霊域

 翌朝は早かった。

 ヨッカの造った酒は酔い抜けが良く、寝覚めは爽快であった。

 ガタウも昨日の表情豊かな様子はどこへやら、いつも通りの無愛想に戻っていた。

 カサはホッとする。

 やはりガタウはこうでいてもらわなければ頼りがいがないし、何よりもこれ以上笑われては堪らない。

 日が昇らぬうちに火を通してこしらえた最後の食事を終え、当面必要な物以外の荷物はみな埋めてしまう。

「ゆくぞ、戦士カサ」

「はい。戦士ガタウ」

 ガタウにつづき、狩り場の奥へと進む。

 振り返って見た狩り場の外、安全な世界に、カサは深い感慨を覚える。

――これでもう、互いを呼びあうのも、最後かもしれない。

 ふと浮かんだ考えの不吉さに気づき、それを振り払うようにカサは足を前へ前へと運ぶ。

 狩り場も奥にゆくにしたがい、転がる巨石はその数を増やし、視界の大部分をさえぎるようになる。

 これほどまで狩り場深くに侵入したのは、カサ自身も初めてである。



 二人が最初の獣に遭遇したのは、その日のうちである。

 昼。

 そこはまだ狩り場と呼ばれる領域を抜けてはおらず、獣もさほど大きくはない。

 それでも人よりは遥かに大きな個体である。

 事前の打ち合わせ通り、カサはガタウの指示で横並びに左右に展開する。

「ゴアッ………ゴアッ………!」

 食欲に狂った顔だ。これを二人で相手せねばならない事に、カサは恐怖を覚える。

 だが臆してばかりはいられない、

 槍をかまえ、獣の鼻先に突きつける。

 獣が槍先を凝視するのに合わせ、ゆっくりと先端をもち上げてゆくと、獣が釣られて立ち上がる。

 鬨の唄と包囲を想定していない狩りは初めてである。

 二人が槍を下ろす。

 一呼吸。

 構え、

 そして突く。

 二人の槍が、同時に獣の両後ろ肢を砕く。

「ゴアッ………!」

 獣の絶叫が響き渡らぬうちに二人ともに槍先を抜くが、カサの動作が一瞬遅れ、覆いかぶさるように倒れこんできた獣の前肢になぎ払われて槍身を折られてしまう。

「クッ……!」

 カサがひるんだ一瞬の隙に、へし折れた槍を乗り越え獣が襲いかかる。

 前肢が顔のすぐ前を通り過ぎ、風圧に前髪がそよぐ。

 一刹那回避が遅ければ、カサは顔を潰されて死んでいただろう。

 総身にどっと粘性の汗が噴く。

 あわてて次の槍を背中から取り出そうとするが、慣れない動作にもたつく。

 獣がカサに追撃を加えようとしたその時、ガタウの槍が脇の下から、獣の心臓を貫いた。正確無比な一撃は、まだ若い個体の心臓を完全に破壊しつくす。

 獣の巨体が崩れる。

 ガタウはもう、槍を抜いている。

 刺し放しでは、槍が折られてしまうというガタウの忠告の意味を、カサはゾッとするほど思い知った。

 やがて獣が絶命し、ガタウは獣の牙を抜く。

 赤い筋の通った、左の牙。

 獣から獲れる物ではこの左の牙がもっとも価値のあるとされている。

 彼らの部族では、ここに獣の魂が宿ると信じられており、死んですぐ外さねば、その魂は斃した戦士につきまとい禍をもたらすとされている。

 だから戦士は、獣を斃すとすぐにその牙を外すのである。

 ガタウがその作業をしている間に、カサは新しい槍身に槍先を結びかえる。

 折れた槍身は、捨ててゆくしかあるまい。

――ガタウがいなければ、僕は死んでいた……!

 油断した己の甘さに、失望を禁じえない。

——二の槍三の槍がないと、獣の狩りはこんなにも難しいのか。

 キリリと気を引き締めて、込み上げる恐怖と不安を噛みつぶす。

「ゆくぞ」

 作業を終え、再びガタウと歩を進める。

 ガタウが今しがたむしりとった牙を、胸に下げた革紐に結ぶ。

 斃した獣は大地にさらしたままだ。

 この先、獣を解体する事はない。

 その代わりに、こうして斃した獣の牙を、止めを刺した者が下げるのである。

 その横で、カサは、ずっと槍の抜き方を確かめている。

 このような失敗は、二度と許されない。



 二人は休まず歩き、その日の夜明けにカサたちはついに狩り場、ノエズィップナヒングルィ、死の匂いが漂う地と呼ばれる場所を抜ける。

 ここより先は何人なんぴとの侵入も許されぬ、真実の地と呼ばれる絶界である。

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