新しい天幕の一つに忍びいる。

 息を殺し、中の人間を確かめる。

 異臭に眉をしかめながら、横たわっている男の顔をのぞき込み、目的の人物である事を検める。

 音なく戸幕を下ろし、炉を吹き熾して灯りにする。

 片割れの男がその人物の上にまたがり、腕を押さえる。

 女が布を水に浸し、絞らずに寝込んだままの顔に押しつける。

 男が目を覚ます。

 ラヴォフだ。

 息ができない。

 誰かが胸の上に乗り、体が起こせない。

「――――!」

 叫ぼうとするも声が出ない。か細い熾き火に浮かびあがる二人の顔が、ラヴォフの眼に映る。女の顔に見覚えがある。強引に関係を持った女だ。好きな時に犯し、それが終わるとさっさと寝床から蹴り出した女。自分の所有物のように欲望の捌け口にだけ使っていた女。

 その女が、ラヴォフに復讐に訪れた。

 男は、ラヴォフの知らない人間だった。夫である。ずいぶん前からラヴォフと妻の関係に気づいていたが、凶暴なラヴォフに手を出す事ができず、憤懣やるかたない日々を送っていた。

 だがラヴォフが自身の愚行によりべネスをたたき出され、不具となり、誰からも顧みられずサルコリに落ちると、煮えくり返った怨念を晴らさんと二人でこの天幕に忍び入った。

 驚愕に見開かれたラヴォフの眼。

 だが濡れ布巾にふさがれた口では助けも呼べず、重い障害を残した手足では男を払いのける事もかなわない。

 見下ろす男女の表情は、憎しみに満ちている。特に女だ。必死に抵抗したというのに、この男は力ずくで自分を汚した。それも笑いながら、殴りながら。

 女はラヴォフの言いなりになりながら、この日をずっと待っていた。

 この卑劣な男の命を、この手で奪えるこの夜を。

「―――! ―――!」

 抵抗するラヴォフを、二人は必死で押さえつける。ラヴォフの眼からは涙、口に溜まった唾液が気管に入り、喉が激しく痙攣する。鼻も口も濡れ布巾で押さえられていて、ろくに歯のない口では咬みつく事もできず、やがてラヴォフの視界は酸欠で黒く塗りつぶされてゆく。血が上った頭は割れるように痛み、喘鳴にあえぐ肺に空気が入ってくる事はない。

 見下ろす女の目に浮かんだ憎悪の色は、あの夜、ヤムナたちを殺した獣と同じものだった。

――奴だ、奴がこんな所にまで来た! 食い殺される! 誰か助けてくれ!

 意識が混濁し、現在と過去が脳内で混沌と混ざる。悲鳴と泣き声は誰にも届く事なく、全身を苛む激痛の中、やがて幾度か痙攣し、ラヴォフの呼吸が停止する。

 程なく心臓も停止、瞳孔が開き、失禁しながらラヴォフは絶命した。

 最後の瞬間、ラヴォフは命乞いしたかもしれない、哀れに謝罪して贖罪を求めたかもしれない、だがそれを聞くものはおらず、憎まれし罪人としてただ無惨に死んだ。

 その死をしつこいほど確認した後、夫婦は天幕を出る。

「ヒッ!」

 鉢合わせたのはトナゴである。

 人を殺したばかりの二人の目は、異様な輝きを帯び、夜目にも判る殺気を放射していた。

 おびえるトナゴを無言でにらみつけ、二人はべネスへと帰ってゆく。



 翌日、ラヴォフが死んでいるのがウハサンによって発見された。

 絶命の瞬間まで苦しんだのであろう、悪霊に魂を抜かれたごとく苦悶に歪んだ表情。

 前夜目撃した一部始終を、トナゴは誰にも言わなかった。

 この先も言う事はあるまい。

 一言でも漏らしてしまえば、あの二人は、次はトナゴも殺そうとするかもしれない。

 そうなればトナゴはあのギラついた眼におびえながら、生きて行かねばならない。

 サルコリに落ち、どれだけ無様な生き様であろうと、ラヴォフの様に無残に死にたくはなかった。

 恐怖に追われ、一度として立ち向かう事なく逃げ続けたトナゴ。

 カサに殴られたこめかみが拳の形に陥没し、右の眼球は圧迫されて白目が汚く赤く濁っている。右耳の聴力も下がり、脳室の変形で頭痛が止まない。

 それはカサの怒りが卑賎の輩に刻んだ爪痕。

 他の者たち同様、戦士階級やベネスに存在する価値なきものとしての刻印。

 心弱きこの男たちはその後遺症により、他のサルコリたちよりも早く老い衰え、10年を待たずに死ぬであろう。

 彼らの集落はサルコリの中のサルコリとして扱われ、遠からず滅ぶ。

 魂が穢れているが故に、ただ蔑まれ野垂れ死ぬ。

 それがラヴォフやトナゴの様な者の末路であり、この砂漠の掟なのだ。



 サルコリでのラヴォフの死は、自然死として処理された。

 その死はベネスの誰にも知らされず、天幕や芯柱ははぎ取られて奪われ、悪臭をはなつ死体は弔われることなく、死肉鷲の巣の近くに打ち捨てられた。

 砂漠の信仰にしたがうなら、ラヴォフの魂は苦しみつづける悪霊として、永劫砂漠をさまようであろう。

 その死を悼む者は一人としていなかった。

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